神よ!
塚原晃一はこの秋をもって12歳になった。普通ならば小学校6年生。来年には中学校に進学する歳である。思春期を迎え、いよいよ人間として成長著しく、伸び立つ頃だ。
だが晃一は、そんな“普通”の枠に収まることのできない、ある特殊な少年だった。彼自らが望んだことではなく、それは運命的なものであった。
晃一は、父の尚之と、母の雪江との間に、長男として生まれた。両親にとっては待望の初子。新たなる生命を抱き、家族の輝ける未来の象徴として、晃一はこの世に歓迎をもって迎えられた。晃一はそれに、旺盛な泣き声をもって答えた。
だが喜びは束の間、暗転はすぐに訪れ、晃一の家族の輝ける未来は不気味に躍動する黒き不安な靄に閉ざされてしまった。生後の検査の結果、晃一の心臓は先天的な病に冒されていたのである。何百万人に一人と言う珍しい病気だった。
まさに運命!
それから晃一は病院こそが常床となった。外泊が許されることもあるが、闘病の日々の慰め程度でしかなかった。
もう何度、手術を受けたであろうか。上半身裸で鏡の前に立つ彼の姿は、幼き容貌とは異なり、幾たびもの戦塵を潜り抜けた豪傑のようである。傷跡が生々しい。もはや、どれがいつの戦いのものであったか。
それでも晃一は生きた。そして成長した。普通の子供がそうであるように小学校に通うことは叶わなかったが、病院の学校、院内学級に通うようになっていた。
晃一は勉強が好きだ。様々な事を知ることは激しく晃一の知的欲求を刺激し、満足させた。それまで病気という殻に閉じこもっていた晃一が、知識と言う素晴らしい翼を得て初めて、心の空を旅した気持ちになれた。限りなく壮大で、魅惑的な蒼天を。
国語が好きだ!算数が好きだ!理科が好きだ!社会が好きだ!
いつしか晃一は、病弱な体を見捨て、その代わりに内面を、知識をもって精神を鍛えることに喜びを、生きがいを感じるようになっていた。外面たる体の弱さを、内面を鍛えることによって補おうとしたのだ。
晃一の勉強にたいする集中力は凄まじいものがあった。吸収力、理解力もまた、並大抵のものではない。ついこの間も、某有名中学校の昨年の入試問題をやったところ、全問正解と言う鬼気迫る結果を残した。
これには、一度は晃一の未来に希望を失っていた両親も、再び水平線から昇る煌々たる朝日を見る想いであった。
けれども運命というものはどうしても晃一の前途を暗く、重いものにしたいらしい。
ある北風強い晩秋の日、晃一の容体は急変した。
※
トルック王国のスクール村に、“神童”と呼ばれる一人の少年が住んでいた。名を、シメル・セハンという。
トルック王国はナルバン大陸の東南に位置し、周囲を高い山岳に囲まれた盆地帯に広がる王国で、領土的にも人工的にも、小国というのにふさわしい。
シメルの住むスクールは、首都エジンスからさほど離れておらず、子供の足でも1時間ばかりあれば着いてしまう緑豊かな村だ。人口はおよそ300人。
村の中にあって唯一の石造りの建物がある。民家は大抵が木造なので、それゆえにその白い建物は非常に目立つ。教会である。
この世界の人々にとって神とは、神聖なる者“聖”の象徴にあらず。神とはすなわち“力”の象徴であった。姿を隠して神聖化するのではなく、神は実在し、力を示すものであった。人々は神々を敬い、畏怖さえすれど、信仰することはなかった。おのずと教会の意味合いは独自のものとなる。
神は個人を守護する、守護神として現れる。守護された者は神の力を得て、常人では行えない奇跡を操る。破壊、飛翔、治癒。教会とは、その神に選ばれた者達が集う場所であった。(教会という言葉は適当ではないかもしれない。“神所”とでも言おうか)
そして、シメル・セハン。12歳の彼もまた、神に選ばれた一人であった。“神童”と呼ばれる由縁は、類まれなるその神の力の強大さゆえに。彼ならば1分となくこのスクールを灰燼に帰すことも可能だろう。
シメルは捨て子であった。両親が誰なのか、今だもって知れない。幸いにも育ての親となる老夫婦に拾われたことから無事に成長を遂げたが、ある時偶然知ってしまった事実に、シメルは絶望したものだ。自分は望まざるべき、捨てられた子なのだと。だがその時、シメルはすでに人々に必要とされるべき存在となっていた。神に選ばれていたのである。
普通、選ばれた者に神が憑くのは10歳前後のこと。神は突然降って湧いたようにその者を守護下に置くのだが、シメルは1歳を待たずして守護された。まさに稀有の出来事である。さらには、守護した神の力が尋常ではなかった。
シメルは6歳早々に国王との謁見を許され、8歳を迎える頃には国随一の使い手として、国の宝とも言われるようになった。シメルは神の守護を受けることによって、自分の存在の拠り所を見付けていたのである。
僕は生まれてきてよかったんだ!
