第十六話 平助、知る
「お元気そうで、なによりです。社長にも、経過は順調だと報告しておきます」
「ありがとうございます。ところで、母は」
慇懃さを隠さない『父』の使い。
見下している訳ではないのだろうけど、仕事の上乗せに面倒を感じてはいるのだろう。
そんな様子の男に、僕は母さんの現状を尋ねた。
特にそれ以上の意図はない。
ただ。母さんが酷い扱いを受けているとか、そういう事があるならば。
意地でも取り返さねばならない。
「社長との関係は非常に良好です。今暫くは内縁という形になるとは……」
「ああ、元気で幸せそうなら、それで良いんです」
遮って、言葉を連ねる。
それ以上は、無用だった。
そうですか。ではその旨、お伝えしておきます。
こう言い残して、『父』の使いは出て行った。
僕はお茶を下げ、水道で洗う。
バイトのない日の夕方を選んだとはいえ、気分は良くなかった。
嫌な現実と向き合うというのは、辛いものだ。
「……。今夜はハンバーグにするか」
だから。
満たされない感情を癒やすべく、贅沢を決断するのも。
致し方のないことなのだ。
***
あの新月の夜以来、極めて平和的に時は流れていた。
佐久場さんには相変わらず啜られているし、回数は減ったけど四人飯の機会もある。
本当は自分で一対一に誘えるといいのだが、その勇気はまだなかった。
ともあれ。
僕が僕の金を使って、僕の好物を作ろうと。
誰にもはばかる必要はないわけで。
だから佐久場さんからのお金に、手を付けることにした。
スーパーに行って良い肉を買い。無心でタネを作り、じっくりと中火で焼く。
なにかに集中できることが、こんなにありがたいとは。
かつての自分なら、一ミリたりとも思わなかっただろう。
良い気分で作り上げたハンバーグは、当然美味しい。僕は、幸福を感じていた。
だからこそ。
その着信には、腹が立った。
幸福な時間を終えた瞬間の一撃。誰だって頭に来るだろう。
「はい、どちら様で?」
自分でも驚く程に低い声色。乱暴な口の聞き方。
結婚の件で母と大喧嘩した時以来の、本気の怒りだった。
「私だ。軽井沢だ。お嬢様から、学校の方でなにか用があるとか。そういう話を聞いていないか」
しかし返って来たのは、同じぐらいに低い声だった。
殺気と焦りに満ちた声。
そして伝えてきた言葉も、恐ろしいものだった。
「聞いていませんが……。まさか、まだ戻っていない?」
「その通りだ。お戻りになられていない。既に夕食は整えてしまったのだが……」
貴女なら、既に追跡アプリとか仕掛けてそうなんですが。
そう言おうとして、一旦引っ込める。
ただ、次の言葉によっては容赦しない。
「仕込んでいた追跡アプリは、ずっと学校を指している。だが、何度問い合わせても人の形跡はない、の一点張りでな。頭を抱えているのだ」
やはりか。あまりにも当然過ぎて、スルーするしかない。
この人の場合、高い忠誠心に一割の邪心が混じっているので手に負えない。
分かっているのは有能だという事実。短い付き合いでも、分かりやすかった。
「スマートフォンを落としているか、あるいは学校がすっとぼけているか。どちらがありえますかね?」
ともかく、可能性はいくつもある。
かがりさんが殺意に目覚めてしまう前に、なんとかしてコトを片付けねばならない。
「ひとまず、学校へ行かねば始まらないな。最悪警備会社に連行されるが」
「ゾッとしない話ですね……」
昔なら用務員で済んだのに。
古いことを思いつつ、支度する。
恐らく、一度学校へ向かう方が話が早い。
「ともかく、僕も支度をします。行きましょう」
「行こう。既にアパート前に車を回している」
そういうことになった。
***
車内から見る校舎の窓は、一面どう見ても闇だらけであった。
「……居る様子は、ありませんね」
「ないな。しかしこうなると不安だ。お嬢様の貞操が危うい」
状況の不確定さに、渋い顔を作るかがりさん。
