2.安楽椅子探偵の動機講座
奈々村真琴はその瞬間身も凍るような衝撃に襲われた。
「身も凍る」は比喩でなくそのままの意味で、彼女が《久瀬探偵事務所》の玄関ドアを開けたその時、人工の冷気が身体を纏う熱気をあっという間に吹き飛ばし、たちまち極寒の南極世界に叩き込まれたのである。
「さ」
そしてぶるりと一呼吸。続け出る言葉は神の定理の如く決まり切ったもの。
「むううううううううううい!!」
腹の底から飛び出た音塊は、ほとんど物が置かれていない部屋の空間を縦横無尽に駆け巡った。虚しく反響するだけの彼女の声に同情したのか、この部屋の主はそこでようやく今まで見つめていた書類から目を離した。
「なんだ、騒々しい」
真琴とまさに好対照な低テンションは大学生探偵・久瀬円斗である。正方形の部屋、そのドア側から見て中央奥に設けられたドデカイ黒の机に座り、左肘を突き、右手で気怠そうに書類を持ち、瞳は呆れたように細め、真琴をぼんやりと眺める。
「なにこの部屋! 寒すぎの密室! まさに逆サウナ! こんなところにいると、汗の代わりに鼻水だらだらこぼしちゃ――くしゅん。……ほらあ」
反射的に顔を手で隠し、そのままの体勢でポケットをまさぐりティッシュを探し求める。
「なにが、『ほらあ』だ。これぐらいが俺の適温なんだ。放っておいてくれ」
「いやいやいや、この温度は人の好き嫌いってレベルを超えてるでしょ!? 物理的な人間活動に支障をきたすレベルじゃない! 一体何度に設定してるんですか」
ようやく取り出すことに成功し、チーンと鼻をかむ。
「摂氏十六度だ。これぐらいで支障をきたしてたらロシア人に怒られるぞ」
「いくらロシア人でも、十六度で半袖は着ません! ……多分。私なんて、それに加えて膝元まで出てるんですよ。ほら」
真琴は右足を振り上げ久瀬にスカート(とその下にある肌)をひらひらと見せつける。しかし久瀬は目もくれずに再び書類を眺め始めた。これ以上こいつと話を続けても無益だ、と考えたのかどうか。ぶぶ漬けを勧める京都人より圧倒的に直接的な言葉を吐いた。
「なにもなくて、ただ炎に飛び込む虫の物まねをしてるぐらいなら今すぐ帰るがいい。俺は仕事中だ」
「仕事中ならちょうどいいじゃないですか。私、ここの助手ですよ?」
喋りながら素早く机に駆け寄り、リモコンを駆使し極寒地獄からの脱出を果たす真琴。
力尽きるエアコンの呼吸に反応し、久瀬は渋い顔を作った。
「君を助手として認めたことはないが、たとえ百歩譲って助手だったとしても、今この瞬間においては不要だ。邪魔ですらある」
「どうしてですか」
「頭さえ使えば解決できる依頼だからだ。聞き込みやら張り付きはしなくてもいいというわけだ。必然、俺だけで十分な依頼ってことさ」
「ということは、普段の依頼では私が必要ってわけですか」
揚げ足を取った真琴であったが、久瀬はすぐに言い返した。
「探偵にはある程度の素質が必要だが、助手には誰でもなれる。人手が要ることがあるのは事実だが、別に君じゃないと、なんてことはないな」
ぶーたれる真琴。たしかに久瀬の言うとおり、今まで自分が助手として遭遇してきた様々な事件について久瀬の役に立ったことは、認識する限りでは一件もなかった。
なら、この『頭さえ使えば解決できる依頼』とやらで、私もただの助手と違って有能な、オンリーワンな助手であることを見せつけて認めさせてやろうではないか。
そんな強い反骨心をそのまま足音に顕わせ、真琴は手前左側にある応接用ソファーの客用の部分に腰掛けた。
「とにかく、どんな依頼か教えてくれるかまで私、てこでもここを動きませんから」
腕を組み、ふんぞり返る。
久瀬は書類の間からちらりと真琴の方を覗き見、そして溜め息を付いた。こうなるといくら巷で名探偵と呼ばれている彼であっても手に負えなくなってしまうのだ。
「仕方ない。教えてやろう」
「ほんとですか? わーい」
ささ、と素早く動いて今度は主人用のソファーに移動し少しだけ距離を詰める。そして後ろ(つまり久瀬の方)を向き、背もたれ部分に手を掛けて餌を待つ犬のような格好になった。
久瀬は口から餌を放つ。
「依頼内容は単純だ。依頼者である母親による、『なぜ娘が殺されたのか突き止めて欲しい』。ミステリ小説でいうホワイダニットの受け身版――これもホワイダニットか――というのが今回の命題となる」
