第16話 金の糸
店主は愛おしそうに液体の入った小瓶を見つめ、ゆっくりと蓋を開けて一口含んだ。
その瞬間、恍惚とした笑みを浮かべたが、その笑顔はどこかぎこちなく、瞳の奥から理性の光が消えていた。
生気だけを抜き取られた人形のような、静かな狂気がそこにあった。
「……アイラが言っていたとおり、あの液体やばそうだな」
アルゴの小さな呟きに、ルードも無言で頷いた。
この町で神の涙をどれほどの人が常用しているのだろう。
今は手に入りにくいとはいえ、店主のようにおかしくなってしまった者が何人もいるはずだ。
それは、この町に限ったことではないだろう。神の涙が流通してしまった土地では、同じことが起きているのかもしれない。
アイラは店主に一歩近づき、小さな手を差し出して無意識に触れた。
その瞬間、頭の中でまた、あの叫び声が轟く。
怒り、嘆き、悲しみが無数の声となり渦を巻いて押し寄せ、混乱が全身を駆け抜けていく。
「——っ!」
鳴り響く叫びがようやく遠のき、閉じていた目を開けると、店主の身体から金の糸が見えた。
それはケール町の鉱山で見た光景とは違い、一本ではなく、無数の糸が複雑に絡み合いながら天へと伸びている。
胸が締めつけられる。息が苦しい。
アイラは衝動に突き動かされるように店の外へ駆け出した。
通りには人が行き交っている。
だが、見える——糸が。
一本の者もいれば、何十にも絡まり、まるで網のように天へと伸びる者もいる。
「おい、大丈夫か?どうした?」
背後からアルゴの声がした。
振り返ると、彼の身体には糸が一本も見えない。
そして、店の中からこちらを心配そうに覗くルードにも、同じく何も見えなかった。
(アルゴとルードには糸がない……それって、役目を放棄したのと関係がある?)
目を凝らすほどに、周囲の人々の糸はより鮮明に見えてくる。まるで誰かがその糸を通して人々を操っているかのようだ。
「アイラ、目の色が……」
アルゴの低い声に、アイラははっと顔を上げた。その表情は驚愕と、ほんの少しの恐れを含んでいる。
「目?」
アイラは慌てて衣嚢を探り、小さな手鏡を取り出して覗き込む。
そこに映ったのは、母親譲りの温かみのある、見慣れた琥珀色ではなかった。
太陽の光をそのまま閉じ込めたような、強く輝く金色の瞳が、彼女自身を見返していた。
「……鉱山でおかしくなった時も、その色になってた」
アルゴの言葉に、アイラは鏡を握る手を強く震わせる。あの時も、今のように光の糸が見えていた。
その時、背後からルードがゆっくり近づいてきた。
彼の表情は笑っているようで、どこか硬い。
「金の瞳……まさか、君は——」
言いかけたルードは、すぐに目を伏せて誤魔化すように笑った。
「いや、なんでもない。……今日はもう、店の仕事はこれで十分だ」
ルードの声にはいつもの軽さがなく、ほんの一瞬その瞳に戸惑いがみてとれた。
店主はまだ、空になった小瓶を握りしめたまま、焦点の合わない目で鍋をかき混ぜている。
その姿に言いようのない寒気を覚え、アイラは小さく息を呑んだ。
「……行こう」
アルゴが低く言う。
ルードも頷き、三人は静かに店を後にした。
外に出ると、昼の光が強すぎるほど眩しかった。
だが、アイラの視界には光と共に糸があふれている。
通りを行き交う人々の身体から、細い金色の糸が天へと伸び、それは風に揺れひとつひとつが微かに脈動していた。
「何かが……空の上にいる。糸が全部、そこへ伸びてる」
アルゴが彼女を覗き込み、眉をひそめる。
「空に、だと? 何も見えねぇが」
「鉱山で見た時より、はっきり。糸が……人を引っ張ってるみたい」
アルゴとルードは短く息を呑み、しばらく何も見えない空を見上げていた。
鉱山の人々も、神殿の巨大な扉に刻まれていた金色の紋章も、糸は一本だけだった。
けれど、この町の人々からは何本もの糸が絡み合い、複雑に天へと伸びている。
その光景に、アイラは息を呑んだ。
「なぜ……この人たちはこんなに糸が多いの?」
まるで、誰かが彼らを何重にも縛りつけているように見えた。
糸が揺れるたび、金色の光が街の空気に滲み、全てを覆っていく。
(もしかして……神の涙が、関係してる?)
そう思った瞬間、あの叫び声がまた頭の奥で微かに響いた。
誰かが苦しそうに――「助けて」と訴えている。
アイラは胸を押さえ、震える唇をかみしめた。
金色の瞳に映る街は、美しくも歪んで見えた。