貞操はとうに、とは思うものの、僕は問わないことにした。
が。
「どうせ貴様は思っているだろうから補足するが、貞操というのは言葉の綾だ」
回り込まれた。
これだからこの人は恐ろしい。
いや、待て。もっと恐ろしい事がありはしないか。
「かがりさん、かがりさん」
「なんだ」
僕は声を掛ける。この恐ろしい想起を、早く伝えないと。
暗い車内。温い暖房。
かがりさんの声は、いつもの数倍険しい。
「その、仮に襲われてるとしたら。襲った相手の方が危ういのでは?」
「あっ」
やはり。
かがりさんをもってしても。その考えはなかったと見える。
万一、あの人の気質が暴走したら。
逆に相手を殺しかねない。しかし場所は不明。
ゆっくりと学校周りを周回する車中の空気は、徐々に焦りに満たされていく。
その時だった。車のライトが、フラフラと車道へ飛び込む男を映し出す。
どう見てもチャラい。マトモな青年のする、姿ではない。
「かがりさん、止めて!」
「急に言うな! ええいっ!」
チャラ男寸前で車を止め、僕はそいつに呼びかける。
「危ないぞ! なにフラついてるんだ!」
敢えて厳しい声を出し、正気に戻そうと試みる。
しかし振り向いたチャラ男の顔は、青ざめていた。涙まで流している。
そのまま車にへばりつき、叫び出した。
「た、助けてくれ! このままじゃダチが全員死んじまう! 警察でもどこでも行くから!」
運転席の窓で、狂奔の様を見せるチャラ男。
ただ事ではないと、すぐに理解できた。
「オイ、チャラ男」
「ひゃ、ひゃいっ! 殺さないでぇ!」
急いで車から降り、かがりさんが声を掛けると。
チャラ男は震え上がって車から離れた。
「殺しはせん、シャキッとしろ。詳しく話せ」
しかしかがりさんは揺るがない。
素早く近づき、手裏剣の切っ先をチャラ男に突きつける。
まさか、毎回持っているのか。
「あ、あ、あの! お、俺等ちょっと知り合いに頼まれて。女の子をさらって。その、ひぃっ!?」
しどろもどろに自白するチャラ男に、かがりさんは更に怒りを増す。
手裏剣を喉元、刺さる寸前にまで突き付けていた。
これでは、かがりさんが犯罪者になってしまう。僕は割って入ることにした。
「ちょ、ちょ。手裏剣は引っ込めましょう。まず、場所を教えて下さい」
かがりさんとチャラ男の間に入リ、優しく問い掛ける。
まずは情報がないと始まらない。
「あ、あそこ! あそこの空き家だ! これでいいだろ? 許してくれ! 殺さないでくれ!」
涙とヨダレにまみれた顔を晒しな、必死に声を上げるチャラ男。
だが、情報を吐き出せば用はない訳で。
「仮にこの男が許しても、私が許さん」
「ぐへっ!」
かかりさんの手刀をくらい、チャラ男はあえなく気絶した。
事を荒立てたくないので、通報はしない。
因果応報だと、自分に言い聞かせた。
チャラ男は道端に寝かせ、忍び足で空き家に向かう。
かすかに聞こえた、あの色っぽい声。最悪の予感が、現実になりそうだった。
鍵は掛かっていない扉を、そっと開ければ。既に地獄絵図が繰り広げられていた。
疲労困憊で横たわる数人の青年。
ゴム製の『アレ』。
立ち込めるケモノの臭い。
陰惨たる現場で、佐久場さんは君臨していた。
その目は紅く、誇らしく。
女王の如く、振る舞っていた。
固まる。なにも考えられない。
見てはいけないモノを、見てしまった。
これが。佐久場さんの。
『うっかりその女に見惚れるとな。紅い瞳に絡め取られ、童貞を奪われるんだとよ』
雅紀の言葉が蘇る。
全てが繋がった。
全ての始まりは。僕が、童貞を盗まれたから。
「おい! 松本平助! どけ!」
かがりさんの声。しかし、身体は動かなかった。
気が遠くなる。目の前のことすら、わからなくなる。頭が、ぐるぐるする。
混乱した脳は、シャットアウトを決断して。
「平助! お嬢様に……。おい、平助!?」
気が付けば僕の身体は。春先の夜道へと駆け出していた。