第8話 行商人
「いやー雨も強くなってきてたし、こんな早朝でしょ?誰も通らないと思ってたんだよね、でさ――」
男の声が、雨音と競うように馬車の中に響く。
雨宿りがてら荷馬車の中に入ると、天幕を打ちつける雨の音が一層強くなった。
その音さえも気に留める様子もなく、男は息継ぎも忘れたようにしゃべり続けている。
「行商人、間に合わないんじゃないのか?」
アルゴが、待っていたかのように、ようやく訪れた一瞬の間を逃さずに言葉を挟む。
雨宿りをさせてもらえるのはありがたいが、二人ともできるだけ早く町を離れたいと思っていた。
「あ、そうだったそうだった!」
男は手を打ち、満面の笑みを浮かべる。
「僕ね、鉱山に行く途中なんだ。鉱夫たち相手にいろいろ売っててさ!でもあの人たち、朝早いでしょ?だから今日は気合い入れて出たのに、これだよ!」
荷車を軽く叩きながら、男は肩をすくめて笑う。
「行商人、俺たちはそろそろ先を急ぐ」
アルゴは短く告げ、再び立ち上がる。
だがその背に、男の声が追いかけてきた。
「えっ、もう行くの? せっかく出会ったのに! あ、僕、ルードって言うんだ!」
「「……名前……!?」」
アイラとアルゴは、まるで息を合わせたように声を揃えて顔を見合わせた。
この世界で名前を自ら名乗る人間など、ここ数日いなかった。
ましてや、こんな朗らかな笑顔で口にするなんて。
「え? なに、なんか変なこと言った?」
ルードは首をかしげ、ぽりぽりと頬をかく。
「えーと、ルードさん、もしかして……貴方も、私たちと同じで、“普通じゃない人”ですか?!」
「普通じゃない……?」
前のめりになりながら目を輝かせたアイラを眺めルードは一瞬考え込んで、すぐにぱっと笑った。
「ははっ、よく言われるよ! でも、悪い意味じゃないといいな?」
アイラは高鳴る胸の鼓動を押さえつけるように深呼吸し、ルードに真剣な視線を向けた。
ルードは相変わらずへらへらと笑い、さっきまで息継ぎも忘れて喋り続けていたのが嘘のように、じっとアイラの言葉を待っている。
「えっと……私たち、数日前まで自分に課せられた“役目”をまっとうする生活をしていたんです。でも、ある時ふと違和感を感じて……それで、逃げてきました」
ルードはゆっくりと瞬きを数回してから、アイラの固く握った手の上に、自分の手を優しく重ねた。
「君たちもか! やっぱり、みんななんかおかしいよね?僕もね、前は違う仕事に就いてたんだけど、急にやる気がなくなっちゃってさ。で、今は隣国の商品を売ったり、気ままに生活してるんだぁ」
彼の笑顔は能天気に見えたが、瞳の奥に一瞬だけ、薄暗い影が揺れるのをアルゴは感じ取った。しかし、あえて気づかないふりをする。
「命令に従うだけの人生は楽かもしれない。でも、あれは生きてたんじゃなく、使われてただけだったな」
アイラとアルゴが戸惑いながら今の状況を受け入れようとしているのと同じで、ルードにもきっと、語られぬ物語があるのだろう。
外では雨音が和らぎ、
遠くで鳥のさえずりが微かに響く。
つい先ほどまでのざわめきが嘘のように、穏やかな静けさがあたりを包み込んでいた。
――その静けさを、唐突な音が裂いた。
地の奥から響くような、低く鈍い衝撃音。
三人は同時に顔を上げる。遠くの地平線の向こうで、黒い煙がいくつも天に昇っていくのが見えた。
「……あれ、鉱山の方向じゃないか?」
アルゴが眉をひそめる。
アイラは息を呑み、手のひらを胸に当てた。
「煙……なんだかおかしい。こんなにたくさん……」
ルードは一瞬で真剣な面持ちに変わると、腰の双眼鏡をつかみ、目元にあてた。
「鉱山が……何か起きてるな。僕、ちょっと行って様子を見てくる。君たちは安全な場所にいて」
アルゴはアイラと短く視線を交わすと、互いに何も言わないまま確かに頷き合った。
「いや、放っておける状況じゃない。俺たちも行く」
三人は視界の限りに広がる山道へと足を踏み出す。遠くからでも、鉱山の大規模な異常がわかる。地面に伝わる微かな振動と、煙の濃さが、ただ事ではないことを告げていた。