今だ幼い容姿ながらも、彼は国の先頭に立つ。本来ならばエジンスに駐屯するところを、国王の許しを得て、育ったスクールの神所に駐屯する。いつか、人々に必要とされるその時まで。
幸か不幸か、その時はやってきた。南の異郷より“人にして人にあらず”妖面醜悪な者《異人》が、トルックを急襲したのだ。
※
集中治療室。煌々と照らすライト。躍り上がる医療機器の光の線。雪の白さにも似た純白のベット。蜘蛛の糸の如く張り巡らされたチューブ網。捕らわれた晃一。
晃一の苦しげな呼吸音が耳に痛い。
容体の急変から一週間。晃一は一進一退を繰り返していた。時々混濁の中に両親や医師の声を聞いたが、すぐにそれは遠退き、晃一は夢幻の中を旅する。
晃一が神を意識したのはいつ頃だったろうか。この呪わしい体を自分に与えた運命の神を憎みだしたのは。
晃一が、自分が他の子供とは違うということを意識しだしたのは、4、5歳の頃だったと思う。それまでは病院の中こそが世界。体に絶えず繋がれたチューブも自然にあるべきものだった。周りにも晃一と似た境遇の子が、病気こそ異なれ、何人かいた。だから疑いもしなかった。
だがある日、母の姉、つまり叔母が、晃一より1歳年下の従兄弟を連れて見舞いに来た時のことだが、従兄弟が晃一の姿を物珍しげに見、興味を引いたチューブをおもちゃ代わりとしてしまった。慌てて叔母はチューブから従兄弟の手を引き剥がし、言い聞かせた。「お兄ちゃんは重い重い病気なの。これは大切な物だから悪戯しちゃ駄目」分からぬだろうに、妙に納得したような従兄弟の顔。
ああ、自分は病気なんだ。重い重い病気なんだ。
その頃晃一は病気という言葉の意味をようやく理解するようになっていたが、まさかその言葉が、自分に当て嵌まるものだとは意識していなかった。悲しかった。悩んだ。怖くなった。憎かった。誰が?両親が?いや、違かった。自分にこんな体を与えた運命の神が!
運命という言葉を覚え神の存在を知り、こう思うようになったのは、そう、昨年あたりか。考えに考え抜くことで自然に辿り着いた答えだった。
神よ、なぜ僕にこの体を与えた!
神よ、なぜ僕がこんなにも苦しまなければならないのか!
※
異人の中にも神はいる。だが、決して邪神とは呼ばない。この世界の神に“聖”も“邪”もないのである。ただ“異神”とだけ言う。
戦いは熾烈を極めた。当初、南の山岳地帯より坂落としに流れ込んだ異人は、王国の南部地方を席巻。多数の村が焼かれ、多くの人々が異人の手にかかった。
対して王国軍は、これに応戦。一時のこう着状態を打破し、次第次第にと異人を南方山岳部へ追い込んでいた。その先頭には、軽いなめし革の鎧をまとった“神童”シメルの姿があった。
シメルは戦いにおいて常に前線に立ち、多くの戦功を挙げ人々に称えられることによって、自分の居場所を再確認していた。
みんなが僕を必要としてくれている!
