かわいそうな猫
俺は野良猫だ。
人間どもは俺に哀れみの目を向けるが、俺は自分が不幸だとは思わない。
だいたいが家猫なんて俺の性には合わない。別に人間が嫌いなわけじゃないが、好きでもないのだから、人間と一緒に暮らすことに魅力を感じないのだ。
まあ、人間に飼われてるやつらはいつでも腹いっぱい食っているらしいと、そこだけは魅力ではあるが。
野良なんてやっているとあり付けるのは人間がゴミ箱に捨てた残飯か、自分で狩ったネズミやスズメか、どちらにしても腹を満たすには足りない。だからと言って飢えるほどひもじい思いもしちゃいないのだから、腹いっぱい食えるというだけでは、人間の側にいたいとは思えないのだ。
だから人間に近寄り過ぎず、さりとて離れ過ぎず、それが俺の居場所だと心得て今日までやってきた。
ところがうっかり人間に近づき過ぎちまったのは、相手が女だったからだ。
猫と違って人間の女ってのは弱い。およそ乱暴なことをしないのも女の方だ。
だから安心だと侮った。
おまけにこの女、ひどくいい匂いのする食い物を俺に向かって差し出してきたんだ。
「ほぉら、おいで、猫ちゃん」
小さな缶に入ったその食い物がキャットフードというのだと、後で知った。
女は地面にしゃがみ込んで俺の顔を覗き込み、馬鹿みたいにヘラヘラ笑っている。
俺は油断なく、頭を下げて女の所作を見ていた。
女はそれ以上近くつもりも、缶を引き下げるつもりもないらしい。仮に俺に害なすつもりだとしても、膝を曲げて小さく屈み込んだ姿勢からでは大したことはできまい。
俺は頭は上げずに、前足だけをそろりと前に出した。
その時だ、女の後ろから、人間の男がひょっこりと現れたのは。あげた前足も下ろせないほどに身が凍った。
人間の男は俺を見下ろし、よく通る大きな声で言った。
「かわいそうに」
初めて聞く言葉だ。
男はもう一度、今度はため息をつきながら言った。
「まったくかわいそうに、ガリガリに痩せてるじゃないか」
女の方も、頷きながら言う。
「ええ、まったくかわいそうに、きっとご飯もろくに食べていないのよ」
あとは二人で『かわいそう』を延々と繰り返す。
「こんなところじゃ、雨風も凌げないでしょうね、かわいそうに」
「すぐそこには大通りがある、しょっちゅうひかれた猫を見るよ、きっとこいつもそうやって死ぬんだろうな、かわいそうに」
「体もあんなに汚れてかわいそうに」
あんまりにもかわいそうばかりを繰り返すから、俺は頭がグラグラしてきた。
そのうち、男の方がとどめとばかりに首を振って言った。
「エサだけ置いて行った方がいいんじゃないかな、人間を警戒しているようだ」
「ええ、きっと人間が優しいってことを知らないのね、かわいそうに」
女は缶を置いて立ち上がり、二人はそのままどこかへ歩いて行ってしまった。
おかげで俺は猫缶を丸ごと一つ、生まれて初めてうまいもので腹をくちくするという幸せを味わったのだが、なぜか心ははれなかった。
翌日、俺はこの辺で1番の年寄り猫のところへ行った。
この年寄り猫は人間に飼われていて、『ナツ』なんて小洒落た名前を持っている。
ナツ爺さんはいつもと同じように前足を箱に構えて縁側に座っていた。
「よう、爺さん」
俺の声に耳をピクピクさせて、爺さんは目を開く。
「おお、お前さんか、今日はどうしたね」
そこで俺は昨日の話をすっかり話して聞かせて、最後にこう聞いた。
「なあ、カワイソウってなんだ?」
「お前さんはまた、ひどく哲学的なことを聞くねえ」
「テツガクなんて難しいのはごめんだ。簡単に説明してくれよ」
「ふむう、なんと言えばいいのかのう」
爺さんはうらうらとした日差しにぼんやりと目を向けて考えていた。
「例えばじゃな、まだおっかさんの乳を飲まなきゃ生きていけないような子が、街をうろついていたとする、お前さんならどう思うね」
「どうも思わねえ、強いて言うなら、ちっこいのがいるなってことくらいは思うかもな」
「ところが人間はそうじゃない。母親の乳ももらえなくてこの子は死ぬんじゃないか、車が怖いものだと知らずにはねられるんじゃないか、そういったもしもに怯える性質があるのだよ」
「へえ、自分に無関係なチビ助のことなのにかい?」
「そうだ。人間とはそういうものだよ」
「てか、ますますわかんねえな、俺は母親の乳がもらえなきゃ死ぬようなガキじゃないし、車が怖いものだってことを知っているから車道になんか近づきもしない。なのに、昨日の人間にとっちゃあ、俺はかわいそうなのか?」
「はてさて、これは困ったのう」
爺さんはキュッと目を細める。
「それは、情けの『かわいそう』じゃあないのかもしれんのう」
「は、なんだそれ」
「ごく稀に、人間にはいるのだよ。かわいそうというのは、自分より不幸な相手に向けていう言葉じゃからな。相手をかわいそう扱いして、自分よりも不幸なものを増やそうとする輩も、少なくはないのじゃ」
「ふん、なんだか、やっぱり難しいな。俺みたいな学のない野良にはわかんねえや」
「まずは経験してみることじゃな、本当の『かわいそう』は、言葉になどならないものなのじゃということを……」
それっきり爺さんは、ゴロゴロと喉を鳴らして黙ってしまった。
それはまるきり幸せな猫のみが許される、安堵と平穏の音であった。
それからしばらくして、ナツ爺さんの飼い主が死んだ。
飼い主はナツ爺さんよりも年寄りだったのだから、ビックリはしなかった。
だが、爺さんはひどく気落ちして、飼い主の棺のそばにずっと座っていた。
俺はそんな爺さんを見守るつもりで窓の外から覗き込んでいたのだが、人間は誰も爺さんを追い出そうとはしなかった。
むしろ爺さんを抱き上げて棺の中をのぞかせたり、代わる代わる頭を撫でてやったり、爺さんを少しでも飼い主の近くに置いてやろうとするものばかりだった。
坊主とかいう、歌だかイビキだかわからない声で騒ぐ人間までもが、ちょっと涙ぐんで爺さんの頭を撫でた。
その坊主が、もそっと口の中で呟いた言葉が、耳のいい俺には聞こえた。
「飼い主のいなくなったことがわかるのかい、かわいそうに」
それは、俺が猫缶の女から言われた『かわいそう』とは随分と違って聞こえた。
あの女は確かに俺を見て、俺のことを『かわいそう』だと言ったが、その言葉は俺の頭上を撫でもせずに吹き抜けるばかりだった。
しかし、坊主の言葉は……それは間違いなくナツ爺さんの耳に吹き込まれた言葉だ。手つきだけではなく、言葉でも撫でまわそうとしているように、その声は沈んで低い。
「なるほど、これが『かわいそう』か」
俺は急に『かわいそう』に対する興味を失って、尻尾を振りながらナツ爺さんの家を後にした。
俺がなぜ『かわいそう』という言葉にあれほど心惹かれたのか、わかって仕舞えば実にくだらない、なんの面白みもないことだったのである。