6.透明で不確実な解決
そしてところは振り出しに戻り事務所である。入るやいなや九瀬は、ようやく夕焼と化した空の赤い光を遮るために窓のシャッターを下ろした。そして返す刀でクーラーのリモコンを掴んでピピピと操作し温度を極寒地獄に戻す。あまりに手慣れきった素早い動きに、真琴は為す術もなく椅子に身を埋めるしかなかった。
「さて」と九瀬。机の上に置きっぱなしだった資料を隅のゴミ箱に投げ捨て、素晴らしい勢いでパソコンのキーボードを叩き始めた。取材で得たことをすべて書き込み、データベースとして蓄積しておくのがいつもの習慣なのである。彼の情報屋としての一面もここに表れているのだ。
しばらくの間黙ってそれを眺めていた真琴であったが、やがて辛抱たまらなくなり九瀬を急かした。
「ここに戻ったってことはすべて判ったってことなんですよね。早く教えてくださいよ」
「いいだろう」
そしてエンターキーを一度叩くと立ち上がり、真琴の前に腰を下ろした。
「念を押すが、俺が今から話す推理は真実じゃない」
「それ、さっきから気になってたんですけど、真実じゃないってことは嘘なんですか? ……まさか、でっち上げの推理とか?」
そうではない、と速攻で否定する九瀬。
「だが、真実ではない。そうだな、もう少し丁寧に言うならば、今から俺が話すのは《真実に最も近い推理》だ。残念ながら、今回に限っては真実そのものを俺の口から語ることはできない」
「絶対の真実は、解らないってことですか」
すると小さく溜め息をついて、
「残念ながらそういうことだ。不本意だがな。そもそも《誰が人を殺したか》という問題は物的証拠の積み重ねで確実に犯人――つまり真実――を確定することができる。だが、今回は《なぜ人を殺したか》だ。これは物的な材料を発見したとしても、ただちに真実への証拠と結びつけることはできない。
たとえば被害者が日本有数の資産家で、殺したのは目の前の金に困っている遺産相続対象者だったとしたら。たしかに遺産目当ての殺人である可能性は非常に高い。だが、真実と言い切ることはできない。この理屈はわかるか?」
「うーん……厳密に考えればそうなんですかね。本人がそうだと認めてくれたら真実と言えるんでしょうけど」
ふふ、と九瀬は軽く笑う。
「残念ながらそうもいかないのさ。認めるというのは言葉によって表現するものだろ。言葉なんて、いくらでも偽ることはできる。憲法で、『何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない』と定められている。言葉は唯一絶対の証拠となり得ることは絶対にないんだ
今回の事件では、殺人者である啓介は自らの動機を言葉にしていない。だから被害者の母親が俺にそれを探らせたというわけなんだが、たとえ啓介が、『他に女ができたから殺した』と自白したとしても、さっきと同じ理屈で真実とはなり得ないんだ」
「……なるほど。って、それじゃあそもそも動機自体!」
「そうだ。はっきり言ってしまうが、動機において、客観的な真実というのは存在しない。殺人者の脳内の奥深くにて殺人という爆発的な衝動を引き起こした後、ひっそりと燻っているだけなのが動機だ。他人がそれを強引に見ようとしても、そうはいかないのさ」
「納得しました。九瀬さんの追っているのが『真実』ではない理由」
「それならいい。そして、俺達が今日探し求めていたのは彼の自白に代わる、『真実に見えるもの』だ。本人の自白ほど説得力があるものを用意するために大切なのは――」
「『真実に至る道筋』ってわけですね」
九瀬は黙って頷いた。
そういうことだったのか、と真琴を覆っていた疑問の雲は少し晴れた。いや、本質的な問題としてはそれがすべてなのかもしれない。あとの推理は、今までに出会ってきた事件と大して変わらないものとなるだろうから。
「『真実に至る道筋』――。その第一歩となるのは殺人者と被害者の関係だ。二人は客観的は愛し合っていたように見える。いや、少なくとも栄美子から啓介への愛は、殺害される直前まで確かに存在したと思われる。まず、これまで十年以上もの間、自らも苦しいのに金銭的援助を続けてきたという事実。そして二つ目はあの『日記』。そこに書かれていたのは啓介への愛を表現する文章。さっきも言ったが、言葉は証拠となり得ない。しかし、あんな形で第三者には見せないように綴られてきた言葉は相応の真実味を帯びているといっても問題ないだろう。俺はこれを『道筋』の一部分として採用した。ところで、少し話はずれるが、重要なのはあれがただの言葉なのではなく、歌詞だったというところだ」