「殺された……殺人事件ですか」
思いの外重い内容だったのに対して急激にシリアスになる真琴。
それに比して、久瀬はあくまで気怠い調子で続けた。
「ああ。先週の木曜日だから十日前。とあるOLが一人暮らしの自室に居たところ、突然押し入ってきた男によってナイフで腹に一撃。即死ではないが意識を保っていたのは十秒に満たないらしい。まあ、これは些末な情報にすぎないが」
「強盗殺人?」
「そうだったら動機は金目的だったということで一件落着なんだがな。残念ながら違う。犯人はすでに判明していて、被害者の彼氏だ。部屋を荒らされた形跡もない」
「彼氏!? 愛憎のもつれとかですか?」
「急ぐな、まずは事件についてだ。これは警察が調べた情報を母親が聞き取り、それを更に俺が又聞きしたものだから少し情報の正確性は劣るかもしれんが、まあ大勢に影響はあるまい。
事件発生は午後九時頃。被害者の女は仕事を定時で終え、部屋でおそらく『日記』を書きながら一人で過ごしていた。これは机の上に閉じた『日記』とボールペンが利き手の位置にあることから推定される。彼氏と会う約束をしていたかは分からない。そんな時、鍵をガチャガチャする音が女の耳に届いた。合い鍵を渡して半同棲生活を共に過ごしてきた彼氏かと思い迎えに出る女。そこに飛び込んでくる犯人。驚いて身動きできない女の腹を突き刺す。女倒れ、犯人は部屋を物色することもなく即座に去って行った――というのが簡単な概要だ」
久瀬は最後に、男の名は啓太で女の名は栄美子だと付け加えた。
「……ほんと、強盗みたいに強引なやり口ですね」
「ああ、今の説明は警察の捜査によって得られたのに加えて、容疑者である彼氏の自供も含まれている。だから正確性うんぬんという前に、嘘だという可能性もなくはない。直接犯行現場を見られなかった俺たちからすれば仕方ないだろう」
「ですね。それで、どうやって彼氏さんは捕まることに相成ったんですか」
真琴は完全にワトソンモードとなっていた。あらゆることに興味・疑問を持ち、探偵ホームズを質問攻めにすると共に会話を潤滑に進めるコミュニケーション能力を持つワトソンである。
大学生ホームズもどきは至って流ちょうに説明を続けた。
「慌てて逃げ出した彼氏は、どういうわけかその足で近くにあった今じゃもう絶滅寸前となっている電話ボックスに駆け込んで110番したんだ。しかも、その後もうろうろと被害者宅の周りをぶらついていて、やってきた警察官に見とがめられて一巻の終わりだ。錯乱したか、自責の念に駆られたかは知らんが明らかな自殺行為だな」
「まさに……ですね」
「以上が大まかな事件の経過であり、俺自身が依頼者より最初に聞き取った証言だ。これを語った後、『なぜ彼氏は彼女を殺したのか?』という至上命題を提出したというわけだ」
一区切りついて、目の前に置いてあったコップの中身を飲み干す久瀬。真琴には見ずともその中身は完全に予知できていた。真っ黒で、しゅわしゅわと熱くもないのに沸き立つ甘い液体。つまり、コーラである。久瀬はコーラを炭酸飲料としてではなく、砂糖が大量に入った水として好んで飲んでいた。彼に言わせれば、糖分は頭のガソリンであり、切れてしまえばそれはイコール睡眠状態の脳と変わらなくなってしまうらしい。もちろん大袈裟な言いようではなるが、それでも確かに手に何も持たない久瀬は『夕焼の太陽』と比喩できるような儚く切ない雰囲気を漂わせ、無気力人間となってしまうのだ。といって、糖分入って気力十分! といくわけでもないのだが。
「あ、ちょうどいいや。私コーヒー入れますね。久瀬さん、一人で居る時はコーラばかりだから、まだ前買ったインスタント残ってるでしょ」
「……」
まるで自分の家だと言わんばかりに大股で足音荒く、普段生活空間として使用している隣室へと向かった。そしてひょこりと顔だけ出して、
「円斗さん、砂糖は?」
「飽和するまで」
久瀬は肘を突きながら即答した。だよね、と再び引っ込む。
しばらくして二人の前に置かれたコーヒーカップからは、自己主張するようにあざとく湯気が立ち上っていた。その湯気をまるで煙たいと言わんばかりに手で仰いだ久瀬は言う。
「夏だというのにホットか。季節感がないな」
「無季節世界を体現したような部屋に住む主に言われたくないです」
「それより依頼の続きだ。先述した通り、依頼者は被害者の母親だ。わざわざ実の娘が殺害された理由を探偵に探らせるのには相応の理由があってな」
