A Ludicrous Doll
気が付くと、そこは狂ったお茶会だった。
目覚めた時に視界いっぱいに広がっていたのは、眠気など一瞬で醒めてしまう氷と夜でできた世界。ビビットカラーの空間とは違いツギハギの猫は駆けていないが、すぐ傍で氷の薔薇が咲いている。
見上げると白銀の星を散りばめた夜空が広がり、青白い月から澄んだ音を立てて銀の雫が零れ落ちている。
白く凍った吐息がきらきらと冷たい風に流されていく様を見送って、彼女は剥き出しの素肌を擦った。あまりの寒さに足元を見ると、赤い裾が凍り付いている。
「さむい……」
「仕方のないことだわ、だってここは狂ったわたくしのお茶会だもの」
気怠げな声に誰かいたのかと思って視線を向けると、人形のような女がいた。
ホワイトとミッドナイトブルーのドレスをそつなく纏い、三日月と雪の結晶を模した飾りの付いたヘッドドレスで頭を覆っている女。ほっそりとした白い手を覆うのは夜空のレースでできた手袋で、腰元には金色の懐中時計が煌めいている。
彼女とは斜になるように座る女は澄ました顔で氷のテーブルに肘を乗せ、ストロベリーブラウンの髪を指先で弄んでいる。
その深い碧の瞳は彼女を見ているようで、見ていない。ただ空虚だけを映す瞳は冷たくて、感情が欠片も見えやしない。
「初めてみる顔だわ。もしかしなくとも、貴女がお寝惚けアリス?」
「……お寝惚けアリス?」
「白兎がそう言っていたわ。お寝惚けアリスが狂ったお茶会に紛れ込んで来たって」
真っ紅な唇を皮肉気に歪め、ミッドナイトブルーの女は碧い眼を眇める。
その様に紅い瞳が重なって、彼女はむっとして言い返した。
「私はアリスじゃない。私は」
「ここでは現実の名前を言っては駄目よ。でないと、今日のお茶会に取り込まれて永遠に戻れなくなっちゃうわ」
抑揚ない声で紡がれる言葉は、危険なのか危険でないのかわからない。けれども鋭利に煌く碧い瞳に、気が付くと彼女は息を呑んで頷いていた。
「他に名乗る名がないと言うのなら、今の所はアリスと名乗っていなさいな。可愛らしい名前ではないの」
「……そう言う、君の名前は?」
「わたくし? わたくしは……そうね、滑稽な人形よ」
あんまりな名前に、彼女は顔を顰めた。無表情の女は無造作に真っ白なカップに茶を注ぐ。凍り付いている世界の中で、妙に甘ったるい匂いは違和感を落とした。
「そんな名前、誰が付けたの……?」
「狂った白兎よ。あの男にしてはなかなか素敵な名前よね」
滑稽な人形はそう言うと、初めて薄く微笑んだ。
「この世界にはどんな意味があるの?」
「知りたい?」
頷くアリスに、滑稽な人形は微笑んだままだ。レースに包まれた指でテーブルの上の焦げたクッキーを抓み、真っ紅な口の中に放り込む。
「あら、今日は何だか酸っぱいわ。わたくしは何時から酸っぱくなったのかしら。それとも貴女が酸っぱいのかしら」
「私が酸っぱい……?」
「まあ、渋いよりはいいかしらねぇ」
ころころとした滑稽な人形の笑い声は、ひっそりと夜空に吸い込まれていく。
「何の話だったかしら。この世界の意味だったかしら。意味なんてわかるようでわからないものなのに、どうしてそんなことを知りたいのかしら」
「どういう意味……?」
「あら、白兎は何も教えていないのね。職務怠慢かしら、今度逢ったら刺してしまおうかしら。今日の棘は格別よ、また綺麗な血が見えるかしら。今度こそは殺してあげなくては」
ころころと滑稽な人形の笑い声が、静謐の空高く響く。本当に楽しそうに真っ紅な唇を歪める彼女に、彼女の声に合わせて震える氷の薔薇に、アリスは戦慄を覚えた。
「そんなことで誰かを殺すの……?」
「殺すという行為に理由が必要なのかしら?」
きょとんと眼を瞬かせる滑稽な人形は、心底不思議そうな顔をしている。純粋無垢な狂気が、人形の顔に滲んでいく様に、震えが止まらない。
「だって、ここはわたくしのお茶会だわ。わたくしを苦しませて哀しませる煩わしいものたちを排除し、わたくしに安らぎを与えるわたくしのお茶会。何をしようとわたくしの勝手」
レースの指先が焦げたクッキーに力を加える。粉々に砕けたクッキーはそのまま、白い皿の上に黒い山となって降り積もる。
「でないと狂ったわたくしが壊れてしまうもの」
笑っていた滑稽の人形は、静かに哭いていた。
焦げたクッキーは渋かった。けれども甘ったるい匂いの茶は優しい味がした。
滑稽な人形は狂ったお茶会は気紛れに開かれていて、この世界には他にも誰かがいること、お茶会では無暗に誰かに真名を教えないこと、Ⅻ時になるまでにお茶会をお開きすること、でないと一生今日に閉じ込められて、永遠に現実で目覚めることができなくなることなどをアリスに教えてくれた。
神妙な顔をして聞くアリスにころころと満足げに笑っていた滑稽な人形は、もうじきⅫ時を挿そうとする針を見て、はっと頬に手を添えた。
「あらあら、もうこんな時間だわ。もう今日が終わってしまう。狂ったお茶会はお開きね。また今日が始まる前にお開きしないと、狂ったお茶会が狂ってしまう。それはもう嫌だわ」
滑稽な人形は澄ました顔で肩を竦めると、テーブルの上の銀の鈴を鳴らした。途端に氷と夜の世界は端から割れて溶けていく。
「今日は何だか楽しかったわ。よかったらまたいらっしゃいな。今度はちゃんとコートを着てね。お休なさい、アリス。よい夢を」