第十七話 平助、主従に出会う
まだ春とは名ばかりの寒さだけど。それでも走れば暑くなる。
ジャンバーを着ているのだから、当たり前だった。
我に返った時の僕は、ゼエゼエと息を切らしていて。
少し歩いてベンチを見つけると、一目散にそこに座り込んだ。
時計は見当たらないが、恐らく十分は走っただろう。
「マズい。ここ、どこだろう?」
軽く周囲を見回すが、見覚えはなかった。
かなり夢中で走ったし、仕方ない。ひとまず深呼吸を繰り返し、息切れが落ち着いた頃。
ゆっくりと空を見上げた。
東京では、綺麗な星空は期待できない。
だが、不思議と気持ちは落ち着いてきて。
涙をこぼさないように、見上げ続けて。
「やっちゃったな」
興奮が鎮まると、後悔の感情が起こった。
いくら気が動転したからといって、走り去ってしまったのは流石にマズかった。
なにより、この件の最大の問題点は。
「雅紀にも栄村さんにも相談できないな、これ」
相談相手がいないことだ。
カモフラージュにも限界がある。
隠し事をしている事実だけは、栄村さんにバレている。
「どうしよう」
ボヤきながら空を見上げていると、今度はだんだん寒くなってきた。
仕方ないので、文明の利器・スマートフォンに頼ることにした。
数回の着信が表示されていたが、これはひとまず考えない。
地図アプリを開き、現在地をチェックする。
区をまたいでいて。家まではかなりの距離があった。
「マズいなあ」
再びボヤく。学校まで三十分あるのに、更に遠くまで走っていたのである。
つまり、一時間コース。現実は厳しい。
「歩くか」
しかしいくら厳しいからと言って、動かなければなにも変わらない。
僕は、とにかく歩き出すことにした。
気分を高めるために音楽をかけ、ひたすらに足を前に出す。
他のことを考える余裕はなく、ただただ歩くことにのみ集中していた。
だから暫くの間。後ろから車に照らされていたことにすら気づかなくて。
クラクションを鳴らされて。
「そこのお兄さん、どうしたのよ。ずーっと必死に歩いてさ」
僕は音楽を止め、振り向いた。
同時に、車が止まる。黒塗りの、フォルクスワーゲンだった。
声の主が、車から降りて来る。
赤みがかった、黒のショートヘア。
白のTシャツにネックレス。
藍色のジャケットに灰色の膝丈スカート。
体型はややがっちりめで筋肉質だが、足は長い。なにかスポーツをやっているのだろうか。
背丈は……僕と同じぐらいか。
これからも伸びるのだろう。正直羨ましい。
ともあれ、顔立ちは悪くない。少々目付きが鋭いのが気にかかるけど。
佐久場さんと出会う前だったら、美少女と呼んでも差し支えなかったと思う。
どうやら僕は、少し目が肥えてしまったようだ。
「どったのお兄さん。ん? もしかして、ボクの身体で催した? やだー!」
少女の身をくねらせるリアクションで、僕は我に返る。
しまった。じっくり見すぎて、コミュニケーションに失敗している。
今夜はダメダメ過ぎるぞ、僕。
「そうじゃないそうじゃない。もう夜も暗いから、君が何者かよくわからなかったんだ」
身振り手振りで、必死に弁解する。
難しいが、やらぬよりはマシ。
そもそもやましいことは考えていない。いや、品定めもセクハラだろうか。
「ホントにー?」
ジト目で睨みつけられる僕。
声や身体つきから見るに、どうやら年下のようだ。
一部の男性にはご褒美かもしれないが、僕の好みではなかった。
「翼様、お戯れもその辺にしてください。もうすぐ日も変わってしまいます」
そこへもう一つ、野太い声。されど実直さを隠さぬ声。しかしその姿は。
坊主頭に黒のサングラス。
そして黒の上下スーツ。
ネクタイも黒。
反射的に思ったこと。反社会的勢力のお方にしか見えない。
僕は何も持っていない。臓器を出せばいいのだろうか。
