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満員電車で十五年間、自分の居場所を守り続けた会社員。異世界でも無意識にリュックを胸の前へ抱えたらスタンピードを止めてしまった。でも俺が本当に欲しかったのは、静かに本を読める場所だった。

作者: いけちゃん
掲載日:2026/07/01

朝六時三十分。

 スマホのアラーム音が鳴り、目覚める。

 いつもの朝だ。

 ベッドから起き上がり、ワイシャツに袖を通す。ネクタイを締め、ノートPCと書類を、十五年使い続けた黒いリュックへ入れる。

 その底には、半年前に買った一冊の文庫本が眠っている。

 通勤中に読もう。

 そう思っていた。

 結局、一ページも読めていない。

 家を出る。

 駅へ向かう足取りは、今日も昨日と変わらない。

 ホームには、すでに長い列ができていた。

 電車が滑り込んでくる。

 俺は何も考えず、リュックを背中から胸の前へ抱え直した。

 ドアが開く。

「奥へお詰めくださーい!」

 駅員の声が響く。

 人の流れに押されるまま、俺も鉄の箱へ足を踏み入れた。

 スマホは取り出せない。

 前にも。

 後ろにも。

 右にも。

 左にも。

 隙間はない。

 夏は最悪だ。

 汗。

 体臭。

 湿った息。

 誰かの肘。

 誰かの鞄。

 誰かの髪。

 逃げ場なんて、どこにもない。

 仕事へ行くため。

 ただ、それだけのために、毎朝これを繰り返す。

(……広いところへ行きたい)

 誰にも押されず。

 誰にも急かされず。

 自分の歩幅で歩ける場所。

 そんな場所が、本当にあるのなら――。

 その瞬間だった。

 視界がぐにゃりと歪む。

 激しい目眩。

 倒れようにも倒れられない。

 身体は周囲の人に押し固められ、一ミリも動かない。

 意識だけが、ゆっくりと沈んでいった。

     ◇

 頬を撫でる風にそっと、目を開ける。

 どこまでも青い空。

 揺れる草原。

 静寂。

 俺はゆっくりと身体を起こした。

 見渡す限り、誰もいない。

 肩が触れる人も。

 押してくる人も。

 急かしてくる人も。

 一人もいない。

「……静かだ」

 その一言が、自然と口から漏れた。

 深く息を吸う。

 肺いっぱいに澄んだ空気が満ちていく。

「空気って……こんなにうまかったかな」

 思わず笑みがこぼれる。

 このまま木陰で、本でも読めたら最高だ。

 そう思った、その時だった。

 ズズズズズ……。

 地面が震えた。

 ズズズズズ……。

 地面が震えた。

 最初は雷かと思った。

 だが振動はみるみる大きくなり、地平線が黒く染まっていく。

「な、なんだ……?」

 黒い波ではない。

 魔物だ。

 ゴブリンも、牙を剥いた獣も、人ほどもある猪も、何もかもが入り乱れ、互いを押し合い、踏み越えながら雪崩のように押し寄せてくる。

 一匹一匹の姿なんて、もう判別できない。

 俺の目には、それは魔物ではなかった。

 朝八時のホーム。

 乗車率二〇〇%。

 毎朝の、あの光景だった。

「……まじか」

 思わず頬が引きつる。

「逃げろ!」

 鋭い声が飛ぶ。

 銀色の甲冑をまとった騎士たちが、こちらへ駆けてきた。

「『スタンピード』だ!」

「巻き込まれたら終わりだ!」

 一人の女騎士が俺の腕をつかむ。

「早く走れ!」

「……嫌です」

「嫌ですじゃない!」

「せっかく静かな場所に来られたんです」

「何を言っている!?」

「異世界まで来て、また人……じゃなかった、魔物に押されるなんて勘弁してください」

 女騎士は絶句した。

 俺は胸の前のリュックを抱えたまま、一歩も動かない。

「その荷物を守るつもりか!」

「違います」

「では何だ!」

「いつもの姿勢です」

「いつも!?」

 魔物の群れが目前まで迫る。

 俺は右肩を少しだけ前へ入れる。

 左足を半歩前へ。

 身体が勝手に動いていた。

 十五年間。

 毎朝、満員電車へ乗り込むたびに繰り返してきた動きだ。

 ガァァァァッ!!

