帰宅
1時間ほど馬車に揺られて、バルバストル伯爵邸に到着した。聖女になってから帰省は年に1度数日だけなので久しぶりだ。伯爵邸前には執事長、侍女長を始め、料理人や下働きまで揃っていた。
侍女に体を支えられ、ゆっくりと馬車から降りた。たった1時間座っていただけなのに、膝や腰が引き攣るように痛い。
「「おかえりなさいませ、お嬢様」」
まさかこんなに歓迎されるとは思っていなかったので、驚きで声が出なかった。するとドタバタと扉の向こうから音がした。
「姉上!おかえり!」
凄い勢いで転がり出てきたのは義弟のエルキュールだ。7歳で一人娘が聖女として召し上げられた伯爵夫妻が遠縁から引き取り、養子として伯爵家へとやってきた。年に1度しか会えないけれど、わたしによく懐いてくれている可愛い弟だ。
「ただいま、エル」
少し背の伸びたエルキュールを見上げ、いつも通り抱擁を交わそうとした時、ふと自分が老婆となってしまったことを思い出した。こんな姿でエルキュールに触れられない。そう思い引っ込めた皺だらけの手を、エルキュールはサッと捕まえそっと抱き寄せた。
「エル、よくわたしだとわかったね?」
「僕が姉上を間違えることなんてないよ。姉上の瞳は何も変わらないし、雰囲気がお祖母様そっくりだ」
皆が微笑んだり涙ぐんだりしながらこちらを見ている。恥ずかしくなったわたしはエルキュールの胸を押し身をよじった。
「アンリエット様、エルキュール様、旦那様と奥様がお待ちですので、お話は後でゆっくりなさってください。アンリエット様はお部屋でお召し替えされてから、旦那様のお部屋へご案内します」
わたしが物心つく前から執事長を務めるロイクが声を掛けてきた。その声を聞いてエルキュールは渋々わたしから離れた。
「姉上、またあとでゆっくりお茶でもしよう」
侍女の押す車椅子に座ったわたしに手を振り、エルキュールは邸に戻って行った。
侍女に連れられ入ったわたしの部屋は、前回の帰省の時のままだった。掃除は定期的にしてくれているようだ。公国に召し上げられた7歳当時の趣味のままの私室は、80歳になったわたしが居ると違和感しかない。
侍女の用意してくれた生成りのシンプルなワンピースは、締め付けがなく老体に優しい。見知った侍女はわたしの萎れてしまった身体を見ても何も言わず、お嬢様お似合いですよ、と微笑んでくれた。
そして両親の待つ執務室へ向かった。
執務室の扉の前で、ヨロヨロと車椅子から立ち上がり、杖をついてノックをした。
「アンリエット!」
わたしが扉を開けて入室すると、目に涙を浮かべたお母様が駆け寄ってきた。
「こんな……姿になってしまって……助けてあげられなくてごめんなさい」
「……お母様」
生を吸い取られてからいままで、わたしは一度も涙は流さなかった。裁判にかけられた時点で、何をしても無駄だとわかっていたから。あいつらを喜ばせるだけだとわかっていたから。
いつでも伯爵夫人として凛と立ち、家族の前でさえも常に清廉としていたお母様が、わたしの前で涙を流している。それを見て今まで我慢していた何かが溢れてくるのを感じた。
「お父様、お母様、バルバストル家の名に泥を塗ってしまい申し訳ございませんでした」
流れる涙を隠すように頭を下げた。少しして顔を上げると、眉間に深く皺を刻んだお父様と目元を赤く濡らしたお母様がこちらを見下ろしていた。
「結果だけみると、お前は許されざることをした。バルバストル家としてそれ相応の処分をしなければならぬ。分家や親類にも申し訳が立たんからな。……しかし、私はお前の父親として真実を知りたい。辛い事かもしれんが……全て説明してくれるか?」
流れる涙を拭い、ロイクに支えられながら席に着いた。わたしは出されたお茶を一口飲んでから話し始めた。
