第十九話 平助、逃げる
「平。いいか。そいつは、恋だ。恋で違うんなら、惹かれているのさ」
酒の臭いと共に放たれた言葉に、僕は本気で首を横に振った。
「いや、そんな訳じゃ! そもそも相談に乗って欲しいと頼まれたから……」
早口や身振り手振りで、恋心を否定する僕。
だが、お京さんはその程度じゃひるまない。
「まあ気持ちは分かる。分かるが、アンタ、なにかを誤魔化してないかい?」
対面にいたはずの姿が、いつの間にか僕の横。
肩を組み、下から見上げられた。
「黙っといてやっから、ゲロっちまいなって。楽になれよ」
気安い言葉で、責め立てられる。
僕の気も知らずに、なにを言ってるんだ。
そう考えて黙りこくっていると、お京さんはやがて離れて。
「言いたくないならそれでも良いけどさ。私も責任は持てないし」
ワンカップを一気飲みし、ピーナッツあられを流し込む。
直後、再び僕を見据えて。
「でも、だよ。恥ずかしさとか、周囲の目とか。そういうのと踏ん切りつけて。一歩二歩でも進まんと。いつまで経っても、クソ真面目のヘタレのまんまだぞ? 話を聞く限り、それで先を越されたくせに」
一気に言い切られる、長台詞。
大分飲んだとは思うけど、それでも呂律はしっかりしていた。
「返事ぃ」
「はいっ!」
強めに言われて、つい反射的な返事。
いや、実際必要だとは思う。
逆恨みにも似た感情で、全てを抑え込む必要はないのだし。
「まあいいや、言いたいことは全部言った。平ー、つまみ買うか作るかしてー」
「分かりましたよ、もう」
思いをぶち壊しにするように、ちゃぶ台に身を委ねるお京さん。
まあ、肩肘張るよりはいい……のかもしれない。
***
そんな訳で。
いざ踏み込もうと思って日々を生活すると、機会は案外早く訪れるものらしい。
二日後の昼休み。偶然にもチャンスが到来したのだ。
一人の昼食を終え、手持ち無沙汰に教室から離れる自分。
佐久場さんは、さぞかし他の友人と食事をしているものだと思っていた。
だが。
トイレに入ろうとして、見てしまった。
佐久場さんは、弁当箱を手に。女子トイレから出て来たのだ。
「あ……」
どちらのものともつかない声の後。
佐久場さんはロケットスタート。背中の三つ編みが、大きく揺れる。
それを目印に、僕は追いかけて。
相手しか見えてなかった。
他の生徒が、こっちを見ていた気もしたけど。
三つ編みだけしか、目に入らなかった。
佐久場さんが、人通りの少ない階段へ逃げ込む。
僕もそれを追いかけて。
いつの間にか、もつれるように転げて。
「あっ」
「いっ」
気が付けば、僕が佐久場さんの下敷きになっていた。
互いに目を合わせたまま、硬直する。
人が見たら、「組み伏せている」とでも思われるのだろうか。
「い、今下りますから」
佐久場さんが慌てて言う。
顔は真っ赤で、瞳は蒼い。
ただし呼吸は、荒いものだった。
「ちょっと待って」
なぜか僕は、引き止めていた。理由は自分でも分からない。
あの日の姿と、比べておきたかっただけかもしれない。
顔から身体まで、舐め回すように見つめた。率直に言えば、エッチだった。
「な、なにを」
佐久場さんが、身をよじる。
その姿は、聖像にも見えた。
だとしたら僕は、許されざる罪人か。
そのまま一分は見つめていただろうか。
予鈴の音で、我に返る。
ただの一度も、あの日の姿は見えなかった。
「失礼しました」
佐久場さんに下りてもらって、僕は今の行為を謝罪した。
しかし、全てを語るには時間がなかった。
だから、踏み込むことにした。
「僕には。貴女に謝りたいことが、他にもあります。後でお時間を、頂けませんか?」
果たして、答えはイエスだった。
ただし佐久場さんの案内無しで、あのS・Cにたどり着くことが条件だった。
場所は覚えているので、簡単だ。と、思ったのだが。
「無い……?」
目の前で、ありえないことが起きていた。
階段も行き止まりも存在しているのに、扉だけがなかったのだ。
これでは、入りようがないではないか。
一旦地上へ出て、暮れる日を見送りながら考える。
まさか、サキュバスの案内がないと入れないのか。
しかし、アテなんてない。無理ゲーだ。
しかし。
「……一期一会だと思っていたのですが、珍しいこともあるものですね」
いつぞや聞いた声が、僕の耳に入った。
だがトーンが違う。この間は女の子の声だった気がするのに。
いや、そもそも世の中に偶然はそこまで……。
そう思って振り向く僕。
しかし現実は、二重の意味で残酷だった。
赤みがかった黒のショートヘアー。
中学生を思わせる黒の学ラン上下。
白の靴下に黒のローファー。
どう見ても本人なのは分かる。分かるけど……え?
