5.不穏な繋がり
「うちの子が人を殺すなんて信じられない。月並みですが、一週間経った今でもわたし達はそう思っています。そして、多分これからもずっと」
不気味なまでに冷静な口調の彼女は、見えぬ内部に埃が紛れ込んだパソコンのように、静かな壊れを内包しているかのようだった。そして、それきり俯いてしまった。ごくり、と息を呑む真琴。
今回の事件最後の取材として二人が訪れたのは、容疑者――否、完全なる犯人――の実家だった。地下鉄で終点駅まで十五分ぐらい、そこから地上を走る鉄道に乗り換えてまた三十分揺られ。
電話口では怪しい探偵と話すということに抵抗感を露わにしていた父であったものの、被害者の母の依頼であること、彼自身もなぜ息子が恋人を殺すに至ったか気になっていたこと、曲がりなりにも探偵である九瀬は大学に通っていて身元がはっきりしていること。これらの要素が重なって、犯人の家族と探偵という奇妙な会見は成ったのである。
さっきまでの馬鹿馬鹿しいコメディチックな雰囲気とは真逆の、沈みきった深海の空き缶のような雰囲気。父、母、そして姉。各々が被害者の母と同じか、それ以上の絶望と悲しみを背負っていた。
「ふむ、家族としては当然の感情だと思います。ところで、月並みな言葉に突っ込むのも野暮かもしれませんが、どうして決して人を殺さないと信じていたのでしょう。なにか、月並みでない理由がありましたらお答えください」
ことん、と出されたコーヒーをテーブルに置きながら九瀬は尋ねる。
母は申し訳なさでいっぱい、というように俯いたままだった。
「月並みを抜き、ということは家族だから息子だからというのはなしってことだな」
父が念を押すように尋ねた。頷く九瀬。
斜め四十五度を見上げ、父は啓介の過去を回想した。
「……あいつは、昔から絵とか小説とか音楽とかテレビとか、――創作物と言えばいいのか?――が大好きだった。小さい時はアニメや絵本に夢中になり、成長するとそれが音楽や小説、テレビドラマに変わった。わたし達親が、想像力を養わせるためにそういったのを与えたのもあるが、啓介は特にのめり込んだ。娘の瑠美は逆に反発してそういうのと縁遠くなってしまったからな。なあ?」
隣に座る瑠美は少しばかり首を傾げた。少し厚化粧であるが、濃いマスカラにつけまつげが家族には不要の色気を醸し出していた。大きく整った形の口を開く。
「反発……てのはちょっと違うと思うけどね。ただ単にあたしに合わなかっただけだと思う。でもそれを抜きにしても、啓のそういうの好きさは凄かった。現実より架空の世界で生きてたって感じだった」
「架空の世界、ですか」
啓太の意外な一面に少なからず真琴は驚いた。三十代近くまで働かずにバンドマン、という経歴を見る限りではある意味で純粋で、かつチャラチャラした雰囲気の男だと思っていたのである。脳内世界に引きこもる、いわゆるオタク的な人間だとはまったく思わなかった。
「ああ。私も結構読んだり観たりする方なんだが、あいつには遠く及ばなかったよ。一時期は本を読むために学校をサボったり、好きなバンドのライブに行きたくてお年玉の前借りを懇願してきたときもあった。自分でも書いたりしてみた時期もあったが、どうやら絵も文章も才能がなかったらしくすぐ諦めていたな。正直心配だったよ。このまま深みに沈んでしまって、戻れなくなってしまうんじゃないかと。
でも、状況は変わった。中学生のある時から、急に歌を歌うことに目覚めたんだ。あれはなんでだったかな――」
思い出せない父に姉が助け船を出した。
「たしかあれよ。クラスでカラオケに行ったとか」
「そうだった。それから突然部屋でボイストレーニングの真似事をしたり、腹筋に励み始めたりしてたな。あんまり上手くはなかったが、現実で打ち込めることができて安心したものだった」
懐かしむ、あるいは現実逃避するように父は腕を組み、すこし微笑みを浮かべた。
「なるほど、バンドのボーカルになったのも、その時歌うことの楽しさに気付いたからなんですね」
「だと思う。高校生になってすぐバンドを組み、ライブハウスでライブをするようになった。私は仕事があったから行く時間がなかったが、たしか母さんは一度か二度観に行ったことがあったんだよな?」
少し前屈みになり母を見やる。だが俯いたきり、父の言うことは少したりとも耳に届かないようだった。彼女の脳裏にあるのは栄美子への申し訳なさか、あるいは啓介との別れの悲しさか。
空振りに終わった父は少し咳払いをして姿勢を直した。
「すみませんね。まだ息子が逮捕されたというショックから立ち直れないようで」
「いえ、心中お察しします」
やはり言葉だけで、なにも察した様子はなく真顔を保っていた。そして、
「一つ質問があります」と毅然に言い放つ。
「な、なんでしょうか」突然の反攻にいささかドギマギしてしまう父親。
「啓介さんが高校を卒業してから――つまり、一人暮らしを始めて実家から離れてからですね――あなた達はどれぐらいの頻度で彼と会っていましたか」
「は、はあ……」と父。少し考えてから、「ほとんど顔を見ていなかった、というのが正直な感想ですな。半ば勘当のような形で喧嘩別れしたものだから」と決まり悪そうに口元に手をやった。
「ほう、勘当ですか」
九瀬は目を光らせた。すると慌てて弁解するように父は言った。後ろめたさを感じているらしい。
「勘当といっても、言葉通りの大層なものじゃない。ただ、いつまで経ってもプラプラと働きもせず、まだそれだけなら自業自得で済むが、栄美子さんに養ってもらっていると聞いては説教の一つもせずにはな。だが、どう言っても『夢』の一言で片付けられてしまった。息子に言い負かされてついカッとなってしまってな。『もう二度と顔を見たくない、出て行け』と怒鳴ったら、あいつは多分その言葉を待っていたんだろうな。凄い勢いで家を出て行き、それからもう何年も会っていなかった。久しぶりに会ったのは警察署での面会だったよ」
そして「失礼」と返事を待たずにその場を去った。バタンと荒々しく閉じるドア。
取り残される四人。ドアをじっと見つめる九瀬に、気まずそうによそ見をする姉に、相変わらず俯いたままの母。そして呆れてしまった真琴。
なんだなんだ、あのおじさん、あんな大事なことを隠していたままずっと啓介さんの話をし続けていたのか。喧嘩して追い出したって事実を知ってれば、それまでの言葉の印象がだいぶ変わってしまうじゃないか。これが過剰なバイアスってやつ? 信憑性が薄まるとかなんとか。九瀬さんの言ってることがちょっと解ったような気がする。
じゃあ、なんでそんな無意味に近い話を九瀬さんは繰り返しているのだろうか?
