A Empty Pierrot
気が付くと、そこは狂ったお茶会だった。
「何よここ……」
アリスは呆然ととして、視界いっぱいに広がる透き通ったハニーカラーの空と天頂に浮かぶ紫の太陽を見上げた。青と赤の市松模様の地面にはクレヨンで描かれた落書きの花が咲いていて、何とも言えない甘ったるい匂いが満ち満ちている。
一体誰のお茶会なのだろうか。少し離れた所に白いテーブルがあって、白いティーセットとビビットピンクのぐちゃぐちゃケーキが乗っている。
初めて訪れたお茶会のように何処か破綻した空間に、くらりと視界が歪んだ。
「きゃははははっ!」
ぼんやりとぼんやりと辺りを見渡していたアリスは、突然降って来た甲高い声に驚いて空を仰いだ。
目に入って来たのは、笑みに歪んだ真っ赤な唇に、真っ白な肌をしたそれ。左の頬にはドロップの青いペインティングがされていて、左右で分けた赤毛は非対称に結わえられていた。纏うだぼっとした衣装は目が痛い程鮮やかな黄色で上下が繋がっていて、襟から覗く華奢な身体のラインを曖昧にしている。
それは脚を組んで、何の支えもなくさかさまに宙に浮かんでいた。
「あれっ? もしかして初めてましてかなーぁ?」
「……君の名前は?」
「ぴえろは……ぴえろだよ? 空っぽの道化師! 白兎がくれたんだ! そういう君の名前は?」
「……アリス」
「じゃあ君が噂のお寝惚けアリスなんだねっ!」
空っぽの道化師は踊るように宙を移動すると、真っ赤な靴で白いテーブルの上に着地した。青い瞳でぐちゃぐちゃケーキを一瞥すると、その傍らのナイフを手に取る。
「ねえ、アリスって、強いの?」
瞬間ぴりっと左頬に痛みが走り、触れると指先を赤い雫が濡らしていた。空っぽの道化師は何かを投擲したように、右手を前に出している。振り返ると、市松模様にケーキナイフが突き刺さっていた。
「次は右耳だよーぅ」
空っぽの道化師の声に反応してか、音もなくテーブル上の金色のフォークが浮かび上がる。その先が自分の向けられている様に、アリスは目を瞠った。
「待って!」
「なーぁにーぃ?」
憎たらしい程に間延びした声で、空っぽの道化師は首を傾げた。フォークがずさっとアリスと空っぽの道化師との間に突き刺さる。
取り敢えずの危機を回避したアリスは、きっと空っぽの道化師を睨み付けた。
「どうしていきなり攻撃するの? 私が何かした?」
「何もしてないよーぅ? 強いて言うのならーぁ……ぴえろとお話したね!」
くるくるとフォークを手の中で回して、空っぽの道化師はにこりと笑う。
「できるのなら自衛してもいいよーぅ? ま、アリスの盾くらいなら貫いちゃうかもだけどね!」
「……盾なんて持ってないわ。それとも、君の足元のお皿でも盾にしろとでも言うの?」
アリスが毅然として言うと、青い瞳が真ん丸に見開かれた。零れ落ちてしまいそうだと思っていると、甲高い笑い声が紫の太陽にまで届く。
「……何? 何が可笑しいの?」
「へーぇ? 狂ったお茶会にいる癖に、魔法が使えないんだーぁ? どうして魔法が使えないんだろうねー? まだ壊れてないからかなーぁ? 早く壊れちゃえばいいのにーぃ」
赤い手袋の嵌った指が、弾かれる。にぃっと、真っ赤な唇が歪んだ。
「折角だから、ぴえろがアリスを壊してあげるよ! これでアリスも魔法が使えるようになるね!」
いいことを思いついたと言わんばかりに輝く青い瞳に、何処までも届く甲高い笑い声に、ぞくりと背筋が凍る。
アリスは息を呑むと、後退りをした。青い瞳が不満げに眇められる。白いティーカップが、耳障りに砕けた。
「どうして逃げるの? ぴえろが手伝ってあげるって言ってるのにーぃ」
逃げ出そうとした右足を、金が射抜く。走った激痛に声も出せないでいるアリスの足を、腕を、手を、腿を、裾を、フォークが抉っていく。陶器の破片が、突き刺さっていく。
「……あああああああっ!?」
咽喉の奥で絶叫が迸る。四肢を灼熱が走り、赤が弾ける。
倒れた硬いようで柔らかい市松模様は、よく見ると小さな歪んだ顔が無数に描かれていた。そのひとつひとつが、ひとりひとりが、哭いている。
「ぃ……っ…ぁ…………ぁ……っ」
真っ赤な靴が、投げ出された白い手を無造作に踏み付ける。遠慮容赦のない痛みに、アリスは悲鳴を上げた。
「……ど…し……て…………?」
「どうしても何も、これがぴえろの常識だよーぅ?」
そう言うそれの顔は、弾む声は。どこまでも無邪気で、何処迄も狂気的だった。
「そーぅだっ! 今日のお茶会はもうこのままお開きにしよう! そしてⅫ時になったらまた今日のお茶会が始まる。もしそれまでにアリスが目覚めることが出来たのならば、狂ったお茶会から逃げ出せる。けれどその前にアリスの時間が無くなれば、現実には永遠には戻れない!」
きゃははははっと空っぽの道化師が甲高く笑う。途端にハニーカラーの空が、紫の太陽が、とろりと溶け出して消えていく。
「最期だから教えてあげるね! ぴえろはアリスみたいな子が大っ嫌いなんだ! ばいばい、アリス。よい夢を」
今は、何時だろうか。指一本動かせない状況で、彼女はぼんやりと考えた。
世界が壊れる音がする。
紫の太陽は、既に地に堕ちてしまっている。
刻々と、意識が現実から遠ざかっていって。
なまえもおもいだせない。
「起きなさい、アリス。わたくしとは違って、貴女はこの世界に囚われるべき人間ではないわ」
冷たい何かが、投げ出されて動かない右手に触れる。その手に握らされたのは、ひんやりとして丸いもの、彼女も持っているもの。
うっすらと目を開くと、ミッドナイトブルーの裾が見えた。頬をくすぐる冷たい手に首を竦めると、ころころとした笑い声が耳になじむ。
「貴女の時計はあともう2分もない。だから、わたくしの時計を貴女に預けるわ。凍り付いてしまった針が融け出すまで、まだ時間はある。だから、目覚めなさい。また新しい今日を迎えるために」
虚ろな視界の中、光のない紫の太陽と銀の雫を垂らす月を背にして、碧い瞳が優しく微笑む。
「今日はとてもいいお天気になるわ。お休みなさい、アリス。よい一日を」