久瀬の強引な話の転換に、顔の筋肉にどれぐらい力を入れるべきか真琴は迷ったがとりあえず引き締めモードにすることにした。
「そもそも、人が人を殺す動機として挙げられるのはそう多くない。具体的には――」
「はい! まず一つはお金関係ですよね。遺産相続とか生命保険とか、前古屋さんに貸してもらったミステリ小説もかなりがこのパターンだったような」
古屋とは、久瀬や真琴と同じ大学に通っている男である。二人とは浅からぬ関係を持っているのだが、今短編での出演はないので詳細は割愛する。
「うむ。他にも借金の踏み倒しや隠し財産を狙って、というのもあるな。なんにしても、金関係の犯罪には目に見える背景が存在するから動機としては目立つ存在だろう」
「ということは、今回は当てはまらないんですね?」
「ああ。被害者はあまり業績芳しくない小さな商社で事務員として勤めていて、人一人殺す決断をさせる程の給料は貰っていなかった。容疑者と被害者は半同棲状態だったらしいから、資産状況は嫌でも知ることになっていただろう。また、殺人現場である被害者の自宅においても特に何かが盗まれたという形跡はなかった。生命保険にも加入していない」
「なるほど……結婚してないなら遺産とか生命保険とかも関係ないですね」
「そういうことだ。他に動機として考えられるものは?」
「彼女――栄美子さんのことが邪魔だった、とか?」
「邪魔というにも、なぜ邪魔だったのかという理由が要るだろう。今考えるべきはそっちだ」
あ、そっかと考え直す。だが少しののち、
「うーん、具体的にっていうと思いつかないです」
と匙を投げた。久瀬は小さく頷いて、
「なら、もう少し二人の関係をもう少し掘り下げていくとしようか。被害者と容疑者は高校時代からの付き合いだ。栄美子の方が二つ上で、一年生にして文化祭ライブで観客を沸かせた啓太に一目惚れしたらしい。その後、半ばおっかけとなり楽屋にも押しかけ、ついに射止めることに成功したという」
「へえ。女の人からアタックしたんですね」
ほのかなシンパシーを感じると同時に、愛する男から殺されてしまった事実を思い出し暗澹たる気持ちに落ち込む真琴。
そんな彼女の内心はつゆ知らず、久瀬は淡々とカップルの恋愛事情を暴露する。
「その後栄美子は順当に大学へ進んだが、啓太は就職せずにバンド活動を続けた。……えーと」
暫し中断し、ちらりと資料に目をやる。
「《ビヨンド・ザ・レインボー》というバンド名らしい。直訳すると《虹の向こうに》とか《虹を越えて》てところか」
「だっ……!」
――さい、と続けようとしてすんでのところで踏みとどまった。プロならともかく、アマのバンドを悪く言うのは気が引けたのだ。たとえ解散可能性が九十九パーセントをはるかに越えていたとしても。
「現在啓太は二十五歳で、栄美子は二十八歳。いまだにバンドで一山当てる夢を見続けている啓太を、栄美子は自分の稼ぎで養っている」
「ヒモってやつですか」
「チケットとかグッズで多少の稼ぎはあるらしいが、実質的にはそんな感じだろうな。ライブの動員は平均すると三十五人程度。ノルマとして与えられている十五枚以上売れた分の七十五パーセントがバンドの儲けとなるらしい。チケットの値段は二千円。つまり一回のライブで得られる収入は三万円となるわけだ。《ビヨンド・ザ・レインボー》はボーカルの啓太に加えてギター・ベース・ドラム・キーボードがそれぞれ一人ずつで合計五人だから、割ると一人あたり六千円。ライブは平均で月に五回、月収にして三万円。金額だけ見れば、高校生のアルバイトと大して変わらんな。
長い間続けているだけに根強い固定ファンは存在するが、いかんせんその数が少なすぎる。ほぼメンバー個人個人の人脈でしかないようだ。残念ながら、犯罪をせずに続けていても売れる見込みはなかったらしい」
相変わらず凄まじい情報量だ、と真琴は感心した。ただ色んな知識があるだけではなく、物事の表事情や裏事情まで精通しているのだ。マイナーなインディーズバンドの売れなさ具合をいったいどのようにして知ることができたのか。直接本人から言質を取ってはいないが、なにやら尋常でない情報網を久瀬は手にしているという噂がまことしやかに流れていた。探偵の裏で情報屋も営んでいるという風説さえあったりする。
