第19話 神の名の下に
アイラは、どこからともなく漂ってくる食欲をそそる匂いに目を覚ました。きっと、宿屋の食堂が昼食の準備を始めた頃なのだろう。
目を閉じたまま、まだ鈍く重い身体をゆっくりと起こす。
身支度を整えて階下の食堂へ向かうと、昼にはまだ少し早いせいか、客はまばらだった。
アイラは空いている席に腰を下ろし、昨夜の出来事を静かに思い返す。
神殿で見た光景――あの糸、祈り、そして人々の姿。
どれも現実のものとは思えなかったが、あれは確かに目の前で起こったことだった。
(どうすればいいんだろう……)
手の中で水の入ったカップを包みながら、アイラは考える。何に向かって、どう立ち向かえばいいのか、その答えはまだ見えない。
けれど、感じるのだ。
この世界のどこかで、見えない何かが人々を操っている。
神の涙も、糸も、役目という名の鎖も。
そして自分は、その鎖から切り離された存在。
きっとこの世界の秩序から外れた、ほんの小さな欠片にすぎない。
それでも――
(切り離されたのには、きっと理由がある……)
彼女の金色の瞳が見せるものは、きっと世界が変化を求めている兆し。小さな波紋でも、そこから何かが動き出すかもしれない。
「神殿……人……祈り……金の糸……魂……」
ぽつりと、アイラは昨夜の光景を口の中で転がすように呟いた。
神殿の奥で、司祭たちが祈りの言葉を唱えるたび、寝かされた人々の胸元から金の糸が立ち上がり、ゆっくりと祭壇へ吸い込まれていっていた。
ふと、あの祈りの旋律がアイラの中で何か引っかかりをおぼえる。
どこかで、聞いたことがある。
「祈り……そうだ、あれは——」
言葉の続きを思い出しかけた、その時。
「おーい、アイラちゃん!!」
明るい声が思考を断ち切る。
顔を上げると、手をぶんぶん振りながら駆け寄ってくるルードの姿があった。
その後ろからは、仏頂面のアルゴが、やれやれといった様子で続いてくる。
「よく寝れたー?」
ルードはそう言うと、アイラの横に腰掛けてメニューを眺めた。その隣にアルゴも腰掛けたが、彼の表情は対照的で、真剣そのものだった。
「町を回って、いろいろ情報を探ってきた」
「そうそう、結構面白い話があってさ!」とルードが軽口を添える。
アイラは首を傾げると、彼女が眠りにつく前に、アルゴが神殿の情報を集めておくと言っていたことを思い出す。
「病気の末期とか、余命いくばくもない人たちを、神殿が神の加護のもとで看取るって言って呼び寄せているらしい」
「神殿の中で生を終えれば、神のもとにいける近道になるんだってさ」
アイラは眉間をよせて二人を見つめる。アイラがいた町ミリアではそういった話などきいたことなどないのだ。
「王都ではそんな話は聞いたことなどないがな」
アルゴもアイラと同じ疑問を持ったようで、難しい顔をして彼女を見つめ返した。
「神の涙が出回りだしたのが最近だからね。ここがそうなら、王都の大神殿も似たようなことを始めてるかもしれない」
ルードがメニューを閉じて、真面目な声色になる。
アイラは少し引っ掛かりを覚えた。
彼女が見たのは、闇夜に紛れて運ばれていた人たちだ。もし本当に『神のもとに導くため』に集めているのなら、あんなふうに人目を避ける必要などないはずだった。
「でも……それなら、なんで夜に運んでたんだろう?」
アイラが首をかしげる。
「んー、僕の予想だけど……表に出せないような最期を迎えてるとか? 故意に傷つけられてるとか、あとは——」
「神の涙を飲みすぎて、様子がおかしくなった人とか?」
アイラの言葉に、ルードとアルゴの脳裏にあの店主の姿がよぎる。
焦点の合わない目、空ろな笑み、震える手。
眠らず働き続け、魂がすり減っていくようだった。
あのままでは、いずれ命を落としていたかもしれない。
「神の涙を使えば、次は自分自身が神の涙になるってか、とんだ皮肉だな」
アルゴが低く呟く。
「でも、そんなに簡単に死なれたら神殿も困るんじゃないの?」
アイラが問いかけると、ルードは椅子の背にもたれ、目線を天井に向けた。
「あれは少量なら確かに元気になる。働くには都合がいい。でも、飲みすぎれば命をすり減らす。
それでも飲ませるってことは、使い物にならなくなった人間にも、別の使い道があるってことだろうね」
アイラは眉をひそめ、昨夜の光景を思い出した。
この町の人々の身体からは、何本もの金の糸が絡み合うように伸びていた。
前の町では、誰もが一本だけだったのに。
「……他の人の魂を取り込むほど、糸の本数が増えるのかもしれない」
彼女の声はかすかに震えていた。
「そうか。飲めば飲むほど、他人の魂を取り込み、自分の中の糸を増やしていく。そいつがやがて死ねば、また神の涙に戻されて、別の誰かの中に流れ込む……」
ルードの言葉に、アルゴがわずかに目を細める。
「再利用……ってわけか」
「そう。命を資源みたいに扱ってるんだ」
ルードの声は静かだったが、その奥には怒りが滲んでいた。
「命の危険があっても構わない。世界の秩序さえ保てればそれでいい。
でも、そんなことを知られたら誰も神の涙なんて飲まなくなる。だから夜にこっそり運ぶんだ」
言葉が落ちると、三人の間に重い沈黙が広がった。
「この町の人たちは働き者で、休むことを知らない。でも……もしかしたら勤勉なんじゃなくて、役目に強く縛られてるだけなのかも」
ルードはテーブルの上に視線を落とした。
「神殿のやつらにとって一番大事なのは、人でも正義でもなく秩序だ。
そのためなら、どんな犠牲も正当化される。そう本気で信じてる」
「神の涙が世界に行き渡れば、秩序は保たれるのかもしれないけど……」
アイラは静かに呟いた。
「私たちは、機械じゃない」
淡々とした会話の中に、確かな怒りが滲んでいた。
アイラは拳を強く握りしめる。