自分に力を与えてくれ、存在価値までをも与えてくれた己の守護神に、感謝の言葉もない。
だがしかし、シメルはここ数日ある異変に気が付いていた。通常、神の力を発動した時、力の現われは青みを帯びた閃光となって対象物を破壊したり、人を空に舞わせたり、傷を癒したりした。ところがここ数日のシメルが守護神の発する閃光は、やや紫がかり、それが徐々に赤みを帯びだして、今日の戦いに至っては、ついに燃え立つような紅となってしまったのである。
この世界には、次のような事実がある。“力、朱に染まる時、神、命燃え尽きて死す”
トルックの人々は、今、シメルの力が失われることを恐れた。それ以上にシメル自身が不安にかられ、恐怖におののいた。もし今、神に見捨てられたならば、自分はどうなるのかと。神がいたからこそ、今の自分はありえるのに。神は自分を捨てるのか?そう思うと、シメルは涙にむせた。
神よ、どうか去らないでくれ!
神よ、見捨てないでくれ!
※
その夜、晃一は山場を迎えた。体温が40度にも跳ね上がり、もはや白目を剥かんばかりであった。一体いつまで彼のガラスの心臓は持ちこたえてくれるのだろうか。いつまで持ちこたえてしまうのか。医師が忙しく立ち動く中、両親はもはや見ていられなかった。
打って変わって、晃一の魂は静寂の中にあった。真っ白い空間。地面以外に何もない空虚な空間。いるのは晃一だけ。どれだけこの空間が広いのかは定かではない。けど、広いように思う。
晃一はさまよった。あてもなく。思うところはない。ただ前へと、夢遊病者のように。と、前方に光の輝きが見えた。それはやがて徐々に強さを増し、晃一の視界を覆った。晃一は手をかざしつつ仰ぎ見る。すると、光の中央に人影が映った。顔は見えない。誰なのか分からない。だが、咄嗟に晃一は理解した。それが何者であるか。その途端、胸に激痛が走った。まるで焼けたナイフを心臓に突き刺され、捻じ込まれるような激痛が。晃一はありったけの力を振り絞り叫んだ。
神よ!
※
王国軍の駐屯地を異人が奇襲してきた。それも、大掛かりのものだ。この奇襲で一気に劣勢を挽回しようとするものらしい。闇空の下、燃え上がる王国軍のテントを光源に乱戦となった。
シメルは戦った。国の宝として充分すぎる程に戦った。しかし、明らかに神の力が衰えてきている。もはや閃光は血の如き真紅の色となっていた。それはまるで、戦場に舞う凶星の如くに!
王国軍も意地と愛国心から、必死に異人の攻撃を防いでいたが、彼らの頭上には禍々しき凶星が!次第次第に押し出され、やがて壊走した。
しかし異人の追撃激しく、王国軍の一部が異人に包囲されてしまった。その中に、シメルもいた。
徐々に包囲を狭める異人。手の打ちようがなく、追い込まれる王国軍。その時、赤き凶星が、王国軍から離れた。もはや、この窮地を脱する方法は一つ。包囲のどこか一方を突いて、活路を見出すだけである。自分を必要としてくれている人々のためにもやらなければなるまい。
シメルは渾身の力をこめて叫んだ。
神よ!
※
運命の神よ、僕を殺さないでくれ。
守護する神よ、僕に力を与えてくれ。
運命の神よ、僕はまだ生きたい。
守護する神よ、僕は人々に必要とされたい。
運命の神よ、答えてくれ。
守護する神よ、応えてくれ。
僕は――
僕は――
――――――神よ!!