歌詞。そうだ。あれは《ビヨンド・ザ・レインボー》で歌われていた曲の歌詞だったのだ。一曲も聴いたことないからぱっと見では気付かなかったけれど、ページの中央上に少し大きな字で《ここにある確かなモノ》みたいな言葉が書かれ、その右下に『作詞:わたし』『作曲:啓ちゃん』とあることからそう判ったのである。最後のページには《日常~朝の薫りとあなたがいること~》の冒頭『今日もわたしはいつものように』と書かれ、途中で終わっていた。
事件当日に机の上に置かれていたということから考えると、その冒頭は事件間際に書かれていたのだろう。つまり、タイトルにもある《あなた》への愛は殺される間際まであったという可能性が非常に高いわけだ。
やっぱり栄美子は、純粋に啓太を愛し続けていたのだ。そうだろうとは思っていたが、事実として見直してみると真琴はやるせない気持ちになってしまった。
九瀬は続ける。
「啓太は生活だけでなく、バンドの曲作りという点においても栄美子に依存していた。一般的にバンドで曲を作る場合、ボーカルが歌詞を書くことが多い。だが
自分には文章を綴る才能がないと自覚していた啓太は、栄美子に作詞を頼んだのだろう。で、書いた歌詞があの『日記』というわけだ。たぶん小っ恥ずかしくてノートの題名は変えていたんだろうな」
その時、真琴は今日初めての閃きを得た。
「そうか、だから《ビヨンド・ザ・レインボー》は売れなかったんだ!」
「……どういうことだ?」
流石に意味がわからなかった九瀬は眉を潜めつつ尋ねた。
真琴は得意げに無い胸を張って答える。
「あれは、あの歌詞は、栄美子さんが自分のことを書いた文章なんだよ!」
「それはそうだろうが、バンドが売れないことと関係あるのか?」
「あるある。大ありよ! 考えても見てよ。栄美子さんが啓太さんのことを想って書いた歌詞を、啓太さんが歌っている。そもそも女と男で内容がかみ合わないこともあると思うけど、自分で自分を愛している歌を唄うなんてナルシストじゃん。聞いてる人にもそれは伝わっていまいち合わないんだよ」
そうだ、そうだ、そういうことだ、とコーヒーを一飲み。九瀬の「まったく論理的ではないな」という小言も気にならないようだった。
「これも道筋だよ。真実と証明はできないけど、真実の可能性はあるじゃないですか」
「それを言い出したら……」と言い返そうとしたが、この論戦は埒があかないと判断した九瀬は途中で言葉を変えた。
「まあ、一理もないとは言い切れないな。今回はそれを真実としておこう。ただし、これをあの《ルーシー》達に話すんじゃないぞ」
「はーい、わかってますよ」
真琴も一つの真実(?)を発見しつつ、推理は続く。
「本題に戻るぞ。啓太は何から何まで栄美子に依存していた。というところまで話したな」
「うん」
「だとすれば、俺達が出掛ける前に提唱していた『他に女ができたから殺す』という説も怪しくなってくる」
「たしかに」と頷く真琴。「お金だけの問題じゃなくなってきますもんね」
「それに、《ルーシー》達も言っていただろう。啓太は一週間前、来週に控えたライブが終わった後、初めて働くという決意をしていた。そしてこう漏らしていた。『いざ働くとなって、栄美子が許してくれるか心配だな。あいつ、俺以上にプロの夢見てたから』と。わずか一週間でここまで言わせた《愛》が消えるとも考えにくい」
「栄美子さんも啓太さんも、お互いのことを愛していた。なのに……ダメだ。殺した理由、全然判んない。結局、《愛》は関係なかったってことなんですか」
「いや、やっぱり《愛》なんだ。そこに違いは無い。だが、互いが互いを愛しすぎるが故の殺人だった、というのが普通の殺人と違う所なんだ」
「え!」
愛しすぎるが故の殺人。まったくの盲点だった。愛が消えた方のことばかり、真琴は考えていたからである。
だが、と思い直す。そういえば、昔読んでいた少女漫画にそういうの、あったじゃないか。少女漫画といってもちょっと背伸びした、暇な主婦が見る昼ドラのストーリーみたいなやつ。思いついたままに言ってみる。
「それって、あれ? 『今の美しい姿を永遠に保ちたいから殺す』みたいな」
すると怪訝そうに目を細める九瀬。その瞬間、真琴は自分が間違っていたことを悟った。
「なんだそれは。栄美子の死体を冷凍保存とか、剥製にするってことか? そんなわけないだろう。死体はとっくに火葬され骨も残っていないし、そもそも身体を綺麗に保ちたいなら、大きな傷が付く刺殺なんて方法を取らずに毒を使うはずだろう」
「いや、まあ、そうですけどね。気持ちの問題というか、『老いたお前を見たくない』とか……」
おどけたように言って、顔から火が出るような自分を隠そうとする。だが、そんなことせずとも九瀬は冷静な表情のままだった。
