32、心に戒めを
どれくらい経っただろう。いつの間にか俺も眠っていた。
ベッドに目をやるとそこに知加子の姿はない。
シャワーでも浴びてるのか。
俺は眠い目を擦りながら浴室へと向かった。
――ドアを勢いよく開く。
開けてから朝と同じ事をした、と思ったのも束の間、ちょうど着替え始めるところに遭遇してしまう。
朝と違うのは、その反応だった。
「ヒロ〜、もしかしてさぁ〜、狙って入って来てる?」
俺の視線にお構いなく着替え続ける知加子。
所々に魅せる様な仕草をしては俺の心を惑わせる。
「駅まで見送りするね。ついでに夕食の買い出しもしなくちゃ……」
淡々とした口調で着替える。俺は何も言えずにそれを見る。
(やけにあっさりしてるな)
先ほどまでとはまるで違った冷めた態度。
もう用は済んだ、と言わんばかりの雰囲気を感じ、俺は少し苛立ちを覚えた。
「――なんだよ、チカ。ずいぶん冷めてるじゃないか。さっきまであんなに燃えてたのによ」
少しトゲのある皮肉を浴びせる。
これではただ利用されている様な気がしてならない。
俺の言葉に知加子は悪戯な笑みを浮かべ、俺に歩み寄ると唇を合わせてきた。
「……んっ?」
突然のキスに驚いた俺は思わず一歩下がり知加子の顔を見る。
「あら? どうしたの? ヒロ、もっとラブラブしたいんじゃないの?」
しれっとした口調で口に手を当てて微笑む。
「でもさ、私が本気になったら困っちゃうんじゃない? だから割り切った方が利口よ」
知加子はそう言うと俺の肩をポンっと軽く叩き浴室から出て行った。
残された俺は唇の感触がまだ残る口元に手を当てて立ち尽くす。
(……言われてみれば、そうだよな……)
自分のしている事はただの浮気。互いの欲を満たすだけの戯れ事に過ぎない。
知加子の言葉に俺は欲に溺れていた事を自覚し、危うく知加子まで巻き込んでしまう事に寒気を覚えた。
「ヒロ、そろそろ行こっか」
髪を乾かして化粧も済ませた知加子は、安らぎの一服が出来ずに寝転がっている俺に声を掛けてきた。
もう夕方になっている。
いつまでもここに居るわけにもいかない。パターン的にまた肉欲に溺れるのが目に見えている。
これ以上肌を重ねたら、いくら何でもハマってしまう。二人の体の相性はそれほど抜群によかったから。
互いに“それ”がわかっているから、今まで努めて割り切った態度で接してきたのだ。
付き合ったら堕ちる。
この確信的な不安が二人をこんな関係にした事を改めて思い知る。
「オッケー」
知加子の呼びかけに答えると立ち上がり、バッグを持ち玄関まで無言で歩く。
「……急がない急がない。ゆっくり行きましょうよ。お別れなんだから」
そう言って俺の背中を小突く。
振り向くと笑顔の中にわずかな陰りが見て取れる。
寂しくないわけないでしょ。
そんな想いが伝わってきて胸がグッときた。
「ああ、ゆっくり行こうか」
俺は笑顔を崩さない知加子に心の中で感謝すると靴を履いてドアを開ける。
「お邪魔しました」
「……どうしたの?」
俺の言葉に首を傾げる知加子。
彼女に俺の寂しさは伝わっていない様だ。
だが、それでいい。未練を残しては離れられなくなる。
あくまでも割り切った関係でないと互いをダメにしてしまう。
気の合う仲間でたまに肌を重ねるぐらいの軽い関係が一番なのだ。
「なんでもないよ。さ、行こう」
「うん」
知加子は鍵をかけて俺の隣へ来る。そして、ゆっくりと歩き出す。
まもなくお別れ。だが、旅に別れはつきもの。
俺はそう心の中で呟くとポケットから携帯電話を取り出し、これから会う学友にメールを打ちはじめた……。




