第37話 選べる者、選べない者
少年——セトは腹を満たした途端、また眠りに落ちた。
小さな体が静かに呼吸を繰り返すのを見つめながら、アイラは胸の奥に複雑な感情が広がるのを感じていた。
この国は、外から見れば「神の国」と呼ばれているらしい。だが、アイラにとってそれは決してセトが想像しているような祝福の地ではない。
自我を奪われ、与えられた役目だけを淡々と果たす世界。
その役目の内容次第では、アイラの両親のように、命さえ差し出さなければならない者もいる。
確かに、貧困はない。
考えの違いによる衝突はあるのかもしれないが、血を流すような争いもない。
貧困や戦争に疲れ果てた者なら、この国に憧れ、住みたいと渇望するだろう。
だが、ここの人々はこの国を動かす歯車にすぎない。
感情も、迷いも、選択も、必要とされない。
糸を持たないセトには、まだ選択肢がある。
自ら望み、この歪んだ世界の一員になりたいのなら、それは彼自身が選べばいい。
だが、この国で生まれ育った者たちは違う。
彼らには最初から、選ぶという行為そのものが与えられていないのだ。
「……おかしいのは、俺たちが住んでいるこの国だけなのか?」
考え込むアイラに、アルゴが静かに問いかける。
ルードは珍しく口を閉ざし、軽い笑みも浮かべずに沈黙を守っていた。
まだ国境の外へ出たわけではない。
セトが特別な例である可能性も否定はできない。
それでも、この国が外から「神の国」として特別視されている理由が、人々が糸という鎖に繋がれ、管理されているからだと考えれば、辻褄は合ってしまう。
「セトは糸がないし、この国の外の人たちはみんなそうだとしたら……なんでこの国だけ?」
答えの出ない問いが、部屋に落ちる。
役目の世界から切り離されたばかりのアイラたちにとって、この国の仕組みは疑問ばかりを積み重ねていく。
「まあさ」
沈黙を破ったのはルードだった。
深刻になりかけた空気を、いつもの軽い調子で払うように肩をすくめる。
「考えたって、今は答えなんて出ないでしょ。分かる材料も足りないし」
それから視線を眠るセトへ向ける。
「それより問題はこれからだ。セトを保護した以上、もう前みたいに身軽には動けない。
影も、もう動き出してる。となると、この先どこへ向かうか、何をするかを決めなきゃならない」
軽口の裏に、逃げ道が減っていることを理解している声音が滲んでいた。
ルードは笑ったまま、だがはっきりと言う。
「何も考えずに進める段階は、もう終わりだよ。
選ばなきゃいけない所まで来ちゃったってこと」
アイラは俯いたまま、指先を強く握りしめる。
迷いがないわけじゃない、正直に言えば怖い。
それでも、目を背け続けることだけはもうできなかった。
「……それなら、私は王都を目指したい」
神殿も、王も――
この国を形作るすべてが集まる場所。
そこへ行かなければ、この国の正体には、きっと辿り着けない。
そして神の涙にされた魂を、一つでも多く解放してあげたい。
「おい、アイラ。お前正気か?」
アルゴの声には批判が混じっていたが、ルードは慌てた様子を一切見せず、わずかに口角を上げた。
肩をすくめる仕草はどこか楽しげで、余裕すら感じさせる。
地図をくるりと指先で回しながら、軽い調子で続ける。
「この国の“中心”に行くってことはさ、一番面倒で、一番危険だ」
冗談めいているのに、その目は笑っていなかった。
「選択肢としては、悪くないね」
「お前まで何言ってんだ?」
「だってさ。安全な場所に隠れて、こそこそ生き延びてたって、何も変わらないでしょ?」
ルードの言葉に、アイラは小さく頷いた。
逃げているだけでは、何も変わらない――。
これから隣国から人が入ってくれば、さらに多くの神の涙が必要になるだろう。
その流れを止めるのは、今自分が立ち上がるしかない。




