第15話 叫び
次の日になっても、アイラの耳にはあの叫びが残響のようにこびりついていた。
昨日、神の涙の瓶に指先が触れた刹那、頭の奥に響いた誰かの叫び。
金色に光る美しい液体のどこに、あんな痛みが潜んでいるのか。
考えようとするたび、胸の奥がひやりと冷えた。
「今日はさー、知り合いの店に商品を卸しに行くから手伝ってね!」
明るい声が思考を断ち切る。
見上げるとルードが朝の陽光を背に、いつになくしゃきっとした格好で立っていた。
柔らかい赤髪も今日はきっちりとまとめられていて、まるで別人のようだ。
「おい、俺らをこき使いすぎだぞ」
アルゴがスプーンを置いて、片眉を上げる。
「いいじゃんいいじゃん!ちゃんと報酬は払うんだし」
ルードはいつもの調子で軽く笑うと、椅子を引いて腰を下ろし、テーブルの上に置かれたお品書きを手に取った。
指先で紙の端をとんとんと叩きながら、どれにしようかと真剣に悩むその姿はまるでこれから働く気などまったくないように見えた。
アイラは二人のやりとりを聞きながらも、どこか上の空だ。
食堂には次第に人が増え、朝のざわめきがゆっくりと広がっていった。焼きたてのパンとスープの香りの中で、商人たちはそれぞれの卓に腰を下ろし、軽い世間話を交わしている。
その中で、耳に引っかかるような会話が聞こえた。
「ケール町の鉱夫たちが、何人か仕事を放棄したらしい。前代未聞だ」
「俺も聞いた。土砂崩れのあとから様子が変だってさ。採掘が止まってるらしいから、そのうち金の値も上がるぞ」
「仕事を放棄……」
ルードが小さく呟き、ちらりとアイラに視線を向けた。
その言葉に、アイラの心臓がどくりと跳ねる。
—鉱山で見た、あの光景。
光の糸がぷつりと途切れ、正気を取り戻した鉱夫たち。
スプーンを握る指に力が入りすぎ、金属がわずかに音を立てた。
だが、周囲の商人たちはそんな二人の様子にも気づかず、楽しげに話を続ける。
「ケールの連中に神の涙でも飲ませりゃいいんだ。眠気も吹っ飛ぶし、仕事にも精が出る」
「あぁ、俺も毎日飲みたいくらいだよ。今はあまり手に入らないのが惜しいな」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で叫び声が再び鮮明に響く。
——ヤメテ。
—タスケテ。
金色の光がまぶたの裏にちらつき、胸の奥がずきりと痛んだ。アイラはたまらず両手で耳を塞ぐ。それでも、あの声は消えない。
泣き叫ぶような、かすれた悲鳴が頭の奥で何度も反響していた。
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「今から行くところの店主はね、昔からの取引相手なんだ。料理の腕は抜群だよ」
ルードは軽快な足取りで、アイラとアルゴを連れて石畳を進んでいく。
ルードは両手いっぱいに大きな袋を抱え、ちらりとアイラの顔を覗き込みながら、心配そうに眉を下げる。
「宿屋で休んでてもよかったんだよ? アルゴがその分がんばるしさ」
「は?」
その言葉に、すかさずアルゴが不満げに眉を吊り上げた。彼もまたルードよりひとまわり大きな袋を肩に担ぎ、足取りはやや重そうだ。
アイラはそんな二人を見て小さく笑い、手に持つハーブの束を抱え直した。
「平気だよ。身体を動かしてた方が気が紛れるから」
鉱山で起こったこと、そして触れた瞬間に頭の奥で響いた叫び。
自分の役目を放棄してからというもの、ここ数日の出来事は目まぐるしいくらいだ。
でも、分からないことは考えたってしょうがない。考え出すと頭が重くなり、足取りまで鈍る気がして、アイラは首を振る。
(……今は考えても仕方ない。みんなに迷惑をかけるだけだ)
そう自分に言い聞かせながら、彼女は前を向く。目の前には、陽光に照らされた市場の通りと、お目当ての店が見えてきた。
ルードが立ち止まった先には、木製の扉に金の取っ手がついた洒落た店があった。
「ここ、金のスパイス亭。シチューは絶品だよ」
軽くノックして扉を押すと、香ばしい肉とバターの香りが一気に鼻を抜けた。
しかし店内の空気はどこか重い。カウンターの奥では、男がひとり鍋をかき混ぜていた。
「おーい、店主!調味料もってきたよー」
ルードに「店主」と呼ばれた男は、鍋を一点に見つめ、無精ひげの顔は青白く、目の下の隈が深い。
「……あぁ、お前か。助かる……切れかけてたんだ」
声はかすれ、手元は微かに震えている。
「どうしたんだ?具合でも悪いのか?」
ルードが心配そうに覗き込むと、男は薄く笑った。
しかし、その笑みはどこか狂気めいていて、目は焦点が定まらない。
「いや、むしろいつもより元気だ。寝なくても平気なんだよ、最近は……神の涙を飲んでいるからな」
「……神の涙」
店主は嬉しそうに頷き、厨房の棚から見覚えのある小さなガラス瓶を取り出した。
瓶の中では、金色に輝く液体がゆらゆらと揺れている。その光は美しくもあり、どこか不穏な空気を帯びていた。
「あ……」
思わず息を呑むアイラに、アルゴもルードも視線を合わせ、無言のままその異変を見守った。
店主の瞳は輝きを増し、しかし同時にどこか痛みに満ちている。
「これを飲めば、もう眠らなくてもいい……集中できる……ずっと……」
その言葉に、アイラは小さく身を引き、指先が震えた。
胸の奥で、昨日のあの叫びが再び鳴り響く。
美しい金色の液体の向こうで、何かが確かに、叫んでいる。