 先頭の魔物がぶち当たる。

 ドンッ!!

 それでも、俺は動かない。

「止めた……!?」

 女騎士が息を呑む。

 俺は静かに息を吸った。

 少しだけ頭を下げる。

「……すみません」

 そして、身体をほんの少しだけ前へねじ込んだ。

 ボォォォンッ!!

 先頭の魔物が弾かれる。

 その巨体が後続へ激突する。

 押される。

 押し返される。

 さらに押される。

 止まれない。

 逃げられない。

 ぎゅうぎゅうに詰まった群れは一瞬で均衡を失い、前から順に折り重なっていく。

 悲鳴。

 怒号。

 衝突音。

 土煙。

 魔物たちは互いを押し潰しながら、勝手に崩れていった。

 やがて地響きが止む。

 草原には、さっきまでが嘘のような静けさが戻っていた。

 風だけが吹いている。

「……終わったのか」

 女騎士が呆然とつぶやく。

「止めたというより……」

 俺は胸の前のリュックを軽く叩く。

「ちょっと前へ入れてもらっただけです」

「満員電車で培った、崩れないだけの体幹の強さ、それに、四方からの力に逆らわず、受け流す力だと思いますよ」

「意味が分からん!」

 他の騎士たちも駆け寄ってくる。

「救世主だ!」

 女騎士が姿勢を正した。

「英雄殿、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 俺は少し考えた。

「会社員です」

「職業ではない!」

「ああ……」

 思わず苦笑する。

 どうやら異世界でも、会話というのは案外難しいらしい。

 俺は女騎士へ軽く会釈した。

「では」

「待て!」

「静かな場所を探したいので」

「理由が一貫しすぎている!」

 背中で女騎士の叫びを聞きながら、俺は歩き出した。

 英雄になるために来たわけじゃない。

 チャックを開ける。

 ノートPC。

 書類。

 その下から、一冊の文庫本を取り出した。

 半年前に買った本。

 通勤中に読もうと思っていた本。

 結局、一ページも読めなかった本。

 表紙をそっと撫でる。

「……やっと読める。」

 表紙を開き、最初のページへ指をかける。

 その時だった。

 女騎士を先頭に、大勢の騎士たちがこちらへ走ってくる。

 その勢いのまま木陰へ集まろうとする。

 俺は思わず身構えた。

 また囲まれる。

 また押される。

 その後ろでは兵士たちが人垣を整理していた。

「押さないでください!」

「順番にお願いします!」

「奥へお詰めくださーい!」

 その一言を聞いた瞬間。

 肩が、びくりと震えた。

 女騎士が心配そうに覗き込む。

俺は力なく首を振った。

「……その言葉だけは、もう勘弁してください。」

「え?」

「少しだけでいいんです。」

 俺は文庫本を見つめたまま続ける。

「少しだけ、一人にしてください。」

閉じる寸前だった本のページに、もう一度指を添える。

「……ここなら、ちゃんと読めそうだ。」

 ページをめくる。

(完)


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

毎朝、満員電車に揺られながら「このままどこか遠い静かな場所へ行けたらなぁ……」と考えているうちに、気付けばこの物語が生まれていました。


異世界転移といえば強力な魔法や伝説の剣が定番ですが、15年間ひたすら耐え忍んだ「サラリーマンの体幹と受け流し技術」だって、見方を変えれば立派な最強スキルですよね(笑)。


ただ一冊の文庫本を読みたいがために奮闘する彼の姿を、クスッと笑いながら楽しんでいただけたなら幸いです。


またどこか別の物語でお会いしましょう!

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