第35話 国境
翌日、アイラ、アルゴ、ルードは認識阻害の魔法が施されたローブを身にまとい、フードを深く被って国境へと向かった。
国境は高い壁に囲まれ、まるでこの国そのものを閉じ込めているかのようだ。
開いた扉の向こう側には、人々が列をなしているのがかろうじて見える。だが、空高くそびえる壁のせいで、糸が伸びているのかどうかまでは判別できない。不思議なことに、この国から外へ出ようとする者は一人も見当たらなかった。
「この国から出ようとしている者はいないんだな」
アルゴの呟きに、ルードが呆れたような視線を向ける。
「アルゴさ、今さら何言ってるの?
そんな疑問を持てるのは、君が縛られてないからだよ」
確かにそうだ、とアイラは思う。
役目に忠実だった頃、国から出るという発想自体がなかった。ましてや、住んでいたミリアの町を離れる選択など、最初から存在しなかった。日々はただ、与えられた役目を果たすことだけで埋め尽くされていた。
「商人でもなければ、こんな場所に来る理由もないさ」
外側に見える人だかりは、やはり予想外だった。
それに、誰一人としてこちら側へ入ってこようとしないのも不自然だ。
「他国の商人が商品を売りに来てるんだよ。
商人専用の扉があって、そこで取引するんだ――ほら、あれ」
ルードが示した先には、金の糸で繋がれた商人らしき男が、大きな荷を台車に積んでいる姿があった。どうやら今しがた、隣国から商品を買い付けたばかりのようだ。
「もう少し近づいてみるか」
「そうだね。買い付けのふりをして、商人の扉から――」
その時、国境の方が急に騒がしくなった。
先ほどの商人が狼狽えた様子で叫び、警備の者たちが一斉に動く。扉が閉ざされ、同時に台車のそばから一人の小さな人影が全速力で走り出した。
影はそのまま森の中へと消えていく。
「……なんだ?」
「まずいな。人が集まる前に戻るぞ」
特に情報を得ることもできないまま、三人は来た道を引き返した。
アイラは、国境から外へ出ることが容易ではないらしいと知り、胸の奥で安堵している自分に気づく。
このまま全てから背を向け、逃げてしまっていいとは思えなかった。
《《見える目》》と、糸を断ち切る力を持つ以上、この世界から目を背けることはできない。
もし背を向けてしまえば、この力はいったい何のためにあるのだろう。
糸に縛られてはいない。
それでも、こうして考えてしまうということは、望まず手に入れた力によって、相変わらず何かに縛られているのかもしれない。
完全な自由など、存在しないのだろう。
それでも選択肢があるということを、アイラは幸福だと思った。
*******
ルードの隠れ家に戻ると、アルゴは地図を広げたまま難しい顔をしており、ルードは黙々と食料の残りを確認していた。
アイラは二人の様子を見てから、ゆっくりと声をかける。
国境へ行ってみたものの、得られたのは「外へ出るのは容易ではない」という事実だけだった。
それでも、アイラの中では気持ちが、少しずつ定まりつつあった。
「私……ここに残ろうと思う」
二人の手が止まり、視線が一斉にアイラへ向く。
「糸を切ることには、まだ抵抗があるし、何かを変えられるかも分からない。
それでも……神の涙に閉じ込められた魂は、解放してあげたい。そんな行為は、やっぱり止めさせたい」
アルゴもルードも、すぐには言葉を返さなかった。ただ、静かにアイラを見つめている。
何が正しくて、何が間違っているのか。
この国の常識の中では、アイラの考えは通用しないだろう。
それでも、あの魂の叫びを聞いてしまった以上、見過ごすことはできなかった。
「アルゴは、ここまで私についてきてくれた。でも……もし、このままこの国を出たいなら、気にしなくていい。無理に一緒にいる必要はないから」
アルゴはしばらく地図を見つめたまま、動かなかった。
やがてそれを畳み、無造作に脇へ置く。
「お前からもらった柘榴の果汁を飲んで、正気に戻った。
……俺は、あれを縁だと思ってる」
一度視線を落とし、それからゆっくりとアイラを見る。
「役目を捨てたなら、その先を見届けたい。
俺が勇者から離れたことで、何が起きるのか。
ここが何なのか、神殿が何を望んでいるのか――
それを知らないまま、他国へ逃げるつもりはない」
そして、迷いのない声で告げる。
「だから、残る。
お前が進むなら、最後まで付き合う」
短い言葉だったが、その選択は揺るぎなかった。
アルゴの言葉を受けて、ルードは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子で肩をすくめる。
「まあ……ここまで来たら、乗りかかった船ってやつだよね」
冗談めいた口ぶりで笑う。
「国境も越えられそうにないし、今さら安全な場所なんてない。
それなら、君たちと一緒に動いたほうが退屈しなくて済む」
地図の上を指先でなぞりながら、軽く続ける。
どこまで本気で、どこまでが軽口なのか。
その境目は、相変わらず分からない。
ただひとつ確かなのは、
ルードは、この場から降りる気はない、ということだけだ。
アイラは助けたいと願い、
アルゴはその行く末を見届けたい。
そしてルードは——、
三者三様の思いを胸に、願いも覚悟も違う。
それでも三人は、同じ行き先を見据えていた。