「栄美子はそんな実質無職の啓太を十年近くも面倒見続けてきた。陳腐な言い方だが、やはりそこには啓太に対する猛烈な《愛》が起因しているのだろう。依頼者である母も、半ば呆れるようにそのことを口にしていた」
「《愛》ですか……いいですね」
夢見る少女となってうっとりとした目つきになる真琴。が、
「だが、啓太のほうはどうだろうか」
「え?」
「こちらについては情報が不足しているから憶測に過ぎないが、やはり金目当てで付き合い続けていたのではないかという疑いが生じる。たとえ彼に《愛》がなかったとしても、働くことを思えば、フリをして一緒に暮らしていくほうが楽だという考えがあってもおかしくはないし、むしろ自然とも言える」
「うー、たしかに……でもそんなの」
「あくまで憶測だ。だがこの憶測が正しければ、他にヒモとして寄生する対象ができてかつ、もっと好みの人間が出来て《邪魔》になったから栄美子を殺したという可能性もある。簡単に別れられる相手でないのは《愛》の重みを直接感じた啓太にとっては自明だったろうからな」
「うーん」
真琴はそうやって唸ることしかできなかった。久瀬の言ったようなことは昼ドラとか女性向け漫画みたいな恋愛物語ではよく見られる展開だ。だけれども、恋人を守るために命を捨てる主人公について感心はするが実在を期待することはほとんどないのと同じように、そうやって《愛》の束縛から逃れるために殺人を犯すなんてことも実在するとは思えなかったのである。
しかし、たしかに久瀬の言葉に筋は通っていた。だから反論できずにただ腕を組んで唸るだけなのである。
「ま、これについては保留だな。解答としての候補となるだろう。――さて、他にはなにか動機候補を思いつくか」
「他に?」
言うとおりに脳を切り替えて考える。
金と愛。それ以外の動機……。
ここで真琴は以前読まされたミステリ小説の冒頭を思い出した。ミステリ好きならば誰もが読んでいるというレベルの国内超人気作だ。
「栄美子さんを殺すことで、なにか大きいことを成し遂げようとしていた?」
「成し遂げる? たとえば」
「ほら、前私が古屋さんに貸してもらった小説。『占星術殺人事件』だったかな。あれの最初の手記のやつですよ」
と言いながら、あのグロテスクな手記の内容に少し胸が悪くなる。
ああ、と腑に落ちた久瀬は頷いた。そして何でもないというように、
「芸術家である男が錬金術や占星術に基づいて、完全な女性の人形を作りだそうとしたものだな。そうだな、あれは宗教を動機としていると言えるだろう。形のない何かに固執することすべて、ある意味で宗教的だからな。もちろん、殺人までしようとするのは病的な信仰に違いないが」
「まさか啓太さんも何かの宗教を……」
こっちこそ物語的すぎるな、と八割否定的しつつ一応尋ねる。案の定久瀬は首を振った。
「それはないだろう。誰にも気付かれないように密かに信仰していた可能性はあるが、少なくとも周囲の人物になんらかの勧誘活動を行ったという情報はないし、家宅捜索でも関連が疑われるようなアイテムは発見されなかった。限りなくゼロパーセントと言っていい」
「ですよね。でも、もう他には……」
「あと考えられるのは、啓太には殺人願望があったとかあるいは喧嘩などで発作的に殺してしまったというのがある。だが、前者は今まで二十年以上生きてきて殺人どころか誰かを故意に傷つけたこともないという事実から、後者は自宅から包丁を持ちだしてきて栄美子の家を訪れたという事実から、それぞれかなりの蓋然性で否定される。――挙げられる動機の可能性としてはこんなものだろう」
そこで一息ついて、冷めかけたコーヒーに手を付ける。
カップが机に置かれるのを待ってから真琴は言った。
「じゃあ、一つだけ残った《愛》が答えなんでしょうか」
「だと思って今も話しながら考えてはいたが、それもあまりはっきりとしない」
と少し顔をしかめる久瀬。
「どういうことですか?」
二人の間に沈黙が流れる。真琴は何かを期待した様子で、左右に流れる久瀬の双眸を見つめながらコーヒーを啜った。
場には、幾分か弱められたクーラーの制動音のみが響く静寂。
もう一杯淹れてこようと腰を浮かし掛けたその瞬間だった。九瀬はゆっくりと顔を上げ、苦虫を噛み潰したような表情を作った。
「仕方ない、動くとするか」
「待ってました!」
真琴は目を輝かせた。