4.『真実に至る道筋』を探せ
九瀬は『日記』を見ただけで満足してしまい、すぐに母親に暇を告げ部屋をあとにした。その足で駅に直行し、タイミングを測るようにやってきた地下鉄に飛び乗る。
ほぼ揺れのない車内で、揺れに揺れ揺れ翻弄される真琴の口から放たれた当然すぎる質問。
「ちょ、ちょっと! あれだけで良かったんですか」
「いいも何も、あの『日記』以上に得られ得るものなんてないさ。事件の痕跡は警察が全部持ち去ってしまったし、母親に質問を繰り返したところで、得られるのは『亡き最愛の娘』という過剰なバイアスで、信憑性が薄まった証言に決まっている」
「バ、バイアスですか?」
「そうだ。それに、今回の依頼はホワイダニットだろう。だとすれば欲しいのは真実ではなく、真実に至る道筋だ。細々とした材料集めは必要ないんだよ」
真琴の頭がはてなになった。
バイアスってなに? 欲しいのは『真実に至る道筋』? 真実に至るものを求めるのなら、それは真実自体を求めているのと何が違うというんだろうか。そしてホワイダニットがどう関係しているのか。解らないことばかりだった。
「うーん、もう少しヒント!」
と人差し指を立てた瞬間に、次なる到着駅を告げるアナウンスが鳴った。
「さて、降りるぞ」
残念ながら、所要時間はわずか二分。隣駅への超ショートライドで、真琴はそのまま九瀬の頭脳が引き起こす、訳の分からぬ潮流に飲まれていくしかなくなってしまったのである。
※※※
「あんたさ、本当はKの無罪を証明するために来てくれた探偵なんだろ!? な、そうなんだろ?」
「お、おい、とりあえず落ち着けって」
九瀬と真琴は、駅前の楽器屋に併設されている音楽スタジオに来ていた。電話を掛けたその瞬間、ちょうどバンドのメンバーがそこに集まって練習を始める間際だったのだ。半ば強引に押し切った形で、練習を中断させ話を聞く機会を作ったのである。九瀬の話術のたまものだった。
胸ぐらを掴まんばかりに九瀬に詰め寄るのは、《ビヨンド・ザ・レインボー》のギターを務める(務めていた)Lだった。いかにも血の気が多そうな、全体的に角張っている青年だ。
九瀬は薄笑いを浮かべながら眺めているが、それを可能にせしめているのはベース担当のCが必死にLを押さえて護ってくれているが故である。Cはひょろ長い体型をしていて、明らかにLより下回る筋力であるような見た目をしていた。
護るモノがある人は強いとよく言われるが、俺みたいな得体の知れない他人を護るためであってもこれだけの力が出せるならば、案外バカにできた言葉じゃないかもな。
二人の小競り合いを他人事として、そんなことをつらつらと考えていたのである。
そしてひとしきり楽しんでから口を開く。
「空島シエル――Lさん、落ち着いてください。あなたが暴れたところでKさんを助けることにはなりませんよ」
「な! どうしてあんた、俺の本名を知ってんだ」
驚きのあまり、Lの動きは止まっていた。名前になにやら引っかかるものがあるらしい。
「探偵だから、としか答えようがありませんな」
「こいつ!」
「ねえ、それよりKは今どうなってるのよ。ウチ、心配で心配で。家族の電話もメルアドも知らないから連絡も取れないし」
と、Lの本名などどうでも良いとばかりに割り込んだのはキーボードのUである。ちなみに、その透明感のあるボイスを生かしたコーラス担当でもあるらしい。
「さあな。罪は認めてるから、のんびりいつ娑婆に出てこられるかの皮算用でもしてるんじゃないですかね」
「なんでLの本名知ってて、Kのことは知らないのよ!」
このヘボ探偵、と罵るU。たまらず真琴が弁護に回ろうとすると、
「やっぱりKが栄美子ちゃんを殺したのか?」
やや後ろから冷静な目つきでメンバーを見据えていたYが言った。テンプレート通りの大柄で筋肉質なドラマーである。
ギターのL、ベースのC、キーボードのU、ドラムのY、そしてボーカルで殺人者の啓太ことK。彼ら男女五人が《ビヨンド・ザ・レインボー》なのである。
「下手な希望は時に絶望よりも絶望たりえるのではっきり言いますが、その通りです。Kが栄美子さんの自宅に押し入り、彼女をナイフで刺し殺しました。動かしようのない真実です」
「証拠はあるのかよ。まさかてめえらや警察は、Kが自白したからってそれだけで決め込んでるんじゃないだろうな」
今度はLが再び突っ込む。同じく再び制止しようとするC。
「すべての状況が彼を犯人だと指し示しています。凶器である包丁の柄に付着した指紋、栄美子宅の合い鍵、犯行時刻に現場付近をうろついていた、そして繰り返される自分が殺したという自白。どれか一つだけなら覆しようもありますが、残念ながら今回は無理でしょうね」
「……くそ」
反論の余地のないLは俯くしかなかった。
メンバーの間を沈黙が支配するのを確かめると、今度は九瀬の番である。
「さて、いい具合にシリアスなムードとなったところで、本題に移りましょう。私がお伺いしたい質問は一つだけです。『Kもとい啓太は恋人である栄美子を本当に愛していたのか?』。啓太が栄美子を殺害したという事実をふまえてお答えください」
「その答えの如何で、啓太が無罪になる可能性があるのか」
