35、待ちぼうけ
……唇を離した後、知加子は俺の額に指を当てて軽く押す。それにより抱き締めた腕が離れ、知加子は俺の腕をすり抜ける。
「――ん?」
もう少し余韻に浸りたかった俺は、両手を宙に浮かせたまま思わず声を漏らす。
「ヒロ、バス来たよ」
知加子はそう言って抱き締めた時に落とした俺のバッグを取って道路の方を指さす。
その方向に目を向ければバスがちょうど停留所に着こうかというところだった。
「――ヒロ、これでお別れね。また連絡するから、時間があったらまた会いましょうね……バイバイ――」
知加子は少し早口気味にそう言うと満面の笑顔で手を振った。
バスの扉が開く音を背にした俺は時間が無くなった事を知り、それならとその笑顔に応えようとガッツポーズを決めてみる。
「……ああ、またな!」
ただの強がり。今更ながらに寂しさがこみ上げてきた俺は精一杯の笑顔を向けた……はずである。
他の乗客が全員乗ったのを確認すると俺は最後に乗り込んだ。幸いにして座席は空いていたので先頭の席に座ると窓から知加子に手を振る。
俺が席に座ると同時にドアは閉まり、バスはゆっくりと走り出した。
駅の方に目を向けると、知加子は笑顔のまま手を振っているのが見える。俺は、見えなくなるまでそれを静かに見つめた――。
旅に別れはつきもの。
だから、いちいち悲しんでなんかいられない。しかし、今回の別れに俺は何故か胸を締め付けられるものを感じていた。
いつもと違う“何か”が俺の心にあるのか。
俺はその答えを出そうと考えを巡らす。だが、流れる景色に意識が向くと、いつの間にか次の再会に思いを馳せていた……。
バスに揺られる事数十分。東京の隅に位置する閑静な街に到着した。
過去、何度も訪れた東京で唯一土地勘の利く街。
閑静とはいうものの、街の開発具合は地方の繁華街に引けを取らない。交通の便も良く人通りも多い。電車で数分も揺られれば違う県になる事から、県外の人達も多数訪れているだろう。
まぁ、それでも都心の混雑に比べれば“閑静”と言わざるを得ないが。
バスを降りた俺はポケットから携帯電話を取り出す。そして、次なる再会を果たすべく友人に到着したぞメールを打ち込んだ。
素早く文章を打ち込み送信。後は返事が来るのを待って会うだけである。
ちなみに友人の住む場所はだいたい覚えているので直接行ってもよかった。しかし、それでは感動の再会にならない。それに会ってもすぐ夕食という名の飲み会に出発するのが二人の王道パターンだったので俺は駅前で待つ事にしたのである。
駅前の木のベンチに腰掛け煙草に火をつける。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったので、行き交う人達の群れが駅前の景観を損ねる事甚だしい。
間違ってもこの人の流れに逆行して行く事は無理だろう。そんな下らない想像をしながら俺はニコチンを摂取する。
……体が冷えてきた。
雪こそ降っていないが、染み込む様な冷気が体から熱を奪う。
それなりの防寒装備に身を包んではいるが、冬の夕暮れはバッドステータス『寒さ×』を持つ身にはやはり堪える。
ホットコーヒーでも口にしていないと身が持たない。俺は辺りを見渡し自販機を探す。
ブルブルッ、ブルブルッ……。
ホットコーヒーを求めさまよい出した俺の胸が震える。
「――おっ、やっと来たな」
ブルブルッ、ブルブルッ。
携帯電話のバイブが小気味良いバイブレーションを奏でる。
俺はさっそく返信内容を見ようとメール画面に切り替え、立ち止まってその内容を読んだ。
『すまん、寝てた。今から準備するので悪いがもう少し待っててくれ。駅に着いたらまた連絡する!』
……マジかよ。
俺は携帯電話をポケットにしまうと思わずガックリうなだれてしまった。
だが、それも仕方の無い事だ。もとはといえば、俺が知加子の部屋に長居し過ぎたのが原因だし、それ故に待ち疲れて寝てしまうのも無理はないだろう。
「……参ったね、こりゃ……」
あと何分待てばいいのかわからないが、とりあえず早急に暖を取る必要がある事は間違いない。
自業自得とはまさにこの事だ。
俺は寒さに身を震わせながらも気を取り直して自販機に向かう事にした。