「あー。先日は女装中でしたっけ。ええ、ちょっと趣味と一部実益で」
「はあ……。せ、先日は、どうも」
正直なところ、混乱していた。恐らく本来は男なんだろうけど。
そもそもなぜ、ここに居るのか。礼は言いつつも、頭はそちらに傾いていて。
その答えは、先方からもたらされた。
「貴方もここに用ですか? 招待か案内がないと、S・Cにはたどり着けないのですが」
やはりか。確信を得る。しかし。
「その言葉が出るということは、もしかして」
「ええ。ボクは呼ばれて、ここに来ております。そもそもS・Cとは『サキュバス・コンクリーブ』。集会場なんですよ」
聞いてもいない裏の事情まで、伝えてくる翼……くん。
だが、彼は男性だ。つまり。
「もしかして、君はインキュバス」
「ご想像に、お任せします。システム的にも排除されないと思いますし、貴方からお先にどうぞ」
思うところはある。あるが、ここで引けば結局おしまいだ。ならば。
行くしかなかった。薄暗い階段を、ゆっくりと下りて。
すると、今度はあった。あの日と同じように、S・Cの扉が、そこにはあった。
「いらっしゃいませ。澄子様から、お話は伺っております」
恐る恐る扉を開ければ、礼儀正しいマスターの姿。
僕はホッとした。ただ、話を聞いているということは。
打ち合わせめいたものでも、あったのだろうか。
「澄子様は先日と同じ席にてお待ちでございます」
マスターに促され、僕はゆっくりと歩く。
仕組まれたような展開だが、それを指示をしたのは佐久場さんだ。
その意味は佐久場さんに聞けばいいし、当人は目の前に居る。
「予想通り、幸運に恵まれたようですね」
「恵まれなかったらどうするつもりだったので?」
言葉のトゲを、抑え切れない。
ここまでの過程、偶然にもほどがありすぎる。
「他の機会を探したと思います」
嘘だ。直感が、そう叫んだ。
佐久場さんには、確信があった。それで、無茶振りをしたのだ。
「僕の謝罪を、受けたくないのですか」
一歩踏み込む。
佐久場さんの意図が、読めなかった。
「申し訳ございません。実は、先約がございました。既にここで会うと決まっていました。貴方に運さえあれば、その前後どちらかで会談を持てる。そう思ったのです」
先約。この言葉で、全てが繋がった。僕があの日、翼くんと顔を合わせたのは偶然だろう。
しかし佐久場さんが、翼ちゃんをここに呼びつけたのは事実。
そこから推測できる現実は。
「先日は逃げ出して申し訳ありませんでした。帰ります」
「えっ」
佐久場さんの驚いた顔。だが関係ない。どうせ芝居だ。
僕は用済みで、翼くんと契約の相談をするのだろう。
だから、一息に言い切ってやる。
「頂いたお金はかがりさんとお話して、何年かけてでも返します。それでは」
「ちょっと、ま……」
佐久場さんの言葉を聞かず、僕は早足で店を出て行った。
マスターも驚いただろう。だけど、もう関係ない。
「あら。もう終わりでよろしいのですか?」
「ええ。どうぞ」
外で待機していた翼くんの言葉も、半分聞き流した。
彼の姿が見えなくなってから、僕は走り出した。
一度も振り返らずに走り続け、そのまま自室に飛び込んだ。
この日。僕は泣いて一夜を明かした。