第18話 神殿での出来事
宿屋の扉を潜り抜けると、アイラは大きく肩を揺らし、小刻みに息を吐いた。
心臓が胸から飛び出してしまうかと思うほど、鼓動が体の中を響き渡っている。
先ほど目にした光景を頭の中で何度も反芻する。
だが、あまりに現実離れしていて、まるで幻を見たような気がしてならなかった。
人々を安息部屋導くはずの神殿の夜の姿。
床に並べられた人々。
祈りとも叫びともつかぬ声。
安らぎを与えるはずの場所が、まるで人々の魂を天へ導くのではなく、その場で刈り取ってしまっているように見えた。
足元がふらつき、アイラは部屋の扉に背を預けるようにしてその場に座り込むが、彼女の肩はまだ激しく上下し、耳の奥ではまだ、あの祈りにも似た声が微かに残響している。
「音がしたけど、大丈夫?」
控えめなノックの音とともに、ルードの柔らかな声が扉の向こうから聞こえた。アイラは一瞬ためらい、けれどゆっくりと扉を開け、隙間から顔をのぞかせる。
そこには心配そうに覗き込むルードとアルゴの姿があった。
寝ぼけたような顔のルードの赤い髪は、見事に四方へ跳ねている。その姿を見た瞬間、アイラの口元がかすかに緩み、胸の奥に渦巻いていた緊張が少しだけほどけた気がした。
アイラは両手を握りしめながら、息を整えた。自分でも何をどう説明すればいいのか分からない。
それでもあの光景だけは、決して口にせずにはいられなかった。
アルゴが首を振り、困ったように笑う。
「待てよ、さすがにそれは……見間違いじゃねぇのか?」
アイラは首を振った。
声が震えるのを抑えきれない。
「違う……見間違いじゃない。
床に寝かされた人から金の糸がのびて、吸い上げられていたの」
アルゴの顔から笑みが消える。
その中で、ルードだけが何も言わずに立っていた。腕を組んだまま、ただ床の一点を見つめている。
「……ルード?」
アイラが呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。いつもの軽い調子も、からかうような笑みもそこにはない。
その瞳はどこか遠く、過去の何かを見ているようだった。
「……神殿のやつらなら、やりかねないな」
「お前……どういう意味だよ」
アルゴが問うと、ルードは少しだけ口角を上げ、笑おうとしたがうまく笑えなかった。
「昔、少しだけ世話になったことがあるんだ……神殿に。あいつらのやることはいつも一緒だ。役目の為なら人の命なんて安い。まあ、神殿以外の奴らもそうだけど」
アイラの胸が強く締めつけられた。
ルードの声の奥には、静かな怒りと、ほんの少しの悲しみが混じっている。
「神の涙って名前、嫌に皮肉だろ。……泣いてるのは、神じゃなくて人間の方だ」
誰も言葉を返せなかった。
部屋の中に、宿の古びた時計の音だけが響く。
アイラはゆっくり立ち上がった。
胸の奥の震えが、いつしか別の感情に変わっていた。
恐怖ではない。もっと鋭い、確かな意志。
「……確かめなきゃ」
その声に、アルゴが顔を上げる。
「おい、まさか——」
「神の涙が、あんなものなら……放っておけない」
ルードはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。その笑いは、どこか諦めのようにも聞こえる。
「……ほんと、面倒な子だね。でもまあ、放っておいたらどうせ一人で行くんだろ?」
「……うん」
「だったら、僕も行こうかな」
「はぁ!? お前まで何言って——」
「行くなら夜かな……神殿の連中、朝になれば表向きの顔に戻る。信者に恵みを与えるためにね」
皮肉を込めたその言葉に、アルゴは何かを言いかけて、結局口を閉じた。
窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。夜の終わりを告げる鐘の音が、静かに鳴り響く。
アイラは金の瞳でその光を見つめる。耳の奥には、まだあの叫びがこびりついたままだ。
(……神の涙の正体を、この手で確かめる)
アルゴは肩をすぼめると、諦めたように小さくため息をついた。
「……ちょっと休め。寝てないんだろ?」
アイラの肩に手を添え、彼女をやさしく寝台に押しやると、アイラはふっと力を抜き、沈むように寝台に身を預けた。
アルゴはそっと布団を掛けながら、小声で呟く。
「……神殿のことは、俺らが情報を集めておく」
その静かな空気の中でアイラは目を閉じ、まだ止まらない鼓動に耳を澄ませながら、今できる休息を受け入れるしかなかった。




