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誰もが役目を放棄した世界で  作者: ソニエッタ


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第53話 汚れた窓

「……地下室……倉庫……」


 記憶の糸を手繰り寄せるように、ルードはその言葉を何度か小さく繰り返し、顎に手を添えたまま首を斜めに傾げた。


「そんな場所、あったかなぁ……?」


「誰でも思い浮かぶ部屋なら、あそこまで窓が汚れることはないだろ。だから開かずの間か何かかもな」


 あのあと、二人が見つけた薄汚れた窓以外に、侵入できそうな場所は結局見つからず、隠れ家へ戻ると、アイラとアルゴは神殿にしばらく身を置いていたというルードに、外から見えた様子を改めて伝えた。

だが、彼の記憶にも該当する部屋はないらしい。


「確かに、あそこは普段から掃除が行き届いてる。そんな薄汚れた窓が放置されてるなんて、普通は考えにくいね。……開かずの間か」


ルードはそう言って、少しだけ目を細める。


「……もしそうなら、誰にも気づかれずに侵入できるかもしれないね」


「使われていない場所なら、警備も手薄なはずだな」


「でも……影たちに見つかったらどうしよう……」


アイラは不安げに小さく声を落とす。


「あの人たち、影さえあればどこにでも来れるんだよね? 神殿なんて影も多そうだし、警備も相当厳しそうじゃない?」


その言葉に、ルードはよく分からないというように唸り声を上げた。


「うーん……それがちょっとおかしいんだよね。影たちは凄腕の殺し屋だよ。影を移動できるし、標的を取り逃すことはまずないんだ」


「全然追ってこないから拍子抜けしてたところだ。そもそもこの国じゃ奴らの仕事なんてそうそうないだろ。腕が鈍ってるんだろ」


確かに、影に追われたのは影たちの村と、テトラの町を出るときだけだった。

しかもテトラの町では、狙われていたのはアイラたちではなく、セトだった。


「もしかしたら……アイラちゃんが光で影を消したでしょ? あれで、影たちにつけられてた印まで消えたとか?」


「今は、俺たちを正確に追えない……ってことか」


「可能性は高いね」


「それなら――神殿に潜入するには、今が絶好の機会ってことよね?」


アイラの言葉に、誰もすぐには否定しなかった。

机の上に広げられた地図、その中央に記された神殿の印へと、三人の視線が自然と集まっていく。




——その時だった。


三人の思考を遮るように、窓を軽く叩く微かな音が聞こえてくる。目を向けると、青い鳥が首をかしげ存在を知らせるように家の中をじっと見つめていた。


「もうなんだんだよー」


ルードはそうぼやき、鳥の右足に結ばれた紙をそっと取り外す。紙を開き、しばらく眺めたあと、眉をひそめて重いため息をつく。面倒くさそうな表情だが、どこか仕方ないと諦めたような、微妙に複雑な顔つきだった。


