満員電車で十五年間、自分の居場所を守り続けた会社員。異世界でも無意識にリュックを胸の前へ抱えたらスタンピードを止めてしまった。でも俺が本当に欲しかったのは、静かに本を読める場所だった。
朝六時三十分。
スマホのアラーム音が鳴り、目覚める。
いつもの朝だ。
ベッドから起き上がり、ワイシャツに袖を通す。ネクタイを締め、ノートPCと書類を、十五年使い続けた黒いリュックへ入れる。
その底には、半年前に買った一冊の文庫本が眠っている。
通勤中に読もう。
そう思っていた。
結局、一ページも読めていない。
家を出る。
駅へ向かう足取りは、今日も昨日と変わらない。
ホームには、すでに長い列ができていた。
電車が滑り込んでくる。
俺は何も考えず、リュックを背中から胸の前へ抱え直した。
ドアが開く。
「奥へお詰めくださーい!」
駅員の声が響く。
人の流れに押されるまま、俺も鉄の箱へ足を踏み入れた。
スマホは取り出せない。
前にも。
後ろにも。
右にも。
左にも。
隙間はない。
夏は最悪だ。
汗。
体臭。
湿った息。
誰かの肘。
誰かの鞄。
誰かの髪。
逃げ場なんて、どこにもない。
仕事へ行くため。
ただ、それだけのために、毎朝これを繰り返す。
(……広いところへ行きたい)
誰にも押されず。
誰にも急かされず。
自分の歩幅で歩ける場所。
そんな場所が、本当にあるのなら――。
その瞬間だった。
視界がぐにゃりと歪む。
激しい目眩。
倒れようにも倒れられない。
身体は周囲の人に押し固められ、一ミリも動かない。
意識だけが、ゆっくりと沈んでいった。
◇
頬を撫でる風にそっと、目を開ける。
どこまでも青い空。
揺れる草原。
静寂。
俺はゆっくりと身体を起こした。
見渡す限り、誰もいない。
肩が触れる人も。
押してくる人も。
急かしてくる人も。
一人もいない。
「……静かだ」
その一言が、自然と口から漏れた。
深く息を吸う。
肺いっぱいに澄んだ空気が満ちていく。
「空気って……こんなにうまかったかな」
思わず笑みがこぼれる。
このまま木陰で、本でも読めたら最高だ。
そう思った、その時だった。
ズズズズズ……。
地面が震えた。
ズズズズズ……。
地面が震えた。
最初は雷かと思った。
だが振動はみるみる大きくなり、地平線が黒く染まっていく。
「な、なんだ……?」
黒い波ではない。
魔物だ。
ゴブリンも、牙を剥いた獣も、人ほどもある猪も、何もかもが入り乱れ、互いを押し合い、踏み越えながら雪崩のように押し寄せてくる。
一匹一匹の姿なんて、もう判別できない。
俺の目には、それは魔物ではなかった。
朝八時のホーム。
乗車率二〇〇%。
毎朝の、あの光景だった。
「……まじか」
思わず頬が引きつる。
「逃げろ!」
鋭い声が飛ぶ。
銀色の甲冑をまとった騎士たちが、こちらへ駆けてきた。
「『スタンピード』だ!」
「巻き込まれたら終わりだ!」
一人の女騎士が俺の腕をつかむ。
「早く走れ!」
「……嫌です」
「嫌ですじゃない!」
「せっかく静かな場所に来られたんです」
「何を言っている!?」
「異世界まで来て、また人……じゃなかった、魔物に押されるなんて勘弁してください」
女騎士は絶句した。
俺は胸の前のリュックを抱えたまま、一歩も動かない。
「その荷物を守るつもりか!」
「違います」
「では何だ!」
「いつもの姿勢です」
「いつも!?」
魔物の群れが目前まで迫る。
俺は右肩を少しだけ前へ入れる。
左足を半歩前へ。
身体が勝手に動いていた。
十五年間。
毎朝、満員電車へ乗り込むたびに繰り返してきた動きだ。
ガァァァァッ!!
先頭の魔物がぶち当たる。
ドンッ!!
それでも、俺は動かない。
「止めた……!?」
女騎士が息を呑む。
俺は静かに息を吸った。
少しだけ頭を下げる。
「……すみません」
そして、身体をほんの少しだけ前へねじ込んだ。
ボォォォンッ!!
先頭の魔物が弾かれる。
その巨体が後続へ激突する。
押される。
押し返される。
さらに押される。
止まれない。
逃げられない。
ぎゅうぎゅうに詰まった群れは一瞬で均衡を失い、前から順に折り重なっていく。
悲鳴。
怒号。
衝突音。
土煙。
魔物たちは互いを押し潰しながら、勝手に崩れていった。
やがて地響きが止む。
草原には、さっきまでが嘘のような静けさが戻っていた。
風だけが吹いている。
「……終わったのか」
女騎士が呆然とつぶやく。
「止めたというより……」
俺は胸の前のリュックを軽く叩く。
「ちょっと前へ入れてもらっただけです」
「満員電車で培った、崩れないだけの体幹の強さ、それに、四方からの力に逆らわず、受け流す力だと思いますよ」
「意味が分からん!」
他の騎士たちも駆け寄ってくる。
「救世主だ!」
女騎士が姿勢を正した。
「英雄殿、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
俺は少し考えた。
「会社員です」
「職業ではない!」
「ああ……」
思わず苦笑する。
どうやら異世界でも、会話というのは案外難しいらしい。
俺は女騎士へ軽く会釈した。
「では」
「待て!」
「静かな場所を探したいので」
「理由が一貫しすぎている!」
背中で女騎士の叫びを聞きながら、俺は歩き出した。
英雄になるために来たわけじゃない。
チャックを開ける。
ノートPC。
書類。
その下から、一冊の文庫本を取り出した。
半年前に買った本。
通勤中に読もうと思っていた本。
結局、一ページも読めなかった本。
表紙をそっと撫でる。
「……やっと読める。」
表紙を開き、最初のページへ指をかける。
その時だった。
女騎士を先頭に、大勢の騎士たちがこちらへ走ってくる。
その勢いのまま木陰へ集まろうとする。
俺は思わず身構えた。
また囲まれる。
また押される。
その後ろでは兵士たちが人垣を整理していた。
「押さないでください!」
「順番にお願いします!」
「奥へお詰めくださーい!」
その一言を聞いた瞬間。
肩が、びくりと震えた。
女騎士が心配そうに覗き込む。
俺は力なく首を振った。
「……その言葉だけは、もう勘弁してください。」
「え?」
「少しだけでいいんです。」
俺は文庫本を見つめたまま続ける。
「少しだけ、一人にしてください。」
閉じる寸前だった本のページに、もう一度指を添える。
「……ここなら、ちゃんと読めそうだ。」
ページをめくる。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
毎朝、満員電車に揺られながら「このままどこか遠い静かな場所へ行けたらなぁ……」と考えているうちに、気付けばこの物語が生まれていました。
異世界転移といえば強力な魔法や伝説の剣が定番ですが、15年間ひたすら耐え忍んだ「サラリーマンの体幹と受け流し技術」だって、見方を変えれば立派な最強スキルですよね(笑)。
ただ一冊の文庫本を読みたいがために奮闘する彼の姿を、クスッと笑いながら楽しんでいただけたなら幸いです。
またどこか別の物語でお会いしましょう!




