第二十話 平助、引きこもる
S・Cでの事件から、二日が過ぎた。
スマートフォンは電源を落とし、外からの呼びかけは全て無視していた。
考えがぐるぐると回って息苦しく、誰とも会いたくなかったのだ。
寝ても覚めても布団にくるまり、カーテンも開けない。
食事もトイレも最低限。服も着替えずに、ただふさぎ込んでいた。
「ああ、あの人は。こうなることを恐れていたのか」
いざこういう状態になってから分かること。それは、『父』の考えだった。
一人で暮らすというのは、自由である。
しかし一歩踏み外せば、怠け者に転落する。ふさぎ込んで、外に出られなくなる。
彼は、僕がそうなることを。恐れていたのだ。
古臭い呼び鈴の、鳴る音を耳にした。
大方、栄村さんか雅紀のどちらかだろう。
担任にそこまでの熱量はないし、かがりさんだったらとっくに忍び込んでいそうだ。
もしかしたら、佐久場さんかも。一瞬期待し、すぐ首を振った。
『用済み』の男に、彼女が会いに来る理由はない。
いずれにせよ、無視だ。会いたくないし、会える訳がない。そういえば、今は何時だろうか。
「夜の八時よ?」
声。時計を見る気力もなかったので、助かった。
いや待て。なぜ?
「人がいるからでしょ」
「うわああああああ!?」
枕元から聞こえた声。それはもう何度も聞いた声。
しかし僕は。慌ててせんべい布団から飛び起き、上の明かりを点ける。
「もう。バケモノを見たかのような声を上げなくてもいいのに」
そこには、紅い瞳のサキュバスがいた。
頬を膨らませて怒る姿は、歳相応の少女にも見える。
「ある意味バケモノですよね」
「人間よ?」
僕は小声で抗議するが、彼女は意に介さない。
しかし、彼女が出て来るということは。
「はい、今日は新月です。本体とメイド。それと貴方の間に。重大なバッドコミュニケーションが発生してるので、お節介しに来ましたー!」
ドンドンパフパフと響きそうな声で、目的を明かすサキュバス。
これは無理だった。
夜中に侵入して人のアレを啜る夢魔を相手に、防御を果たせる訳がなかった。
「まあ貴方を責める気はないから安心なさい。どちらかといえば答え合わせなんだけど」
夢魔はそう言って居間から離れ、冷蔵庫へ向かう。泥棒か?
「ちょっと、なにしてるんですか」
「腹が減っては戦ができぬ、って言うでしょう? ほとんど食べてないでしょ。だいぶやつれてるわよ?」
料理もできるのか。
いや、そもそも人の家の冷蔵庫を勝手に開けないで頂きたいのですけど。
「失礼な。本体がスキル持ちだし、そもそもサキュバスはオトコを歓ばせる術を、いくつも心得ているのよ? 後、ケチは生命より安いわよ」
なるほど。確かに胃袋を握って男をオトす手法は存在する。つまり料理は術になる。
そして、確かにケチで死んだら辛い。
「そういうこと。ひき肉、もやし。それと豆腐。ひとまずパーッと使っちゃいましょう!」
「ちょっとぉ!?」
いやいや。派手にやられると明日からどうすれば良いのか。
使うものを使えばなんとかできるけど、返します、って啖呵を切ってしまったので使いにくい。
「食材を使い切ります。貴方は例のお金を使って、買い物に行かざるを得なくなります。いい空気を吸います。気分サッパリ! オーケー?」
「オーケーじゃないですって! 理屈は合ってますけど!」
このサキュバス、策士である。
妙に自分が元気になっている。
さっきまでやつれてたのに。
「ああ。そうそう。『会話術』もサキュバスの技だからね。大変よ?」
ああ、これもサキュバスの技だったのか。
恐ろしい。でもありがたい。
「よし。話も済んだし、まずはシャワーでも浴びて来なさいな。貴方少し臭うわよ」
「えっ?」
指摘を受けて、僕は腕をクンクンと嗅ぐ。
臭い。
そういえば、服も着替えていなかった。
「すぐに洗ってきます」
「いってらっしゃい」
弾む声で送り出され、僕はトイレと一体になっている浴槽へ。
結局シャワーだけでは物足りず、湯船にも浸かることにした。
石鹸を使って体の隅々までよく洗い、頭にもシャンプー。普段よりも時間を掛けて。
この後使う予定の部分にも手をかけてから、僕は身体を湯に浸した。
熱くしておいたお湯が、ダレ切った心身を目覚めさせてくれる。
「ふいー……」
気の抜けた長い声を出しつつ、僕はようやく人心地ついた。
そういえば最初の逃走以来、他人としっかり会話を持てていなかった。
雅紀も栄村さんも、僕にあんまり声をかけてこなかった。
熱いお湯が、僕の思考を溶かしていく。
ガチガチになっていた身体が、お湯に溶けていく感覚。
もしかしたら、これを癒やしというのかもしれない。そうぼんやりと思って。
「お鍋、出来上がりましたけど」
「は、はい!」
外から掛かる声。もう何度も聞いた声。一瞬、なにか勘違いしそうになってしまう。
しかしここにいるのはサキュバスだ。
僕は頭を振って思考を戻し、『裸のまま』浴室を出て。
「あっ」
僕が見たのは、メイド服のサキュバス。
身体は、佐久場さんのもの。
あの素晴らしい肉体を、黒のメイド服に包んでいた。
そう。僕は、さっきの時点で全く気が付いていなかったのだ。
疲れとツッコミで、視野が狭くなっていたのだろう。
「別に、お構いなく」
顔を赤らめるでもなく、目をそらすでもなく。サキュバスは台所に立っていた。
普段の佐久場さんならきっと、目を背けていたと思う。
小さな違いが、今の状況を思い知らせる。
「失礼しました」
小さく謝罪して後ろを向き、身体を拭く。
その間にサキュバスは、机の上に夕食を揃えておいていてくれた。
解凍されたご飯に、グツグツと湯気を立てる鍋。
団子になったひき肉と、豆腐にもやしが投入されていた。
ところどころの赤い粒は、一味唐辛子だろうか。
なけなしの玉ねぎもオニオンスライスにされていた。
冷蔵庫を、本当に空にされてしまった。
「どうぞ」
「は、はあ」
冷蔵庫の中身を空にされたのは、困る。
しかし、サキュバスなりに僕の身体を気遣った結果でもある。
手を付けない方が失礼だ。
「いただきます!」
覚悟を決めて肉団子に手を伸ばす。
歯で潰した瞬間に肉汁が溢れ、舌を焼かれる。
「あつっ!?」
「一気に食べると火傷するわ……って、遅かったかあ。先月も火傷してたのに」
忠告を挟もうとしていたサキュバスが、呆れたようにうなだれた。
彼女もお茶碗を左手に乗せている。母さんのものだった。
「ほんひゃいは、ひこでふ」
ひとまず言い返し、キッチンに水を取りに行き。
舌が落ち着いた所で、気になったことを言う。
「食べるん、ですね。貴女も」
「私自身は要らないけど、本体は人間だからね。食べないと共倒れよ」
ああ、なるほど。それは実際よろしくない話だ。
僕は口をハフハフさせながら、美味しく鍋を食べていた。
米が進む、濃いめの味噌仕立て。少し喉に詰まらせかけて。
「がっつかなくても、まだ量はありますよ? お鍋は明日の朝の分まで用意しましたので」
悔しいが、凄く助かる。おまけに体の芯まで温まる。
天使かと思いかけ、夢魔かと思い直す。
ともかく。僕は久々に、食事の時間を楽しく過ごした。




