序 平助、ハジメテを奪われる
『貴方の童貞、頂きました。
こちらはささやかですが、お代です。
誠にありがとうございました』
朝。枕から頭を起こして。
最初に見たものが、枕元の置き手紙。
僕は、松本平助は。寝ぼけているのだろうか。
「……顔を洗ってから、もう一度確認しよう」
掛け布団を剥がし、身体を起こそうとして。
強烈な寒さが、自分を襲った。
気付く。この二月に、素っ裸だった。
とにかく近くの服を着る。一息ついても、なんとなく寒い。
すっかり目が冴えてしまった。
仕方ないので、もう一度手紙に目を這わせて。
全く同じ文面を手に、その隣を見る。
「……これが、『お代』ってことだよなあ」
分厚い封筒。多分、縦に置いても立ちそうだ。そのぐらい、中身が詰まっている。
正直なところ、見なかったことにしておきたかった。
でも、一言だけ言いたい。言わせて欲しい。
「ささやかってレベルじゃあない。絶対にない」
よし。スッキリした。
一体全体、昨日の僕になにが起きたのか。
ひとまず記憶をたどってみることにした。
自分で作った、寂しい夕食。シャワーもカラスの行水だった。
一人暮らしなので、削れるところは削りたかった。
学生の一人暮らしは、バイトをしてても辛いところがある。
そして布団に入ったはいいが……寝付けなかった。
寝付けない事自体はもう、慣れていた。
少し前に色々あってから、そういうことが多くなった。
だから、いつものように散歩に出た。覚えている。この時は服を着ていた。
いくら僕だって、自殺行為は絶対しない。
出たい時に外出できる。文句も言われない。この気楽さが、ありがたい。
ゆっくりブラブラと、近所の公園へ向かった。
眠気が来たら帰るつもりが、寒くて目が冴えてしまって。
そうだ。僕は、見てしまった。よりにもよって、その近所の公園で。
最初に目に入ったのは、大きな胸と、長い髪だった。見た瞬間に、女性だと分かった。
お尻の辺りまで伸びた黒髪は、青みが僅かにあり、艶めいていて。
ネットや週刊誌の、グラビア画像かと見紛うほどの胸だった。
黒と対比されて目立つのは、ノースリーブの白いワンピース。
あの寒さの中で、彼女は普通に立っていた。
断続的に吹く風の中で、堂々としていた。
僕の視線は、彼女に釘付けにされて。
そのまま、公園の中へと踏み込んでいた。
月に照らされた陶器のような白い肌。長く、細い手足。
手の先には、バッグが掛かっていた。
吸い込まれるように、距離を縮めた。
彼女が振り向いて、目が合った。美人だった。紅い瞳を持っていた。
その、血を思わせるような紅が、鈍く光って……。
おぼろげな記憶が、頭の中に浮かんだ。
夢だと思い込みたかった。
どうやって帰ったのかは思い出せないが、『それ』は、部屋の中で起きたことだった。
昔、母さんに抱かれた時のような暖かさ。
言葉に出来ない気持ちよさの中、自分の全てを解放して。心ゆくまで、快楽を味わって。
久しぶりに、心地よく眠った。
夢と現の狭間だと、思っていた。
でも今なら、確信できる。
証拠も揃っている。
「僕は大事なものを盗まれてしまいました……。僕の、童貞です!」
擦り切れた畳の上。僕は、失意のままに叫んでしまい。
薄い天井の向こうから、床ドンを食らった。