第31話 村での夜
「明日の朝一でこの村を出なきゃならない。早く休んで」
女の家に着くなり、彼女はアイラとアルゴに寝袋を放り投げた。アイラはそれを受け取りながら、言葉を慎重に選んで口を開く。
「さっき、嘘をついて私たちを庇ってくれたけど……どうしてですか?」
女は感情の読めない表情でアイラを見つめ、深くため息をつくと、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。
「もう、あなたたちもこの村がおかしいって分かってるでしょ?」
地図にも載っていない村。
村に入れないよう、外周には強い魔術がかけられている。
「……鉱夫の人たちに、何かしたのですか?」
「私の“役目”を果たしたまでのことよ」
先ほどの用心棒との会話から察するに、糸が切れ自我を取り戻し、仕事を放棄した鉱夫たちを、彼女は“自分の役目”として排除したのだろう。
だが、女には糸がない。
ならば本来、アイラやアルゴ、ルードのように、自分の意思で行動を選べるはずだ。
役目に縛られる必要などないはずなのに。
アイラの金色の瞳が、まっすぐに女を射抜く。
「あなたは、この村がおかしいって気づいているのに……まだ役目を果たそうとするんですか? あなたなら、選べるはずです」
女の目がわずかに開かれ、初めて感情がにじんだ。
それはほんの一瞬の、自嘲にも似た揺れ。
「選ぶ? 何を選ぶというの?
小さい頃から“役目を果たすため”に育てられたのよ。今さらおかしいと気づいたところで……何も変わらないし、変われない」
女は淡々と言った。
けれどその声の奥底には、長い年月、押しつぶされるように積み重なった疲れがこびりついていた。
アイラはゆっくりと首を振る。
「変わります。……だって、気づいてしまったんでしょう?
気づいた人は変われる。変わらなきゃって思える。あなたは、もう役目だからってだけで人を殺せる人じゃない」
女はこの村で出会ったとき、何の見返りもなくアイラたちを匿おうとした。
そして、先ほどは嘘までついて庇ってくれた。
アイラ自身も、役目を放棄した自分に迷いがないわけではない。不安や後悔に押しつぶされそうになる時だって、何度もあった。
それでも、自分の意思とは関係なく、誰かに決められたことをただこなすだけなのは、やっぱり何かが違う気がするのだ。
女はしばらく目を伏せていたが、やがて微かに唇を歪めた。
「……そんなふうに言われたら、私がまるで……彼らを殺したことを後悔しているみたいじゃない」
「後悔、してるんですよね?」
アイラは一歩、女へ近づいた。
金の瞳がまっすぐに真実だけを映す。
「あなたの目……見てると分かります」
「……っ」
女は目をそらした。
その反応は、否定ではなく図星を突かれた人間のそれだった。
「この村の人たち、みんな役目に縛られている。でもあなたは違う。あなただったら……逃げられるはずよ」
女は乾いた笑いを漏らした。
「逃げる?この村から?この役目から?」
「あなたは一人じゃありません」
アイラは胸に手を当て、自分を鼓舞するように小さく息を吸い込んだ。
「明日、私たちと一緒に出ましょう。
あなたは……ここに縛られて、もう誰かを殺したくないはずです」
女はしばらく動かなかった。
だが、その肩は、わずかに震えていた。
「……そんなこと、言わないでよ」
それは悲鳴にも似た、小さな声だった。
「まるで私が今までやってきたことが、間違いだったみたいじゃない」
女は俯いたまま、両手で顔を覆うようにして肩を震わせている。胸の奥で、ずっと押し込めてきた感情が、今、ほんの一瞬だけ溢れ出したのだ。
アイラは静かに一歩近づき、手を差し伸べる。
「大丈夫。逃げよう。ここから一緒に」
だが女は首を横に振る。
声にならない抵抗が、揺れる肩から伝わってきた。
「……ごめんなさい。私どうしていいのかわからない」
アイラは静かに頷く。
自分が信じてやってきたことが、突如として得体の知れないものに変わることの、戸惑いと重みを彼女も理解していた。
その後、三人は寝袋に身を沈め、静かな夜が訪れる。暖炉の火は小さく揺れ、外の雨音と森のさざめきがかすかに混ざり合う。
家の中に響くのは、かすかな薪のはぜる音だけ。
アルゴは目を閉じながらも、何か違和感を覚えた。
――微かに、けれど確実に、何かが動いている。
わずかな足音と衣擦れの音。
アルゴはゆっくりと目を開け、周囲を見渡す。
アイラはまだ深く眠っている。
「……来る」
低く、アルゴは呟く。
その声に反応して、女も目を覚まし、顔を強張らせた。静かな夜が、一瞬にして緊張に満ちた空気に変わる。




