第34話 これから
隠れ家に身を置いて数日、追手はここまで来ていないようだった。
このルードの隠れ家は、まるで二人の到来を見越していたかのように、外に出ずとも生活できるだけの食材が十分に揃っていた。
ソファや寝台も備えられ、あまりに居心地が良いことから、彼の商人としての優秀さが窺える。
アルゴは地図を広げ、あまり目立たずにここから国境へ向かうルートを探していた。
神殿に完全に目をつけられた以上、どの町でも二人の存在が知られている可能性は否定できない。あの村の者たちも、二人を見つけるまで諦めないだろう。
「追手が来たら、糸を全部切ればいいんじゃないか?」
「そんな簡単にいくかな……」
うまくいくかは分からないが、アイラは以前より確実に力を使いこなせるようになっており、追手が来れば糸を切って対処することもできるだろう。
だが、それは余命わずかな人の魂を、神の涙から救うのとは、まったく訳が違う。
これまで「役目」として人を殺し続け、人を殺すことだけを刷り込まれて育ってきた者たちが、いざ正気に戻った時、何か取り返しのつかないものを壊してしまうのではないか――それが怖かった。
レーネは糸がなくとも役目に縛られたままだった。
おそらくそれは、今までしてきたことを正当化したいからだろう、とアイラは思う。
もし役目を辞め、行ってきたことを否定してしまえば、彼女の行為はただの殺人に堕ちる。
だが《《役目》》という名目があれば、それは途端に、国からの崇高な依頼の下で行われた行動となるのだ。
そんなことをアイラが考えていると、突然アルゴが剣に手をかけ、警戒を強めた。
「奥へ行ってろ。誰が来る」
その言葉の直後、扉を叩く音が響いた。
アルゴが外の様子を窺っていると、聞き慣れた声が外から響く。
「僕だよー、ルード。戻ったよ!」
同時に扉が開かれ、見慣れた赤髪の男が立っていた。
*****
「それで、これなんだけどさー」
ルードはいつもの能天気そうな調子で、アイラとアルゴの前に二枚の紙を差し出した。
そこには、二人によく似た人物の似顔絵が描かれている。
「これで、俺たちも国公認のお尋ね者ってわけか」
役目を放棄した時点で、遅かれ早かれこうなることは分かっていた。
むしろ、何事もなく二つの町を移動できただけでも、運が良かったと言える。
アイラが森の中で立ち寄った村の話をすると、ルードは何か思い出したように立ち上がり、扉の近くに置いていた袋を二人に差し出した。
「これ、着て。認識阻害の魔術がかかってるローブだよ。僕もいつも使ってる」
「……それで、お前はあの村のことを知っているのか? 地図には載ってなかった」
アルゴの問いに、ルードは少し考えるように視線を上げる。
「話を聞く限りだと、“影”の者たちが住む村かな。
王都からあんなに離れた場所で生活してるとは思わなかったけどね」
ルード曰く、彼らは王族や神殿から依頼を受け、国の秩序を乱す存在を排除する役目を担っている。
レーネが語っていた内容と、ほぼ一致していた。
「……もしかして、ルードも彼らに追われてるの?」
村の話をしただけで、その存在が即座に出てくるということは、無関係とは思えない。
国の秩序を乱す者を消す存在なら、役目を放棄したルードも少なからず該当するはずだ。
「僕は、まだそこまでじゃないよ」
ルードは軽く肩をすくめる。
「彼らは手当たり次第に殺すわけじゃない。
あくまで“国に影響を及ぼすかどうか”が基準だ。僕の代わりはいたしね。だから今のところは大丈夫だと思う」
影の者たちが動く基準は、「国への影響」だという。
なら、ハイバの町の住民は、どうなる?
アイラは、神官を除く町民すべての糸を切ってしまった。
役目を放棄する者が出るのは、避けられないだろう。
「数人ならともかく、ハイバの町全体だしね。
対象が多すぎる以上、神殿もすぐには動かず、しばらく様子を見るはず」
「町の者全てを殺すわけにはいかないだろうな」
その言葉に、アイラは小さく息を吸った。
「……でも」
二人の視線が向く。
「動かないだけで、何もしないわけじゃないよね?様子を見るって、結局はいつ誰を殺すか決める時間なんじゃない?」
「そうなったら仕方がない。だが俺らはもう消される運命は確定だぞ」
ルードは肩をすくめ、地図の端を指で叩いた。
「国境はもうすぐだ。
この線を越えれば、少なくとも王国の追及は弱まるだろう。そろそろどうするか決めないとだめだぞ」
アイラはその言葉に、すぐには頷けなかった。
アイラは地図に引かれた国境線へと視線を落とした。
「国を出たら、全部終わりになるのかな」
自分に問いかけるような声だった。
神殿。
役目。
神の涙。
「外の国も、同じ仕組みかもしれない。
名前が違うだけで、同じことをしてるかもしれない」
アイラは拳を握る。
「もしそうなら、国境を越えても私は、ただ見て見ぬふりをするだけになる」
アルゴは何も言わず、地図を見つめたままだった。
しばらくの沈黙のあと、ルードが静かに口を開く。
「他国の商品はいつも仕入れているけど、実際に行ったことはない。おかしなことに国境の検問を通った人を一度も見たことがないんだ。だからいつも国境でやり取りしているんだよ」
ルードは地図の国境線を指でなぞる。
「アイラちゃんみたいに糸が見えるわけじゃないから、外の国の人間がどう縛られているかは分からない。同じ仕組みか、それとも違うのか――正直、判断はつかない」
アイラはしばらく黙り、地図を見下ろす。
胸の奥にわだかまる不安は、国を出ても消える保証はないことを示していた。
「……なら、確かめに行くしかないのかな」
小さな声でアイラが呟く。
「確かめに行くってのも、僕は悪くない選択だと思うよ」
その言葉は、逃げでも断定でもなかった。
未知へ踏み出す、ただ一つの提案だった。
「元々、国境を目指して進んできたんだ。
行ってみて、これからのことを決めてもいいだろう」




