38、乾杯!
――店内は薄暗かった。その暗さがどことなく涼しげな印象を与える。しかも時間帯も早いせいか、いかにも常連といった客しかいない。それが余計に寒気を感じさせてならなかった。
そんな俺を知る由もない緒方はまっすぐカウンターの隅の席へ向かう。
L字型のカウンターの隅にある席に座ると慣れた感じで壁に背を付けて俺を手招いた。
ああ、いつもの席ってやつか。
どうやらそこが緒方の指定席らしい。俺はひとり納得するとその隣の席に腰掛け、バッグを足下に置いて軽く息を吐く。
「――いやぁ、いろんな意味でしんどかったわ」
ポケットから煙草とライターを取り出して灰皿を手前に引き寄せる。そして箱から煙草を一本抜き取り口にくわえ火を点け、ゆっくりと肺に流し込んだ。
……暖かい場所で吸う一服は格別だ。
実際は暖かろうが寒かろうが味はたいして変わらない。だが、この一服は何故か美味しく感じられる。
「さて、まずは軽く一杯やって体を暖めるか――おっちゃん、中生ジョッキで。大樹はチューハイでいいか? メニュー渡しておくから食いもんも何か頼んでくれよ」
緒方はカウンターの奥にいる中年の店員に自分の注文を頼み俺にメニューを渡す。
渡されたメニューに目を通すと完璧に居酒屋メニュー。だが、全面カラーのそれには料理の写真が旨そうに載せてあって心惹くものを少し感じたりする。
注文を選んでいる間にお通しの小鉢を並べる店員。そして、おしぼりで手を拭いてから煙草に火を点ける緒方。その様子がやけに馴染んだ風に見える。
……どれも旨そうだなぁ。
メニューはどれも居酒屋にならどこにでもある様な食べ物ばかりなのだが、何故か旨そうに見えて仕方が無い。
「あ、俺はレモンチューハイの中ジョッキで。あとは……枝豆とポテトをもらおうかな」
目移りしてしょうがなかったので、とりあえずつまみの定番を頼み至福の一服を堪能する事に。
「俺は鶏の唐揚げとニラレバ」
メニューを見ずに緒方は間髪入れずに注文する。店員も緒方の注文はわかりきっている様でササッと注文を書き込む。
こいつ、いつも食ってんな。緒方もこの店の常連客なのだろう。やけに馴染んで見えるのも頷けた。
店員は注文の復唱をするとその場を離れる。
二人の場所だけ紫煙が煙る。ライトに照らされたそれは煙幕の様に辺りを漂う。
これではまず嫌煙者は近寄らない。というか、店内は圧倒的に空席の方が多いのだから気にする必要など無い。
それでも久しぶりに会うのだ、積もる話もあるわけで周りに部外者がいると羽目を外せないので人がいない事に越した事はなかった。
「……さてさて、大樹君。聞かないでおこうかと思ったが敢えて聞こうと思う。何故会うのが遅くなったんだ?」
にこやかな笑みを浮かべながら目を光らせて緒方はにじり寄って来た。
その目は興味津々、答えは知っているが本人の口から聞きたいという意志がありありと見て取れる。
「まぁ、なんだ。大人の付き合いなんて似たり寄ったりだよな」
妙に意味深な言い回しで逃げ道を塞いでくる。
なんだか尋問みたいだな。俺はさも楽しそうに問いかけてくる緒方にふと学生時代を思い出す。
あの頃も、何かあると同じ様な態度で話が始まったんだよな。どんなに深刻な悩みでも、おちゃらけた感じで話を進めるから途中で気分が沈んだりせず最後まで話して心に溜まったモヤモヤを払拭してくれたっけ。
ふざけた様で真剣に答えてくれた記憶が心の中で鮮明に甦る。
あの頃と変わってないな。そう思うと俺は苦笑いしてしまった。
酒の席だ、言ってしまおう。
半ば開き直りの心境だったが、俺は包み隠さず話そうと残り少ない煙草を揉み消して緒方の方を向いた。
「……いろいろあったんだけどさ、簡単にいうと成り行きで浮気したんだわ……」
若干の抵抗を感じたものの、思いの外スパッと言えた。
緒方は小さく頷くと煙をゆっくり吐いて煙草の灰を灰皿にポンポンと捨てる。そして、相変わらずのニヤケ顔で口を開いた。
「ふむふむ、浮気か……男と女が会えば、そんなシチュエーションにもなるわな。まぁ、どうしてそうなったのか詳しくわからんが……もし俺がその状況に置かれたら間違い無くお前と同じ事をしてたと思うよ」
そう言って煙草を口にくわえると緒方は俺の肩に手を乗せて何度も頷いた。
無責任の様でいて妙に納得のいく回答だった。
その答えに共感の言葉があったからか、下手な慰めや説教より余程胸に響いてくる。
「……んで、あれか? 浮気した事に後ろめたさを感じてるってやつか。まったく、過ぎた事を気にしても後戻りなんてできないんだからスッパリと割り切ってしまえよ!」
緒方は乗せた手で俺の肩を叩く。
顔はニヤケているが目は真剣そのもの。言葉はあまり良くないが、その裏側にある真意を俺は有り難く頂戴する。
俺はその言葉を噛みしめる様に心の中で反芻し、気持ちの整理をしようと煙草を口にした。
……会話が途切れ、二人の周りを静寂が支配する。話の内容が内容なだけに言葉を繋ぎ続けるには無理がある。
だが少し間ができたその時、実は狙ってましたとばかりにタイミング良く店員が注文の酒を持って来た。
それにより静寂の時は終わる。酒を手にした俺達は、どちらともなくグラスを片手に乾杯の音頭を取ったからだ。
「再会を祝して乾杯!」
俺はグラスを合わせると酒を一気に流し込んだ。
体に染み込むアルコールが気分を高揚させてくれる。店内の暖房のせいか、いつもより染みていくのが強く感じられ、なおかつ程良く冷えたアルコールが疲れた体に活力を与えてくれる様な気がした。
「――くぅぅっっ、生き返るなぁ。おっちゃん、同じの追加頼むわ!」
緒方も一気に飲み干し追加の酒を注文した。そこに間髪入れずに俺も声を張り上げて追加注文する。
「俺も同じやつ!」
やはり再会の酒は美味しく感じる。
話したい事は山ほどあるが、ここは少しアルコールで舌を滑らかにしようと俺は暫し飲みに徹する事にした――。