わたしは昨年、筆頭聖女の座を承った。17歳になったばかりだったわたしは既に聖女として頭角を現しており、数年にかけて前筆頭聖女から教育を受けていた。
はじめは順調だった。聖女たちは小さいときから寝食を共にしてきたし、筆頭聖女として公式行事に出る機会が増えるだけのことだったから。
運命が変わったのは、16歳のリディが聖女としてやってきた時だ。
本来なら7歳の『光の儀』で魔力の有無を調べられるが、未婚で子を産んだリディの母はリディを儀式に参加させなかったのだという。スラム街ではそれが当たり前のことだった。そもそも戸籍上存在しない者のため、国も知る由も無い。
16歳となったリディは自分の力に気付き、自分から大公宮殿にやってきた。ほとんどの聖女より年上だった為、必然的に筆頭聖女であるわたしに教育を一任されることとなった。
「リディはどこへ行ったの!」
16歳までまともに教育を受けだことがなかったリディを教育するのは一筋縄ではいかなかった。
幸い物覚えは良いようで本人がやる気になった作法や言葉遣い、食事マナーに関してはすぐに身に付けたが、歴史や文学を始めとする教養、魔法訓練はそもそも講義に現れることがなかった。
なんとか捕まえて席に座らせても、少し目を離した隙に何処かへと逃走した。
「アンリエット姉様、私が皆への指導を代わりますのでリディ姉様を探しに行ってくださいませ。本当に困った方ですわね……」
次期筆頭聖女として育てているマノンはとても気が利く子だった。彼女も数少ない庶民出身の聖女だったが、誰より勉強熱心だった。
「ありがとう、マノン。お昼までに戻らなかったら先に食事をしていてね」
大公宮殿内を可能な限りの速足で探し歩いた。
聖女は大公宮殿の離れに住み有事の際に備える。基本的に聖女は離れ以外立ち入り禁止だが、リディはそんなルールを物ともせずあちこちで目撃されている。大公も聖女を無碍にもできず、見て見ぬふりだ。
(リディどこにいったの……)
渡り廊下に出た時、中庭の方から笑い声が聞こえてくる。ひとつは聞き慣れた小鳥の歌声のような美しい声だ。見つけた、と少し身を乗り出した時、聞き覚えのある相手の話し声が聞こえた。
「リディは常識に囚われずに自由に生きている所が魅力だ。出来ることなら君が私の婚約者だったらよかったのに。父上に相談してみようかと思うが、どうだ?」
「エド様にそこまで想って頂けるなんて……身に余る光栄です。謹んでお受けいたします。わたしをエド様のお嫁さんにしてくださいっ!」
声だけしか聞こえないけれど、二人が誰なのか何の話をしているのかすぐに理解した。渡り廊下と中庭に見えない壁があるかのように、未だ想いを伝え合う二人の声がくぐもって聞こえている。
リディを連れ戻す事も忘れ、トボトボと離れに帰っていった。
そこから数日、わたしは何もかも身に入らずにいた。そしてついに高熱を出し倒れてしまいマノンが看病をしてくれていた。
あの日に何かがあった事を察した彼女は、リディを問い詰めそうだ。そうすると、無邪気に微笑みながらこう言った。
侯爵家のエドゥアール様がプロポーズしてくれてお受けした、と。
マノンは激高しリディを罵倒した。エドゥアール様とは政略結婚による婚約だったけれど、アンリエット様なりに少しずつ愛を育んでいたのだ。それを横から掻っ攫うなんて、と。
「マノン、ありがとうね。気持ちは嬉しいけれど、わたし、エドゥアール様のあんな声聞いた事ないのよ。寡黙な人なんだと思っていたくらい。あんな直接的に愛を伝える人だなんて思ってもみなかった。これはね、完全なる敗北よ。今の二人にはわたしが何を言っても負け犬の遠吠えにしか聞こえないでしょう」
マノンはわたしよりも悔しそうで辛そうだった。涙を浮かべ部屋を出ていった。
わたしは翌日からやっと職務にもどったが、リディはあれ以来全ての講義と訓練に顔を見せなくなっていた。