第17話 闇夜
アイラは何度寝返りを打ったか分からないまま、観念したように大きくため息をついた。
寝台から上半身を起こすと、夜の静寂の中で自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
窓の外に目をやると、家々の屋根の上から無数の金色の線が淡く瞬いていた。
それは星明かりよりもかすかで、けれど確かに生きている魂の光だ。
寝台を降りると、部屋の隅の鏡が目に入る。
闇のせいで色は分からないが、そこに映る瞳はもう、長年見慣れた琥珀色ではないのだろう。
小さく息をつき、身支度を整えたアイラは音を立てぬように扉を開けた。アルゴとルードの寝息が遠くに聞こえる。二人を起こす気にはなれなかった。
外は、不気味なほど静まり返っていた。
風すら止んで、まるでこの町に生きているのは自分ひとりだけのよう。
それでも家々からは、細く揺れる金の糸が伸び、夜の空気に淡い光を落としている。
(自由を手に入れたはずなのに……)
足を動かしながら、アイラは思う。
役目を放棄して、ようやく自分を生きられるはずだった。
でも、先の見えない不安が時折、どこからともなく顔を出す。
目の色は変わり、そしてこの奇妙な糸が見えるようになった。それが何を意味するのかも分からないまま、謎だけが増えていく。
アルゴとルードのように前を向いて笑うことは、今のアイラにはまだできないだろう。
やがて、視界の先に白い影が浮かぶ。
昼間、太陽の光を受けて眩しく輝いていた神殿が、今は闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
アイラは神殿前の広場にある古いベンチに腰を下ろし、闇夜に瞬く金の糸を見上げる。
神殿からも無数の線が立ちのぼり、天へと消えていた。
「神殿の中……こんなにたくさんの人がいるんだ」
誰に言うでもなく呟く声は、夜気に溶けていった。
その時――、
遠くから、かすかな車輪の軋む音が聞こえてきた。
静まり返った町に、不自然なほどはっきりと響く。
アイラは身を低くして近くの木陰に身を隠す。
やがて通りの向こうから、数人の男たちが現れた。
台車を押しながら、何か重そうなものを運んでいる。
木の影からそっと顔を覗かせた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
荷台の上には、人の形をしたものが横たわっていた。その身体から見覚えのある、金色の糸が伸びている。
「……人を、運んでるの……?」
男たちの姿が神殿の門の前で止まる。
月明かりに照らされたその瞬間、重い扉がゆっくりと開いた。
そこから現れたのは、見覚えのある男、神官長だった。白い法衣をまとい、金糸の刺繍が夜の光を反射して淡く輝く。
「ご苦労さまです。……今日はずいぶん多いですね」
神官長の声は柔らかく、まるで優しく労うような響きだった。だが、その笑顔はどこか貼りついたように動かず、目元だけが空ろに笑っていた。
「えぇ、今日も恵みがありまして」
男たちは恭しく頭を下げる。
台車の上のそれが、微かに揺れた。
「では、どうぞ中へ。夜は冷えますからね」
神官長が穏やかに言い、扉の奥を手で示す。
男たちは無言でうなずき、台車を押して神殿の中へと入っていった。
扉が閉まる直前、中からかすかに祈りとも呻きともつかぬ声が漏れきこえた。
アイラの胸がどくんと鳴る。
(……なにをしてるの、あの神殿で)
気づけば足が勝手に動いていた。
扉の脇にある細い通路を抜け、神殿の裏手へ。
夜風が冷たく肌を刺す。
月の光が石畳を白く照らし、彼女の影を長く伸ばした。
神殿の壁をそっと伝いながら、開いている窓を探す。そのとき、どこからかかすかな歌声のようなものが聞こえてきた。
祈りのような、けれどそれはどこか歪で、不気味な旋律を帯びている。
(中で……何が行われてるの?)
アイラは小窓の下にそっと手をかける。
触れた石は夜気で冷たく、体の芯まで冷えるようだ。
指先に力をいれ、ほんのわずかに窓を押し上げる。
かすかな軋みの音がして、アイラは慌てて息を止めた。
(……聞こえてない……よね?)
中からは、先ほどの祈りの旋律が続いていた。
けれど耳を澄ませば澄ますほど、それは祈りと呼ぶには不気味すぎた。
人の声が複数重なっているのに、調子は乱れ、
ところどころ呻きや悲鳴のような濁りが混じっている。
その音が、ぬめるように石壁を伝って外へ滲み出てくる。アイラの背筋に、冷たいものが静かに這い上がった。
ゆっくりと窓を持ち上げ、中を覗き込む。
神殿内部は夜にも関わらず、まばゆいほど明るい。
だが、その明かりは松明でも燭台でもなかった。
――金。
金色の光が渦を巻くように、中央の祭壇を照らしていた。
(これ……全部、人の糸……?)
目を凝らすと、祭壇の上には無数の金の糸が絡み合い、まるで巨大な繭のようにうごめいている。
その中心には巨大な器があり、それに液体を注ぎ込んでいる神官たちの姿が見える。
白い法衣を纏う彼らは、みな無言で動き、目は虚ろでまるで魂を抜かれた機械人形のようだった。
その横では、さきほど運ばれてきた人々が床に横たえられている。
アイラは口元を押さえた。
吐き気すら感じる。
彼女の金の目が熱を帯びる。
(……あの液体は神の涙?)
信じたくない。
でも見てしまった。
アイラは震える手で窓枠を掴んだまま、目をそらせない。
悲鳴の様な声。
魂を抜かれる叫びだ。
痛みと絶望をごちゃ混ぜにした声が、光の中で蠢いている。
(こんなの……許せない……)
胸の奥の熱が、ゆらりと灯った。
怒りか、恐怖か、自分でもわからない。
「……誰だ?」
神殿の奥から低い声が響いた。
アイラは反射的に窓枠から飛び退き、建物の影に身を押しつける。
(やば……見つかった……?)
胸が激しく脈を打つ。
息を潜めながら、少しだけ顔をのぞかせると、神官が一人、金の糸をまとったままゆっくりとこちらへ歩いてきていた。
目は光を失い、まるで人形のようだ。
(逃げないと……!)
足が勝手に動き出す。
胸の奥で鼓動が大きく脈を打つ。
アイラは神殿の影を滑るように走り抜け、息を切らせながら路地の暗がりに身を隠した。
耳の奥ではまだ、あの祈りとも悲鳴ともつかぬ声が鳴り響いていた。




