第6話 逃亡者と“普通”の町
酒場に入ると、肌にまとわりつくような重たい空気と、据えた葡萄のにおい、そして人の汗のにおいが混ざり合っていた。
酒をほとんど口にしたことのないアイラは、その場に立っているだけで酔いそうな気分になる。
中には、通りで見かけた鉱夫たちが数人、ぼんやりとした目つきで腰掛けていた。
アイラはその近くの席にアルゴと座り、手に取ったメニューを眺める。
紙は油と酒で染みができ、角はすっかり擦り切れていた。
「この中に……お酒じゃない飲み物ってあるのかな?」
小声で気まずそうに呟くと、アルゴが眉をひそめた。
「あるわけないだろ。……ほら、これだ」
指で示したのはメニューの端に書かれた“林檎の果実酒”だった。
「そこまで強くない。水で割れば飲みやすい」
アイラはその文字を見つめ、少しだけ目を輝かせた。
果物からお酒ができるなんて――そんなこと、考えたこともなかった。
アルゴが女将に注文を告げ、ふとアイラに視線を戻す。
「で、なんでこんなところに来たかった?」
アイラは目線でそっと、近くの鉱夫たちを示した。
「……情報収集です」
アルゴは肩をすくめ、女将が運んできた麦酒を無造作に口へ運ぶ。
そのとき――低く湿った声が聞こえてきた。
「掘っても掘っても……終わらねぇ。これが俺たちの役目だ……金を見つけなきゃ……」
「昨日も掘った。今日も掘った。明日も掘る。それでいい。それが俺たちの役目だ……」
「働くのは誇りだ。働くのは誇りだ。働くのは誇りだ……」
最後の男は、笑いながら同じ言葉を繰り返した。
手にしたグラスから酒がこぼれ落ちても、誰も気にしない。
彼らの声はどこか壊れた機械のようで、
その目には、どんな感情の灯も残っていなかった。
カウンターの奥から、若い女将が穏やかに声をかける。
「みんな立派ですよ。この町のために働いて……ねぇ、すごいですよね」
その笑みは優しいのに、瞳だけが冷たく光っていた。
アイラは息を詰めて、アルゴの袖をそっと引く。
「ねえ……この人たち、ちょっとおかしくない?」
アルゴはグラスを置き、低く言った。
「いや――“普通”なんだろう。ここではな。
俺たちのほうが、“異常”だ」
その瞬間、入口が賑やかになった。
仕事終わりの警備隊の若者たちが、笑い声とともに入ってくる。
「女将! いつもの六つ!」
「はいよ!」
運ばれた酒を一気に飲み干すと、ひとりが声を上げた。
「聞いたか? 勇者様ご一行が、ミリヤ町にいらっしゃったらしいぞ!」
「なんでまた、あんな田舎に?」
「お前知らねぇのか? 魔王を倒せる“聖剣”があの町にあるんだよ!」
笑い交じりのその言葉が耳に届いた瞬間、
アイラの心臓がぎゅっと掴まれたように跳ねた。
体の奥まで冷たいものが流れ込む。
「アイラ、出るぞ」
アルゴの声が響いたが、体が動かない。
青ざめたまま俯くアイラの手を、アルゴが強く掴み、そのまま外へ引き出した。
昼間の喧噪が嘘のように静まり、外では小さな雨粒がぽつり、ぽつりと地面に滲みを描いていた。
街灯が順に明かりを灯し、柔らかな風が頬を撫でて通り過ぎていく。
「……私たちの顔、見られてたよね」
「気にするな。酔っ払いの記憶なんて、明日には霧散する」
そう言いつつも、アルゴの表情は険しい。
顎に手を当て、静かに言葉を続けた。
「だが……情報が広まるのが早いな。明日の朝には、この町を出よう」
アイラはうつむきながら、小さく呟いた。
「……私たちって、いつまで逃げ続けるんだろう。
やっぱり、役目を果たしたほうが良かったのかもしれない」
その声は風にかき消されるほど小さかった。
しばらくの沈黙のあと、アルゴの低い溜息が夜に響いた。
「おい。お前、さっきの連中みたいに戻りたいのか?」
アイラが顔を上げると、アルゴの瞳がまっすぐに射抜いた。
「掘って、働いて、命を削って……それを“誇り”だと信じながら、ただ役目だけを果たして死んでいく。――そんな生き方に」
アイラは何も言えず、ただ小さく首を振る。
「俺はごめんだな。もう知ってしまった。
知らなかった頃のようには、生きられない」
「……わ、私も。嫌だ……もう、あんなのは」
アルゴはわずかに笑い、夕闇を見上げる。
「なら――俺たちのような奴を探そう。きっと、どこかにいる。
逃げるだけの旅なんて、つまらないだろ?」
アイラはゆっくりと頷いた。
街の灯が遠くに滲み、二人の影は重なり合いながら、雨を避けるようにそっと寄り添う。
濡れた道の先に続く夜へと、静かに歩き出した。




