第2話 少女は名前を取り戻す
拒絶の言葉を残したまま、少女は静かに鍋を片付けていた。
だが、心は落ち着かず、頭の中で言葉が何度も反響する。
(……あんなにお役目を全うすることが楽しみだったはずなのに……今は、すごく嫌だ)
リビングの中央で、勇者たちは小さく眉を寄せて立っていた。
黒髪の青年はまだ呆然とし、金髪の女性は目を細めて様子を窺い、背の高い騎士は静かに腕を組んでいる。
「……案内人」
勇者がゆっくりと声を出した。
「君の気持ちは理解した。……が、この国のために、君の協力が必要なんだ」
少女は顔を上げるが、目の奥の揺れる迷いは消えない。
「……どうして、私が……?」
胸の奥に、小さな違和感が再び芽生える。
勇者は視線を下ろし、慎重に言葉を選んだ。
「急がすつもりはないが、君が気が変わって案内してくれるのを待つ」
「……魔王の脅威って、本当にあるのですか? こんなに平和なのに」
彼女の声には、素直な疑問と少しの苛立ちが混ざっていた。
勇者は微かに頷き、言葉を落とす。
「そうだ、そう決まっている」
その一言に、少女の眉がひそめられる。
腑に落ちない気持ちを抱えたまま、彼らを家から押し出すように距離を取る。
「……とりあえず、今日はもう帰ってください!」
*******
翌朝、少女の眠りを破ったのは、扉を乱暴に叩く音と、外から押し寄せる人々のざわめきだった。
「案内人さん!!!」
「案内人、いるのか?!勇者たちが出発できないじゃないか!」
慌てて身支度を整え、窓から外の様子を確認する。
家の前には、大勢の人影が詰めかけていた。
「なんなのよあの勇者、町の人に話して……口の軽い人に私の大切な場所なんて絶対教えたくない」
案内人と呼ばれる少女は必要なものを鞄に詰め、裏手の窓から外へ飛び降りた。
「あ!裏から逃げたぞ!!」
足音が玄関の方向から迫る。少女は脇目も振らず、深い森の中へ走り込んだ。
「いたか?」
「こっちは見つからないぞ!」
「もっと奥かもしれない!」
数人の男たちが通り過ぎるのを、少女は木の上で息を潜めて見守る。だがこれ以上同じ体勢で木の上に潜むのは無理そうだ。
(……もう行ったかな? そろそろ限界かも……)
枝に手を伸ばした瞬間、指先が柔らかな草のような感触に触れる。
――鳥の巣だ。
小さな羽音とともに雛が鳴き、驚いた少女の身体は支えを失った。
次の瞬間、枝がぱきりと音を立てて折れ、重力に引きずられる。
「――きゃあぁぁっ!」
視界が反転し、木々の間の空と地面がぐるぐると入れ替わる。
背筋を冷たい風が駆け抜け、心臓が喉から飛び出しそうに跳ねた。
森に響く悲鳴。
男たちは声の方を探す。
「叫び声は向こうから聞こえたぞ」
一際低く、聞き覚えのある声が返事をした。
「騎士様!ありがとうございます!」
男たちは背の高い騎士に感謝すると、そのまま森の奥へと消えていった。
昨日、勇者と共にいた、深い茶色の髪を持つ背の高い騎士が木陰から静かに歩み出た。
ざわめく森の空気が一瞬だけ止まり、少女ははっと息を呑む。
「……立てるか?」
木の根元に身を潜めていた彼女へ、騎士は迷いなく手を差し伸べた。
「……たぶん……ちょっと痛いけど」
彼は腕を取り、ゆっくりと支える。
「なんで……?どうして助けるの?あなたも聖剣の場所を知りたいんでしょ?」
「いや……興味はない」
「え?でも勇者と魔王を倒すために聖剣が必要じゃ……?」
「やめてきた」
「え?」
「勇者との旅をやめてきた」
その言葉に、少女は口をあんぐり開け、固まる。
「なんで?」
「わからん。昨日、急に興味がなくなった。めんどくさい」
「……め、めんどくさい……?」
「おい、立ち止まってる暇はない。ここから離れるぞ」
二人は無言で森を進むと、数刻後には町から随分と離れた別の森の出口まで辿り着いた。
「ここまでくれば……大丈夫かな。でも、これからどうしよう……」
「まあ、騒ぎになっているからな、俺も勇者たちに追われている」
「あなたと二人で逃亡生活ってこと……?」
「そういうことになるな。聖剣の案内人よ、頼んだぞ」
「頼まれても何もできません!……あ、聖剣の案内人って呼ぶのやめてもらえます?私の名前は……」
少女はふと考える。
確かに、自分には名前がある。ずっと前から存在していたはずなのに、誰にも呼ばれたことがなかった。誰も気に留めたこともない。
鼓動が早まる。
口に出してみたい……自分自身の名前を。
小さく息を吸い、震える声で言った。
「……私の名前は……アイラ」
言い終えた瞬間、胸の奥に温かい安堵が広がる。
初めて自分の名前を、自分自身で抱きしめた気がした。
「アイラか……よろしく頼む。
俺の名は……名前は、アルゴだ」
アルゴは静かに頷き、視線をそらさずにアイラを見つめた。
静けさの中、ただ二人だけが呼吸を合わせる。
恐怖と混乱が渦を巻く中で、ただ息をすることさえ苦しかった。
けれど今、ここでようやく、その重さが少しだけ遠のいた気がした。
自分という存在を、誰かに確かに受け止めてもらえた。その温もりが、二人をやわらかく満たしていった。