わずかな希望を込めてYは聞いた。Kでなく、本名で呼んでいたことを果たして自覚していたか。
あっけなくその希望を打ち砕く九瀬。
「いえ。無罪はおろか、罪が軽くなることもありません」
「だったら答える意味は――」
「ですが!」
九瀬は不意に声を荒げた。CやUはびくんと背中を跳ねさせ、LとYは何かに気付いたように彼のいつになく鋭くなった瞳を見つめた。
衆目を一つに集めた男は小さく咳払いをし、いつもの落ち着きを取り戻した。
「ですが、今言った『罪』とは司法上、法律上での『罪』です。たとえ啓太さんが栄美子さんに真実の愛を感じていたとしても、彼女を殺害したという形而下的な事実は動きません。でも、あなた達の心の中における彼の罪の大きさは変わり得るでしょう。彼の法律的罪を軽くするのは弁護士の仕事です。あなた達は彼の真実を見つめ直すことで、突然の逮捕に混乱しきっている現状を整理するべきなんですよ」
強く言い切った九瀬に圧され、互いに顔を見合わせるメンバー。その言葉はどちらかと言えば堅苦しい表現で理解しがたいものだったが、だからこそ不思議な説得力が生まれ、そんなものなのかな……? という空気が支配的になりつつあった。
Uがおずおずと口火を切る。
「啓太は、本当に栄美ちゃんのこと愛してたと思う。ウチが言ってもあんまり参考にならないかもしれないけど」
するとCがそれを受けて、
「Uは恋バナ大好きだからね。でも、僕もそう思うよ。あ、そうだ、たしか先週の金曜のことかな。Kが言ってたんだ。『俺、次のフェスで駄目だったらちょっとずつ働こうって思ってる』ってさ」
「フェス?」と真琴。
「そう。実は明後日、でかいロックバンドが主催するフェスに参加させてもらえることになってたんだ。《エルトベルツ・サッド》ってバンド知ってるでしょ」
「ああ!」
それはデビュー当時から現在に至るまでおおよそ二十年もの間、奥行きのあるメロディーと哲学的かつ幻想的な趣のある歌詞を武器に、ジャパニーズ・ロックの先頭をひた走ってきた超有名バンドであった。
「知ってるでしょ。彼らがインディーズの無名バンドを集めたフェスを主宰するってことになってさ。僕たちもお呼びが掛かってたんだ。もしもここでいいパフォーマンスが出来れば、一気に大舞台へ進むのも夢じゃない! って盛り上がってたんだ。そんな最中にKのその台詞だからさ。そりゃあびっくりするよね。一応K以外の僕たち四人はバイトでも派遣でも、なにかしら働いたことはあったんだ。彼は『歌い、夢見るニート』を自称し、今まで働いたことはまったくなかった。そんな彼が……ね」
Cの後を継いだLは、顎を九瀬に向けて突き出した。
「しかも、あいつ正社員になるなんて言ってたからな。正直俺は馬鹿言うんじゃねえ!って思ったな。奴はニートでヒモで歌う以外には生きる意味のないような奴だったが、俺だってそんな奴に付いてきて十年以上プロへの夢を見続けてきたんだからな。今更まっとうな道を歩もうとするなんて呆れたよ」
「啓太がようやく栄美ちゃんの方をちゃんと見たってことじゃない。ずうっと啓太のことを影で支えてくれてたんだからさ。たしかに夢は遠ざかるのかもしれないけど、ウチは啓太の決意を聞いた時嬉しくて泣きそうになったよ」
「そうだね。啓太、今まで冗談でも『働く』って言葉口にしたことなかったから。それに、こんなこと言ってたな。『いざ働くとなって、栄美子が許してくれるか心配だな。あいつ、俺以上にプロの夢見てたから』って苦笑しながら。きっと、本気なんだろうよ。僕は応援する」
「俺も、そんなに悪い気持ちはしなかったな。それに、社会人になったからってプロへの夢が絶たれるわけでもないだろ。ボーカルは自分の喉とある程度の防音性が確保されてる場所さえあればどこでだって練習できるんだし」
「あほか。今までニートで売れなかったのに、就職して音楽に打ち込める時間が短くなっちまったらもっと見込み薄になるに決まってんだろ」
一人、流れに刃向かうL。
「ならお前がもっと良い曲を作ればいいじゃないか。売れるにはボーカルの歌唱力以上に曲の良さが大切だろ」
「は? 作曲しねえてめえに言われたくねーよ! 一曲書くのにどんだけの労力が要ると――」
根っからの喧嘩狂であるLが今度はYに口論を吹っかけた。止めに入るCとU。ずれまくる論点。消えゆく九瀬と真琴の存在感。
九瀬はやれやれと首を振った。そしてクルリと自然に半回転する。
「奈々村、次へ向かうぞ」
密かにメンバーの口論を楽しみながら見ていた真琴は、つっかえ棒が外れたようにがくんと体勢を崩した。
「え、このタイミングですか」
「こうなってしまったらもう対話は不可能だ。一度動いたら止まらない入り組んだ歯車のようなものだからな。それに材料はいくらか手に入った」
「材料?」
「さあ、行くぞ。『真実に至る道筋』はもう少しだ」
そして意味も内容もない早口言葉が反響しすぎ、一つの音楽を為しかけているスタジオから去るべくとっとと歩き出した。
もー訳わかんないよ!
真琴は心の中でそう叫びながら、《ビヨンド・ザ・レインボー》の『ラッキー』改め『ルーシー』達を背中に向け、九瀬の背中を追った。