それと、厳つさと敬語が噛み合っていない。
「んもー。仕方ないなあ。じゃあこのお兄さん拾ってく! 家どこ? せっかくこうして出会ったからさ。送ったげる。どうせ、まだ遠いんでしょ?」
ポカンとしていると、少女から更にトンデモ発言が飛び出した。
家に送ると見せかけて、東京湾に連れて行かれたりとかしないだろうかと、不安になる。
特にサングラスさんが手慣れていそうだ。
「翼様!」
「ひぃっ!」
サングラスが声を荒げて、僕は思わず高音を返した。
埋められそうで怖い。
「あっ、失礼いたしました。決して貴方に声を荒げた訳ではありません!」
今度は謝罪された。やはり怖い。
頭を直角に下げられると、顔が近い。迫力で更に怖い。
「ちょっと! アンタは車に戻る!」
「はいっ!」
見かねた少女の号令一つで、サングラスが運転席に戻っていく。
一瞬ホッとしたけど、それもつかの間。
今度はこっちに矛先が向いた。
「で、お兄さんは車に乗る!」
「はいっ!」
一応僕も男性なのに、なぜか少女に促されて車に乗ってしまう。
……。しまった、うっかり素直に。
「お兄さん、ゲットだぜー」
隣の席に乗り込む少女。
僕は携帯モンスターではない。
慌てて抗議する。
「ちょ、下ろして! なんで!」
「お兄さんどこ住み? メッセアプリやってる?」
「人の話を聞いて!?」
しかし無念。話を聞かないタイプだった。
しかも、自分がやりたい方向に突っ走るタイプだ。
これでは、どうにもならない。
「どーこーすーみー?」
「個人情報保護法は!?」
「それ以前に、家が分からないと。我々も送るに送れないのですが」
……あっ。
これはナイスサングラス。
って、違う。違うので、ツッコむ。
「いや、なんで貴方はもう言う事聞いちゃってるんですか。下ろしてください」
「翼様は、こうなったらもう止められません。そして。申し訳ありませんが、既に発車済みでございます」
だがサングラスから返って来たのは無慈悲な宣告。
宣言どおりに、法定速度で走っていた。これでは下りるのも難しい。
取り敢えず山や港に連れて行く、という訳ではなさそうなのが救いだった。
「だからさー。お家へ送るだけだって。いくらなんでも、ビビり過ぎだから」
「いやいやいや。そもそも貴女方何者なんです?」
僕がツッコミを入れれば、彼女は思い出したように手を打って。
「ああ。そっか。忘れてた! まだ自己紹介してなかったね。ボクは翼。何者かって? 通りすがりの、優しいヒト」
キャピキャピした喋り方の自己紹介。
申し訳ないが、個人的に信用できない。
なんとかならないのか。
「翼様のご身分は、私が保証します。客人は大きく構えて下さい」
しかしそこはサングラスが華麗にフォロー。いや、十分に原因の一つではあるけども。
だがこうなると諦めざるを得ない。
納得はいかないが、サングラスの言い分を信じることにした。
結局。家から少し離れた場所まで送ってもらった。
その間、不審な動きはなにもなく。
雑談程度の会話を交わし、平和的に帰ることが出来た。
「じゃーねー。おにーさーん」
去っていくフォルクスワーゲンを見送りながら、僕はほんの数百メートル先の家路につく。
途中、隣の一軒家をチラリと見た。
しかし、灯りの有無までは分からなかった。
「……頭が回らない。帰って寝よう」
再び歩き出す。しかし。
「寝かせてくださいよ」
僕の足元に、手裏剣が突き刺さっていた。
「お断りだ」
僕の目の前に、メイドが降り立った。
「例えお嬢様が貴様を許そうと。この軽井沢かがり、従者として貴様を許さん」
腹の底から響く、殺意に満ちた声がした。
「そう言われましても、なにぶんあの時は僕は動転していまして……」
言い分はある。
あるけど、どうにかできる見込みは全く無い。
憎しみを燃やすメイドの瞳は、殺意に鋭く血走っていた。