第14話 神殿と神の涙
翌朝—
アイラとアルゴは、ルードからの頼みを受けて、薬草の納品先である神殿へと向かっていた。
白く艶めく大理石で造られたその神殿は、朝の光を受けて淡く輝き、まるで雲の上にでも建っているかのように荘厳だった。
神殿の前には長い列ができており、仕事に向かう前の人々が、祈りのために扉が開くのを待ち侘びている。
「……すごい、人が多いね」
アイラは思わず見上げながら呟いた。
「私の町にも神殿はあったけど、こんなに大きくはなかったな」
彼女の脳裏に浮かぶのは、生まれ育ったミリアの小さく素朴な神殿。
あの頃は役目をこなすことしか頭になく、神殿のことも記憶が朧げだ。
「ここは交易の要だからな。王都の神殿に匹敵する規模だ」
アルゴは腕を組みながら淡々と言い、列に並ぶ信徒たちを一瞥した。
その表情はどこか退屈そうで、つま先で石畳を小刻みに鳴らしている。
アイラはふと、神殿の扉に目を向けた。
神殿の巨大な扉には、金色の紋章が刻まれている。その紋章は、人の姿を象った像の上から、細く伸びる糸のような線が描かれ、まるで誰かの行動や意志を繋ぎ止めているかのようだった。
「……これ……」
アイラの胸に、鉱山での光景が鮮明に蘇る。
身体が熱く沸騰するような感覚に襲われ、人々の身体から天に向かって伸びる光の糸の映像が頭の中で再生された。
その記憶に、アイラの心はざわめき、息が詰まるような感覚に包まれた。
「どうした?顔が真っ青だぞ?」
アルゴはアイラの異変に気づき、彼女が見つめる扉の紋章に目を向けた。
「……確か、人から光る糸が出てたって言ってたよな。……もしかして、これのことか?」
アイラは言葉にせず、ただ小さく頷いた。
胸の奥で再び微かに熱が巡り、光の糸の記憶がじわりと意識に触れる。
その時、石の擦れる音と共に神殿の扉がゆっくりと開かれた。
人々は列を無視するかのように我先にと中へ吸い込まれていくが、アイラはその場から動けずに固まってしまう。アルゴはそれに気づき、そっと彼女の腕を取って引き歩みを促した。
「薬草を届けたら、すぐにここを出るぞ」
アルゴは辺りを見渡し、薬草の束をしっかり持ち直すと、神官の姿を探す。
少し進むと、人々が一人の白いローブをまとった老神官の周りに列を作っているのが見えた。
「神官長様、今日は神の涙はございますか?」
「私も神の涙をいただきたいのです!」
どうやら、今朝神殿に並んでいた者たちは、すべてこの神の涙を目当てに訪れていたらしい。
アルゴは眉をひそめ、怪訝そうな顔で列を横目に見ながら、人混みをかき分けて司祭のもとへと進む。
「おい、頼まれた薬草だ」
まるで商人らしくない態度で薬草の束を、先ほど神官長と呼ばれていた男の前に差し出すと、彼は目を大きく見開き、驚いた表情でアルゴとアイラを交互に見つめた。
やがて神官長は列をなしていた人々に柔らかい声で告げる。
「皆様、申し訳ありません。本日は神の涙の入荷はございません。入荷次第、改めてお知らせいたします……」
その後、彼は視線をアルゴに向け、穏やかに促した。
「商人の方、こちらへお越しください」
礼拝堂の裏手、少し湿った冷気の漂う通路を抜け、アルゴとアイラは神官長の執務室へと案内された。
神官長はアルゴの手にある薬草を確認すると、満足そうにうなずき、数字の書かれた紙を差し出す。
「ルード商会にはいつも良質な薬草を提供していただき、心より感謝しております」
「そうか、伝えとく」
アルゴはぶっきらぼうに返事をし、用は済んだとばかりに扉に手をかけた。その背後で、神官長が思い出したように声をかける。
「あ、そうでした。これをお受け取りください」
彼がアルゴに手渡したのは、小さなガラス瓶に入った透明な液体。
光の加減で淡く金色に輝いている。
「なんだ、これは?」
「ご存じないのですか?神の涙ですよ」
アルゴが知らないと言うと、神官長は信じられないという表情を浮かべる。アルゴは表情を変えず、合わせるように答えた。
「ああ、神の涙か。先ほど入荷はないと申していたのでな」
「少量ならご用意できますが、全員分はありません。取り合いにならぬよう、まとまった数が手に入った時に皆様にお渡ししているのです」
アルゴは瓶を乱暴に衣嚢に放りこみ、アイラの腕を引っ張ると、そのまま執務室を後にした。
神殿を出ると、先ほどの喧騒はすっかり消え、人々はそれぞれの仕事へと足早に向かっていった。石畳に反射する朝の光が、整然と歩く人々の足を照らす。
ルードのお使いを終え、宿屋に戻ったアイラとアルゴは、一階にある食堂の片隅に腰を下ろした。
朝の喧噪を終えた食堂には、紅茶を片手に談笑する商人たちが数人いるだけで、どこか穏やかな空気が流れていた。
二人が一息ついたところで、まるで今起きたばかりのような顔をしたルードが現れた。
「お仕事ごくろうさまー。いやあ、助かったよ」
彼の赤い髪は寝癖で右にも左にも跳ね放題で、アルゴは思わずため息をつきながら、神官長から渡された紙と、衣嚢に入っていた瓶を取り出した。
「あら、神の涙じゃない! お兄さん、ついてるね!」
紅茶を運んできた宿の女将が、ルードの手にある小瓶を見て目を輝かせた。
「これ、今すごく貴重なんだよ。飲めば眠気が吹き飛んで、一晩中でも働けるんだってさ。ほんと助かるよねぇ」
女将は他の客の注文を取りにその場を離れるのを待って、アイラは周りを気にしながらそっと身を寄せ、ルードとアルゴに小声で尋ねた。
「……神の涙ってなに?」
「最近、流行ってるんだ。飲めば痛みも疲れもなくなって、どんな怠け者でも勤勉になるって噂さ。商人には出回ってないから、たぶん神殿と王家がなんかやってんだろね」
ルードは瓶をつまみ、窓から差し込む光に透かしてみせる。
中の液体は金色とも銀色ともつかぬ光を放ち、まるで生きているかのようにゆらめいていた。
「すごい色……」
アイラは無意識のうちに手を伸ばした。
指先がガラスに触れた瞬間——
叫び声がアイラの耳に響いた。
女の悲鳴のような、それでいて人ではない何かの叫び。
脳の奥に直接響くような感覚に、アイラは反射的に手を引っ込め耳を塞ぐ。
「アイラ!?」
アイラは荒い息を吐きながら、自分の手を見つめた。触れた指先が、かすかに熱を帯びている。
「……いま、誰かの……声が、聞こえた……」
ルードは怪訝そうに眉をひそめ、小瓶の中を覗き込んだ。
液体は、まるで何事もなかったかのように、ただ静かに光を反射している。
「……これ、なんか……嫌な感じがする」
アイラは小さく息を呑み、視線を逸らした。
ほんの一瞬だけ、指先を通して何かが流れ込んだような気がしたのだ。
耳の奥で、かすかな叫びのようなものが聞こえた気もする。
その言葉に、ルードもアルゴも動きを止めた。
テーブルの上の小瓶だけが、光を弾いて、静かに三人の沈黙を映していた。




