幕間:軽井沢かがりは嘘吐きである
私があの男。つまり松本平助を見送り、足音が遠ざかるのを確認した後。
「さてお嬢様。そろそろ出て来ても構わないかと」
トイレの前に立ち、中にいる主に呼びかけた。
「か、かがり……。本当に、もう行かれましたか……?」
「ええ。何事もなく」
返って来るのは、お嬢様の弱々しくも愛らしい声。
否。お嬢様に関してはもう全てが愛らしく、愛おしく。
もし忠誠の代わりに死ねとおっしゃるのであれば、私は命さえも投げ捨てるでしょう。
嗚呼。もし我が命で全てを贖えるのなら。
全てを煉獄へ差し出し、お嬢様の苦しみをお救い申し上げるというのに!
なぜあんなモブ顔の、さして男らしさもない男が……。
はっ! これはトイレの水を流す音! 切り替えねば!
ガチャリ。
「……嘘まで吐かせて。悪かったわね、かがり。他人に作るのは、初めてだったから」
制服をお召しになられたお嬢様が、トイレから現れる。
朝食を仕上げた後、恥ずかしさと緊張のあまり、お隠れになられたのだ。
「いえ、お嬢様のためでしたら」
……危ない。間に合った。
ええ、そうですとも。このかがり、お嬢様の為でしたらば。
己にも、他人にも。嘘を吐くことは躊躇いません。それが、従者の使命。
「かがり。申し訳ないけど、今日は送ってもらえるかしら。流石に間に合う自信がないの」
だが、お嬢様のお声が思考を断ち切る。
私はお嬢様が最優先だ。
故に、そのように行動する。
「承知。着替えて参りますので、今暫くお待ち下さい」
***
地方都市の街路を、私は少々早めの安全運転で走り抜ける。
以前はリムジンも走らせたことがあるから、運転は苦にならない。
主を後部座席に乗せた車中は、非常に静かだ。
運転音とカーナビの音声以外、一切音はしていない。
音楽もラジオも、会話もなく。それが日常だった。
しかし今日に限っては、主自身が静寂を破った。
「そういえば、かがり」
「なんでしょう」
突然聞こえたお嬢様の声に、私の心臓はドキリと跳ねる。
まさか、遂に愛の告白か。よろしい。ならば結婚だ。
鉄風雷火の限りを尽くし、三千世界の鴉を殺す。嵐のような愛がある。
「松本さんは、私のご飯を喜んでくれたのかしら?」
上げて落とす。天国から地獄。こんなことはあってはいけない。
いや、勝手に盛り上がってたのは私だったか。
だが、一つだけ言えること。その名前は、あまり耳にしたくない。
無論、私にとて罪悪感はある。それは和らぐことのない、永遠の痛みだ。
しかし私は揺るがない。揺らぐはずもない。
全ては愛。お嬢様を泣かせないこと。そこに帰結する!
「大変喜んでおりました。『普段こんなに食べないから、少し食べ過ぎました』とも。礼の言葉は、ぜひ本人から」
私の抱える、この胸が張り裂けんばかりの苦しみ。
お嬢様には、きっと分かるはずもない。
ああ、この苦しみを。この想いを。もし打ち明けられたのならば。
「分かりました。……その。いつも、ありがとうございます」
ああ、もう。何故この人はそこまでいじらしいのか。
私を悩ませるのか。私を苦しませるのか。
しかも悪意はない。むしろ善意しかない。だからこそ。私は……。
「あっ、そこ。右です」
「っ!? し、失礼しました。次で曲がってリカバリーしますので」
しまった! 思考に気を取られて……。
全く、私という女は。
「大丈夫です。私は、かがりを信頼しています。貴女は私を、悲しませない。存じております」
うぐっ! 無上の褒め言葉が胸にしみる!
私を悲しみから救ってくれる!
ああ。このままどこか遠くへ、二人だけの世界へと連れて行ってしまいたい!
だが私は!
お嬢様の! 佐久場、澄子の!
メイド、なのだあああああ!
***
……かくして、私はお嬢様を無事に送り届けた。届けたのだが。
「なにか、どっと疲れたな」
車を走らせながら、私はつぶやいた。
冷静になれば、全部私の独り相撲だったのだけど。
いずれにせよ、私はお嬢様からの信頼を裏切れない。
だが、私はお嬢様に日夜嘘を吐き続けている。
好意……否。この身に余るほど溜め込んでしまった愛を、必死に隠し続けている。
「怖いからだ」
もう一つつぶやく。
そう、分かっているのだ。想いを打ち明けることで、今の関係が壊れるのが怖いのだ。
そして錯覚も怖い。愛と忠誠心を、取り違えている可能性。なかったとは、言い切れない。
「私は……従者でいい。十分だ」
だから、軽井沢かがりは嘘を吐く。この世の全てに嘘を吐く。
お嬢様の周りの方にも、とっくに嘘は吐いている。
監視役も要求されていたのに、私は常にお嬢様に味方している。
それが、お嬢様の笑顔を。お嬢様のありとあらゆるお姿を拝むのに。
そして守ることに。一番最適だから。
ほんの少し前まであった光景を思い出す。
お嬢様は広い屋敷の、狭い角部屋に押し込められていた。
軽い運動程度の外出は許されていたが、食事は個室。私以外の者と会話を持つことも稀だった。
暗い顔をして、いつも本を読んでいた。
補給も、『あてがい』の男達で賄われていた。
暴走のない夜には、いつも枕に顔を埋めていた。自由を求め、涙を押し殺していた。
「か、かがり。そこに居て。お願い……」
「お嬢様。かがりはここに居ります。いつでも、お側に」
今でも思い出せる、軟禁された主人との会話。
本当の意味でお嬢様を護ろうとしたのは、あの時が初めてだった。
解放されたお嬢様は、今は一見普通の少女に見える。いや、美少女だけども。
だが平常時を保つ反動は、暴走時に垣間見えていた。
「まつもとさん、を……。彼を、連れて来て下さい……っ。はや、くぅ……」
特定の他人を求める。暴走を堪え切れない。
そんな言動は、以前には見られなかった。なにを示すのかは分からないけど。
「私が男だったらば……。あのような真似はさせないというのに……」
絶対に起こりえない妄想。何度思い浮かべたことだろう。
十八のあの日、お嬢様に一目惚れしまった時から。
私はもう、戻れない道に入ってしまったのだ。
「……いかんな。やっぱりあの男のせいだ」
とりとめのない思考の迷路をたどりつつも、私は運転をこなし続ける。
車はやがて、都心のオフィス街へと入り込む。そこはコンクリートの迷路。
スピードを落としつつも走り抜け、とある地下駐車場へと滑り込んだ。
「さて、今日も嘘をつきに行くか」
想い悩む従者はここまで。
ここからは監視対象《お嬢様》の報告をする、監視者の時間だ。
向かうは最上階の会長室。
お嬢様の祖母、佐久場一族の総帥。佐久場鈴様の居城である。




