第32話 約束
「二人とも、急いで! ここの隠し扉から出て!」
アイラとアルゴは素早く動いた。
女は家の床板を開け、二人を中へと促す。
床下には扉が隠されており、その先には階段が暗闇へと伸びていた。
女が最後に中へ入ると、内側から扉を閉める。
「あなたたち……いったい何をしたの?」
勇者から逃げたことなのか、それともハイバの町で起きた出来事なのか。
アイラには、どれが原因でここまで事態が動いているのか、もはや分からなかった。
「この村の者たちは、基本的に王家か神殿の指示で動くの。“頭”が、あなたたちを一晩村にいることを許した……その時点でおかしいと思ったのよ」
今このタイミングで動き出したのなら、きっとハイバでの出来事が、神殿から伝わったのだろう。
三人は暗く湿った通路を、息を切らしながら全速力で駆け抜ける。
やがて遠くから獣の遠吠えが響き、微かに冷たい空気が流れ込んできた。
「もうすぐよ!」
女の家の地下は、森の中の洞窟へと繋がっていた。
森のどの辺りかは分からないが、追っ手の気配は感じられない。
「……すまなかったな。あんたを巻き込んだ」
「頭と話したあと、すぐに村を出たってことにするわ。気にしないで」
そう言って、女はわずかに口元を緩めた。
「……私たちと、一緒に来ませんか?」
女は答えず、静かに首を横に振る。
アイラには、それが理解できなかった。
人を始末するという“役目”に、なぜそこまで縋るのか。
金の糸がないにもかかわらず、彼女はまるで縛られているようだ。
けれど、女は選んだのだ。
どんな理由であれ、自分の役目を。
「もう行って。見つかるわ」
「……名前」
「え?」
「名前を教えてください。
それから……もし、少しでも迷っているなら。
次に会えたとき、その時は一緒に来てくれますか?」
次に会うとしたら、それはきっと——
アイラたちを始末するために現れる時かもしれない。
それでも、アイラの脳裏には、あの一瞬だけ覗かせた、疲れ切った女の顔が焼き付いて離れなかった。
この言葉が、もしかしたら彼女の拠り所になるかもしれない。
そう、信じたかった。
「……レーネ」
「またね、レーネさん」
アイラはそう言って手を振った。
レーネは長い黒髪を風に揺らしながら二人を見つめ、すぐに感情のない表情へと戻る。
二人の背中が闇に溶けるまで、レーネはその場に立ち尽くしていた。
*******
アイラとアルゴは、夜の闇の中で森を無我夢中で歩いていた。
まるで、これから先の自分たちの未来を映しているかのように、一歩一歩が重く感じられる。
レーネは、無事に村へ戻れただろうか?
村に帰ったら、同じ役目を背負う村人たちから何か罰を受けるのではないか。
無言で歩くアイラの頭には、さまざまな思いが浮かんでは消えていった。
「あの女なら大丈夫だと思うぞ?」
無言のアイラに、アルゴが急に口を開いた。
なにかを察したのか、それとも自分の不安を振り払いたかったのか。
「そうかな……。でも、私たちのせいで罰を受けているかもしれない」
アルゴは肩をすくめる。
「この世界はおかしいが、思考は単純で明快だ。奴らは“役目”以上のことはやらない。だから、あの女をどうにかすることはないだろう」
レーネも言っていた。
村の者たちは王族と神殿の依頼にしか従わないと。
つまり、レーネが村人に殺される可能性はほとんどないだろう。
——ただし、王族や神殿に依頼されなければの話だが。
森の闇が徐々に薄れ、月明かりが木々の間から差し込むころ、アイラとアルゴはようやく森の出口にたどり着いた。
レーネの家で少し仮眠はとれたものの、一日中森を歩き通していたため、二人の体力は限界に近い。
「やっと、抜けられたか……」
アルゴは短く息を吐き、辺りを警戒しながら先へ進む。
これからは、今までのようにゆっくり町に滞在することは難しくなるだろう。
地図に沿って少し歩くと、ルードが“隠れ家”だと言っていた小さな木造の家が見えてきた。
中に入ると、簡素ながら生活の痕跡が残っており、簡単な寝床や食料も揃っていて、しばらく身を隠すには十分だった。
「さすが商人だけあって、用意周到だな」
アルゴは家の中を見渡しながら、珍しくルードを褒めている。
それを見たアイラは、思わず微笑みながら「これルードに教えてあげなきゃ」と心の中で思った。
追手から逃れ、森を抜け、ようやく得られた小さな安息の時間だった。