そんな真琴の疑問は露知らず、九瀬は姉に同じ質問を繰り返した。
「あなたは、啓介さんとは?」
はっと九瀬の方を驚いたように見つめる。父のあのような動揺を目の当たりにするのは少々精神的にクるものがあったらしく、明らかに元気を失っている。
「あ、あたしも……あんまり会ってなかったかな」
「ほう、そうですか。弟さんが同棲同然として住んでいた栄美子さんの家と、あなたが住んでいるこの家は地下鉄で二駅とかなり近い距離にありますよね。お父さんが心情的に啓介さんと会っていないのは理解できますが、あなたが会わないというのあまり理解できませんね。あまり仲がよろしくなかったのでしょうか」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「ですよね」
と、にやりと笑みを浮かべる九瀬。そして、どういうわけか黙りこくってしまった。
沈黙が、純ではない静謐が、密室となった客間を満たす。かすかに効いた空調の音のおかげで居心地の悪さは紛らわせていた。そこまで温度設定は低くないが、九瀬は涼しい顔をしている。
これぐらいの温度で平気ならば、どうして事務所はあそこまで寒くしているのだろうか。真琴にとっての九瀬の謎が更に増えてしまった。
明らかに不自然な沈黙時間が過ぎる。父はまだ戻ってこない。というか、戻る気はもう無いのかもしれない。
五分も十分も経っただろうか。応接室に時計は掛かっていたが、真琴の位置からは思いっきり振り返らないと見られないので確認することはできなかった。もちろん、スマホを取り出せる雰囲気ではない。
そんな時に口を開いたのはやはり九瀬だった。
「さて、お母さん。そろそろ落ち着いてきましたか」
そのタイミングを計るために黙っていたのだろう。先ほどの父の言葉には反応しなかったのに、今度はそろそろと顔を上げた。そして二三度首を縦に振る。
「……はい、大丈夫です」
「無理はしなくていいですから。もしよければ、さっき私が言った質問に答えてくださると助かります」
「啓介と、どれぐらい会ってたかというのですか」
「はい」
「一ヶ月に一回ぐらいでしょうか。あの子はこの家に来る気はもうなかったようなので、私が電話して近くの喫茶店で会ったり、一緒に買い物へ行ったりしていました」
「お姉さんはその時も会ってなかったのですか?」
単なる質問ではなく、そうではないと決めつけるような言い方だった。そして、それは正解だった。
母はちらりと姉の方を見た。姉は呼応するように少し瞬く。
「毎回ではないですが、二回に一回ぐらいは会ってたと思います。今月も、事件の一週間前――土曜日にファミレスで食事をしました」
あっ! と真琴は思わず叫びそうになった。一週間前と言えば、啓介がKとして《ビヨンド・ザ・レインボー》のメンバーに働く宣言をした時期と被るではないか。もちろん一週間前といっても、ぴったり日にちが合っているわけではないかもしれないが相互にどこかで関係している可能性は非常に高いんじゃないか?
「ど、どんなことを話したんですか?」
興味を第一に、勇み足で尋ねる真琴。
「……いつもと同じ、近況報告程度ですよ。なんだかもうすぐ大きなライブがあるとかで、張り切っていました。ねえ?」
振られた姉も慌てて頷いた。
「そうそう。あたしも結構好きだから、一石二鳥だって笑ったのは覚えてる」
「覚えている会話はそれだけですか?」と九瀬も乗っかる。
「ええ」
姉はそう強く言い切った。そして口を閉じ、これ以上のことを話す気は無いという気配を明らかにする。
「なるほど、わかりました」
もっと聞いてやれ! と更なる質問を期待した真琴だったが、九瀬はそれ以上踏み込む気はないようだった。探偵本人がそういうつもりなのだったら、助手(自称、が頭に付くが)が出しゃばるわけにはいかない、と渋々自重した。
不意に九瀬は立ち上がった。
「さて、だいぶ長くなってしまいましたが、これにてお暇します。ありがとうございました。奈々村、行くぞ」
「え?」と真琴、母、姉の言葉が重なった。思わず互いに顔を見合わせ、気まずくなる。
「もう、いいんですか」と真琴。九瀬はそれを無視して一人扉へと向かった。仕方なく、二人に一礼してから慌てて追いかける。
出迎えに立ち上がる暇もなく、九瀬と真琴は啓介の既に縁遠くなった実家をあとにした。