第一話 描けない天才少女〈上〉
「また、雨が降りそうだね」
そう、誰かが呟いた。
今は六月の中旬。梅雨真っ只中だ。湿気でキャンバスがふやけて絵が描きにくい、と皆文句を言っている。
その子の声に反応して、皆手を止めて空を見上げた。
どんよりと曇った空。いくら灰色を厚塗りしても、あんなに暗い雲は表現出来ないだろう。
「本当だ。窓、閉めといてね。絵が濡れたら大変」
誰かがそう呟き、すぐに窓は閉められた。皆、何事も無かったかのように作業に戻る。
真剣な眼差しで、キャンバスに向かい合っている。ここにいる皆は、絵が好きなのだ。たった一人、私を除いては。
私の目の前にあるキャンバスに向き直る。真っ白なキャンバスに筆を向け、それ以上動くことなく停止する。筆から絵の具が垂れ、床に模様を作った。
その模様を、ぼうっと見つめる。
私は、絵が描けない。
いや、昔は描けた。そう、中学生の頃は。何度も賞を獲って、天才とまで呼ばれていた。
この高校にだって、推薦で入ったのだ。
なのに、いつからだっけ。絵が、描けなくなっていた。
周りの皆が、期待の目で私を見る。綺麗に描かなきゃ、そんなプレッシャーに襲われて。好きなように描いていた絵も、綺麗に描くことしか考えられなくなっていた。
描きたい。
描きたい。
あの頃の絵を、もう一度。
綺麗に描く、それだけを考えるほど、絵が描けなくなっていく。
皆は、相変わらず私の絵を褒める。私の絵を憧れてくれる。
でも、私が今描いているのは絵じゃない。子供の稚拙な落書き。またはそれ以下の、何の価値もないもの。
私は、絵が描けない。
「吉野だん、どうしたの?」
手が止まっている私を訝しがったのか、部員の子が声をかけてきた。
彼女たちは、私を名字で呼ぶ。遊びに誘ったり、そんなことはしない。美術室だけでの関係。
それが彼女たちの線引きなのだ、と思うと悲しくなる。彼女たちは、私がそう思っているということを知らないだろう。無自覚の内に、私を避けているのだろうから。
絵が描けない私は、貴女たちよりも下なのに。
「ううん、何でもない」
首を振ってその考えを断ち切ると、筆をキャンバスにつけた。すうっと線を引く。ただひたすら、心を無にして描いていく。今度こそ。今度こそ、きっと。
でも、出来上がった絵は、期待に反して絵ではなかった。全体的に暗い、まるで今の空のような作品。色とりどりの色も、全てが同じように見える。汚い、醜い絵だった。
「すごい、吉野さん。こんな絵も描けるんだね」
後ろからキャンバスを覗き込んだ誰かが、そう評価してくれる。
違う。こんなのを描いたとは言わない。
見ているだけで気分が悪くなる、醜い絵。これは、私の心だ。
かの有名なピカソの絵だって、悲しい時は青くなったし、恋している時は明るくなった。
絵描きは、筆に想いを乗せて、キャンバスに絵を描くのだという。言わば、絵は作者の心ということだ。
だから、この絵は、私の心だ。
醜く曇った、私の。