A Pirate Without Wings
気が付くと、そこは狂ったお茶会だった。
「……ぃゃあっ!?」
いきなり頭の上から冷たい水を振りかけられ、彼女は飛び上った。寝惚け眼で辺りを見渡すと、目の前に長身の男が立っている。
浅黒く焼けた肌に、捲り上げられた白い袖から覗く引き締まった腕。肩に届くざんばらの黒髪を無造作に纏めてボルドーの三角帽子を被り、シャツを着流して腰に銀色の剣を履いている男だ。剣には月の模様の刻まれていて、暖かな風の吹く世界で、そこだけが冷たく感じられる。
そんな男の背後には黄金の太陽に照らされて輝く、広大なエメラルドグリーンの海原が広がっていた。太陽から燦々と降り注いだ金の欠片が魚になって碧い海を泳いで行く様に、彼女はぎょっと目を見開く。
「やっと起きたか、お寝惚けアリス。狂った白兎の話は本当のようだな」
闊達に笑う男に、揺れる甲板に置かれた木のテーブルに、アリスは今日も誰かのお茶会に来てしまったという事を知った。
木のテーブルの上には白いティーセットがあった。海賊船を思わせる大きく無骨な黒船には、優美な白は何処までも似合わなかった。
無造作に注がれる茶の甘ったるい匂いはぬるい潮風と混ざり、どんな味がするのか全く予想もつかない。取り敢えず木樽でできた椅子に座ったアリスは、茶を淹れている男を見上げた。
「……君の名前は?」
「俺か? 俺は……飛べない海賊だ」
「……普通の海賊は空を飛ばないわ。空を飛ぶのは空賊でしょう?」
「生憎とここの海賊は普通じゃないんでね」
澄ました顔で肩を竦めると、飛べない海賊はアリスの前にカップを置く。
「夜だったらブランデーを入れるところなんだが、幾ら今は夜とは言え昼だしな。気分が乗らないから仕方ない」
背凭れに身を委ねた飛べない海賊は、乱雑にテーブルの上に足を乗せ、カップの中に白い角砂糖を入れていく。4つ目の砂糖が沈むのを見て、アリスはおずおずと右手を上げた。
「夜でなくても、私お酒は……」
「なんだ、呑めないのか?」
「そうじゃなくて、私はまだ高校生だから……」
「ふーん? お寝惚けアリスは未成年なのか」
飛べない海賊は気のない素振りで相槌を打って、カップに口を付ける。
「今日は何だか酸っぱいな。何時から俺は酸っぱくなったんだ? まあ、偶には悪くはないが」
「……滑稽な人形も同じことを言っていたわ、私が酸っぱいんだって」
氷と夜のお茶会で出逢ったミッドナイトブルーの女の名前をアリスが出すと、飛べない海賊はアンバーの瞳を丸くした。行儀悪く机の上に投げ出していた足を下ろし、身を乗り出してくる。
「お前、滑稽な人形にあったのか?」
「一昨日の夜に……綺麗な人だったわ。ちょっと変わっていたけれど、私にお茶会のルールを教えてくれたの」
それでも全てが解ったわけではないが、少なくとも今日のお茶会に戸惑うことはなかった。
だが、その応えは飛べない海賊の気に入らなかったらしい。
「へぇー? 俺には逢ってくれない癖に、お寝惚けアリスには逢ったんだ? 俺の誘いは無碍にする癖に、お寝惚けアリスとは話したんだ?」
不貞腐れた飛べない海賊は、やけくそ気味にカップを呷った。
勢いよく茶を飲み干し、カップをソーサーに戻した飛べない海賊は、不意に真面目腐った顔をする。
「狂ったお茶会では皆が皆、友好的なわけではない。俺と滑稽な人形はある程度面識があるが、中には敵対している奴もいる。だから迂闊に他の奴の名前を出したり、アリスの現実の情報を言ったりしない方がいい」
皮肉気に眇められたアンバーの瞳に、アリスはこくりと頷いた。
甘ったるい匂いの茶は辛かった。ヒリヒリする舌に、つんっとする鼻に、飛べない海賊は闊達に笑っていた。
飛べない海賊は狂ったお茶会では常識のある方らしい。ただその常識が何処の常識なのかはわからないとまた笑っていた。けれども滑稽な人形よりも狂ってはいなくて、何かあればいつでも相談してくれても構わないとアンバーの目を皮肉気に細めていた。
黒船は大きな船だが、船員は飛べない海賊ひとりだった。
12匹目の碧い海に飛び込んでいく金の魚を見送った頃、飛べない海賊は椅子の背にかけてあったボルドーの上着のポケットから、金色の懐中時計を取り出した。アリスが自分の時計を見ると、もうすぐⅫ時になろうとしている。
「もう今日が終わってしまう。狂ったお茶会はお開きだ。また今日が始まる前にお開きしないと、狂ったお茶会が狂ってしまう。それはもう嫌だな」
飛べない海賊は澄ました顔で嘯くと、銀の剣の鍔を鳴らした。途端に黒船と碧い海の世界は端から音を立てて崩れていく。
「暇ならまた遊びに来い。今度は滑稽な人形も連れて来るといいさ。お休み、アリス。よい夢を」