「ゼロとは言わんが、そう仮定しても動機と行動がまったく繋がらない。却下だな」
「うー、なら『愛が故の殺人』ってどういうことなんですか」
「《愛》っていうのは動機と同様に、目に見えるものではない。だが、《愛》が引き起こす行動は目に見えるだろう。今回俺達が知った情報の中で、啓太の《愛》行動に表れた部分はどこだ」
「それはあれですよね。明後日のライブでチャンスを掴めなかったら、働き始めるっていうの」
「そうだ。栄美子を楽にしてやるために自分の夢を諦め、働くという一大決心をした。だが、問題があった。助けたい栄美子自身が、啓太の夢を第一に考えていた、少なくとも、啓太はそう考えていた。
加えて、ひとつ。啓太は、ただ栄美子を楽にしてやりたいという一心でバンドを辞めるとメンバーに言ったわけじゃない。自分自身の人生に、ついに不安を感じたからという理由もあるんだ。だから、『次のフェスで駄目だったら』という条件を加えたというわけなんだよ。が、ここで啓太の脳内にジレンマが芽生えてしまう。『愛する栄美子を楽にしてやりたい』『でも栄美子は啓太に夢を追い続けて欲しい』『でも夢を追い続けても叶う気がしない』。ジレンマ三角関係だ。これを打破するには一つしか無い、と啓太は考えた。それが――」
「それが、栄美子さんを殺すことですか? そんなバカな」
ついに殺害動機に辿り着いた。夢と現実と恋人に挟まれた啓太は、その行き場のなくなった力を恋人に行使した。簡単に言えばこういうことになる。しかし、真琴にはにわかに信じがたかった。
九瀬は頷く。
「その通り。もしこの仮定が正しければ啓太はバカだ。というより、頭がいかれている。だが、そこで絡んでくるのが啓太の両親と姉だ」
「両親と姉!? ……まあ、たしかに少し挙動不審な気もしましたけど」
「うむ。一週間前、母・姉・啓太はいつものようにファミレスで食事をした。一ヶ月に一度の頻度で会っていたというから、そこまで積もる話があるわけでもないだろうが、まあ少々問題を抱えた家族だ。シリアスな話もしただろう」
「そこで、栄美子さんを殺すに至ったきっかけが起きたと?」
「そうだ。ここからは想像することしかできないが、おそらく母と姉は啓太に圧力を掛けたのだろう。早く働き始めろ、彼女に面倒見て貰うばかりではいけない、と。啓太がバンドメンバーに働く発言をしたのは金曜日。そして、三人がファミレスで会ったのは土曜日。啓太にとっては耳が痛かっただろうな。よくゲームを親に咎められた子供が言う台詞、『今やろうと思ってた!』というやつだ。そして、二人、そして三角関係のジレンマに追い込まれた啓太は爆発した。
半ば狂いながら持ってきた包丁で栄美子を殺害した。たぶん彼女の反応を見たくなかったから合い鍵でこっそり忍び込もうとして、見つかったところを問答無用で刺した。というところだろう。だが彼の狂気は一瞬の朦朧に過ぎなかった。愛する栄美子を殺害してしまったことに悔い、戻るべき場所もなく、迷い歩いていたところを駆けつけた警察に……というわけだ」
「そんな……」
現実に追い込まれた啓太の刃。それは、最悪な犠牲者を生み出し自らの人生をも崩壊させた。動機は言わなかったんじゃない。言えなかったんだ。なぜ、自分は殺しに至ったのか。複雑な心理状態によって引き起こされた行動であって、きっと自分で言い表すことはできなかったに違いない。
真琴はそう考えた。人の心理。難しすぎる。ほんとに。
「これで『真実に至る道筋』は終わりだ。今から栄美子の母親を呼び出し、同じことを繰り返すつもりだ」
「納得してもらえるでしょうか」
「さあな。証拠がないのだから、完全な満足を与えることは無理だろうな。でも、確かなことはある」
「確か、ですか?」
「依頼者が必要としてるのは、真実ではない。真実に見えるもの、真実として一応」
「……そうか、なるほど。そうかも、しれませんね」
真琴はそう答えながら、こんなことを考えていた。
今回はホワイダニットだから、人の内心に依るものだから、真実は外から見つけ出すことはできないと九瀬は言った。
でも、それでいいの? 人の心を知ることが出来る方法を探し探し求めて、すべての情報をかき集めて、それでも足りなければ圧倒的な閃きによって、絶対的な真実を追い求めるべきなんじゃないの?
すると、九瀬はまるで彼女の心を読むかのように言った。
「判ってる。それでも、真実はどこかにあると信じるべきだとは。だから俺は、これからも探偵を続けるし謎を解明し続ける。いつまでも」
今回の事件、残念ながら九瀬の完全勝利とはならなかったというわけであった。