「ちょっと呼び出されたから行ってくるね」


******



ルードは深くローブを被って顔を隠すと、細く曲がりくねった迷路のような路地を、迷いのない足取りで進んでいく。

やがて突き当たりに、小さな庭のついた家が姿を現した。


扉を、一定の規則正しいリズムで叩くと、

まるで合図を待っていたかのように、扉はすぐに開いた。


「君さー、もう降りたんじゃなかったの? 僕わりと忙しいんだけど?」


軽口とは裏腹に、視線は鋭い。


ルードを呼び出した者――ケインは、その言葉に応じることもなく、長椅子に腰掛けたまま組んでいた脚を静かに組み替えただけだった。

沈黙が、わずかに重く室内に落ちる。


「あの女を、どうするつもりだ? ……俺と同じ目に遭わせる気か」


ケインはそう言って、右目に巻いていた眼帯を外した。


「まだ王側には気づかれてないよ。捕まらなきゃ、どうにでもなる」


軽く返したルードの視線は、眼帯の下から露わになった“あるはずのものがない”空虚に触れた瞬間、わずかに揺れた。

しかし次の瞬間には、それを直視することを避けるように、彼は視線を床へと落とす。


「……神殿は、もう気づいているだろ」


ケインは低く、感情を押し殺した声で続けた。


「王だって同じだ。気づいていないはずがない」


「君とは状況が違うよ。アイラちゃんは平民だ。スペアが役目の第三王子が皇太子を差し置いて《《金の瞳》》を持って生まれるのとはわけが違う」


「だがな。逃げた《《神子》》が、《《瞳》》を持つ者と行動している――それだけで十分、危険視されると思うが?」


「逃げた、なんて言い方は心外だな」


ルードはわざとらしく肩をすくめ、道化じみた笑みを浮かべてみせた。


「僕はただ、神の声が聞こえなくなっただけさ。だから後のことは、ちゃんと後任に託した。それだけだよ。それにアイラちゃんの瞳は君たちが問題視する《《瞳》》ではなくて、《《真実を映し出す瞳》》だ」


口調は軽い。けれど、その軽さがかえって、この場に張りつめた空気を際立たせていた。

あの林檎を口にしてから、彼らを取り巻く世界は、静かに、しかし決定的に形を変えてしまったのだ。


「……あの新しい神子のガキだがな、お前が神子をやっていた頃とは明らかに違う。様子がおかしいんだ。まるで、何かに取り憑かれているみたいでな……」


一拍置き、ケインは鋭くルードを見据える。


「あの神の涙とかいう怪しい液体も、他国から人を迎え入れると言い出したのも、全部あのガキの差し金だ」


吐き捨てるような声だった。


「そこまで分かっていながら、お前は神殿の操り人形のままでいるつもり?」


ルードの言葉に、ケインは答えるまでに少し時間を要していた。

そこにあったのは、役目から解放されたはずなのに、なお縛られたままのような表情――

恐怖も怒りも削ぎ落とされ、ただ“国を先導すべき者”としての空白だけが残っているかのようだった。


「……確かに、この国は歪んでいると思っている。神殿だって、なくなればいいとさえ思うこともある。だが、俺は末端とはいえこの国の王族だ。市民の暮らしを、何よりも先に考えなければならない立場にいる。俺一人の感情で、この国を揺るがすことはできない。

ここは神に守られている、唯一の国だ。

この平和を手放した先に、何があるのか……ルード、お前なら分かっているはずだろう?」



セトがこの国に憧れるのも無理はない。

《《外》》は、殺戮と貧困が当たり前の世界だ。

もし市民が役目から解放され、それぞれが感情を持ち始めれば、この国もまた同じ運命を辿るのだろう。それは、避けようのない帰結なのかもしれなかった。


「それに、あの金眼の女が何も変えられなかったらどうする?

捕まって、両目をくり抜かれるのを……黙って見ているつもりか?」


問いかけは、ほとんど詰問だった。

しばらくの沈黙のあと、ルードは視線を伏せたまま、静かに口を開く。


「……何事にも、犠牲はつきものだよ」



あえて軽く言い放つと、それ以上の言葉を交わす気はないとでも言うように、ルードは踵を返して部屋を出た。


外に出てから、ルードは一度だけ足を止め、ケインがまだ中にいる家を振り返る。


「……綺麗事ばっかり言ってるけど、僕たちのことを黙ってみすごしてる時点で、君はもうこっち側だよ」


王に報告することもできる立場でありながら、それをせず、見て見ぬふりをする。

姿を隠すための魔法が施されたローブも、身を潜めるための隠れ家も、すべて用意してくれた。


役目と恐怖に縛られたまま、手を伸ばすことも、完全に背を向けることもできない――

雁字搦めの幼馴染に、吐き捨てるようにそう呟くと、ルードはアイラたちの待つ隠れ家へと足を向け歩き出した。




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