第36話 少年
ルードの家は思いのほか居心地がよく、すでに一週間ほどここで過ごしている。
この先どうすればいいのか、考えなければならない。しかし、ミリアの町から逃げ続けてきたアイラにとって、ここは束の間の安息だった。
それに、家には認識阻害の魔法がかかっているらしく、追手を気にせず過ごせるのもありがたい。
「肉が食いてぇ」
アルゴの呟きに、アイラは思わず苦笑した。保存食ばかりの生活で、ここ数日、口を開けばそれしか言わなくなっている。
「狩にでも行こうか。アイラちゃんは家で待ってて」
そう言い残すと、アルゴとルードはフードを深く被り、森の奥へと消えていった。
一人残されたアイラは、静かに思いを巡らせた。
これから向き合わなければならないのは、自分よりはるかに大きな存在。
恐怖はある。
それでも、何をすべきかを自ら決めたことで、役目を放棄してから感じていた、暗闇の中を手探りで歩くような漠然とした不安は、少しだけ和らいでいた。
どれくらい考えていたのだろうか。
そんなことを思い巡らせているうちに、扉が静かに開く音が聞こえた。
アルゴとルードが、森での狩りを終えて家に戻ってきた。その腕には、まだ幼さの残る十歳ほどの少年が、ぐったりとした様子で抱えられている。
「森で倒れていた。命に別状はないと思うが、かなり疲れてる」
アルゴが低く呟き、ルードも無言で家の中に入る。
アイラはすぐに立ち上がり、二人と少年を迎え入れた。
床に下ろされた小さな体は、かすかに息をつき、疲れ切った目を半開きにしてアイラを見つめる。
「……誰……?」
かすかな声が漏れたかと思うと、少年はそのまま瞳を閉じ、気を失った。
「影の連中の関係者じゃなければいいが……影は、子供であろうと何であろうと利用してくるからな」
「それは、ないと思う」
アイラは静かに否定した。根拠は目の前の少年にある。
彼には、本来あるはずのものが欠けていた。糸が一本も見当たらず、《《秩序》》に縛られた者ではないことを示していたのだ。
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「で、お前か。国境を騒がせていたのは」
アイラが作った鶏肉のスープを、少年——セトは勢いよく口にかき込んでいた。返事をする余裕もないというように、口いっぱいに頬張ったまま、こくりと頷く。
三人が国境で目にした、警備隊に追われて森へ逃げ込んだ人影――
商品に紛れて潜んでいたところを国境で見つかり、そのまま全速力で逃げ切ったのが、この少年だったのだろう。
「君さ、ご両親は? 心配してるんじゃないのかな」
ルードが紅茶を啜りながら、少し声の調子を落として尋ねる。
「父ちゃんも母ちゃんも、死んだよ」
少年は何でもないことのように言った。
だが、その瞳の奥には、無理やり押し殺した感情が、かすかに揺れている。
「……どうして、そこまで危険を冒してこの国に入ろうとしたの?」
その問いに、セトは一瞬きょとんとした顔をした。質問の意味が分からない、というように眉を寄せる。
「僕だけじゃないよ。みんな、この国に住みたいに決まってるだろ! 危なくても、入れるチャンスがあるなら、誰だって狙うさ」
セトの身体には、糸がない。
つまり、城壁の向こうにいる人々は、少なくとも生まれながらに役目に縛られてはいない――その可能性が高い。
それなら、なぜ。
どうして彼らは、自由のないこの国へ、わざわざ足を踏み入れようとするのか。
アイラには、どうしても理解できなかった。
「ここは神に守られている国なんだ」
セトは必死に言葉を重ねる。
「争いも、他の国からの侵略も、貧しさもない。みんなが幸せに暮らせる、“神の国”だって、外じゃ言われてる」
アイラが黙ったままでいると、セトはさらに続けた。
「最近になって、やっと移民が認められるようになったんだ。選ばれた人は、光る液体を飲めば、この国の住人になれるって……でも、僕は選ばれなかった」
光る液体。
———神の涙。
あのおぞましいものを飲ませることで、糸を持たない者に糸を与え、管理下に置くつもりなのだろう。
確かに、この国には貧困も争いもない。
だがそれは、人々を縛り、操っているからこそ成り立つ平穏だ。
そこに、個人の自由も、選択も存在しない。




