第9話 覚醒
昨日から降り続いた雨は鉱山へと続く道にいくつもの濁った水たまりを残し、馬車の車輪に絡みつく泥は、まるで「これ以上進むな」とでも言いたげに馬車の進みを鈍らせる。
やがて、遠くに見えていた鉱山の輪郭が掴める距離になると、湿った土のにおいに混じって焦げたような匂いが鼻を刺した。
空には黒い煙が幾筋も昇り、地面がまだかすかに震えている。
「……やっぱり、鉱山だ。崩れてる」
ルードが馬の手綱を握りしめる手に力を込めた。
彼の顔からは、いつもの軽さが消えていた。
鉱山の入口は、土砂と岩に塞がれ、まるで大地そのものが口を閉ざしたように沈黙している。
粉塵がまだ空中を漂い、ほんの少し前に起きた惨事であることを告げていた。
だが、そこにあったのは異様な静けさだった。
崩落現場の周りには、数十人の人々が集まっている。けれど、誰も救助に駆け出そうとはせず、岩をどかす者もいない。
彼らはただ地面に膝をつき、両手を組み合わせ、祈っていた。
「……誰も、救助しないのか!」
アルゴが馬車から飛び降り、祈る人々に声を張り上げるが、その声が丘に反響しても誰ひとりとして顔を上げない。
「救助……?」
一人の女が顔を上げ、ぽつりと答える。
「私たちは祈るのが役目です。助けるのは、救助の役目を持つ者が来てからです」
その言葉を聞いても、アイラは意味が理解できなかった。
周囲を見渡しても、誰も動かない。
誰も叫ばない。
ただ、雨に溶けていくような祈りの声だけが響いていた。
入口の前では、監督官らしき男が腕を組み、冷たい視線を落としていたが、その服には泥ひとつついていない。
「なんて事だ、明日から掘れなくなってしまうじゃないか!」
そう言い放つ声に、祈る人々は深く頭を垂れた。
アルゴは堪えきれず、祈る群衆をかき分けて前に出る。
「ふざけるな……」
彼が岩の前に立つと、手をかざし、低く息を吐いた。掌の前で空気がうねり、小さな風の渦が生まれる。渦は音を立てて膨らみ、岩の表面を削るように吹きつけた。
「アルゴ……魔法、使えるの?!」
アルゴは振り返らず、短く笑う。
「まあな。勇者様を支えるには、これくらいできねぇとな」
彼の額から汗が一筋、泥に落ちる。
その音が、祈りの声の静寂に溶けて消えた。
アルゴの風が岩を削り、細かな砂が空中に舞い上がるが、崩落した岩の量は想像以上で彼の力ではほんの表面しか動かせない。
すぐに風が弱まり、再び静寂が戻る。
「……無理だ。岩が多すぎる」
アルゴが歯噛みする横で、祈りの声が再び高まっていく。
その声は、命を願う祈りというより、自分の役目を果たすための儀式のようだった。
アイラはその光景に、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。怒りとも悲しみともつかない感情が喉の奥につかえて、息が苦しくなる。
目の前で助けられるかもしれない命が、土の下に閉じ込められている。
なのに、誰も動かない。誰も叫ばない。
ただ祈りの声だけが、冷たい空気に溶けていく。
拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。
それでも痛みを感じないほど、胸の奥が焼けつく。
「……ねぇ、なんで誰も助けないの?」
アイラの声は震えていた。
叫びではなく、かすかな問い。
だがその声は、静まり返った丘の上で異様に響いた。祈っていた者たちの何人かが顔を上げ、怯えたようにアイラを見つめる。
「ねぇ、あの中に人がいるのに……なんで?」
アイラは立ち尽くす祈る男の肩を掴んだ。
男は怯えたように顔を上げる。
「お、おれの役目は祈ることだからだ……!」
その瞬間、アイラの中で、何かが――ぷつりと、弾けた。胸の奥で押し込めていた何かが、堰を切ったように溢れ出す。
心臓のあたりが焼けるように熱い。
熱は血管を駆け抜け、指先の一本一本にまで届くと、身体の内側から世界が反転していくような錯覚に襲われる。
音が、消えた。
風も、祈りの声もすべてが遠のいていく。
ただ、自分の鼓動だけが、世界の中心で鳴っていた。
鼓動がリズムを刻むたびに、何かが剥がれ落ち、何かが目覚めていく。焼けつくような熱が、胸から喉へ、腕へと駆け抜ける。
熱が静まったとき、閉じていたまぶたの裏に光が差し込んだ。アイラは恐る恐る目を開くと、世界はもう、違っていた。
祈る人々の身体から、細く淡い光の糸が伸びている。それは皆、同じ方向へ、天の見えない一点へと吸い上げられていた。
まるで、“鎖”のように。
「……これ、なに……?」
アイラは光の眩しさに目を細めると、目の前に広がる現実とは思えない光景に、ただ何をすべきかもわからず、恐怖と困惑で飲み込まれそうになった。
「アイラ?」
アルゴの声が遠くで聞こえる。
けれど、返事をしようとしても声が出なかった。
ただ、その光の糸だけが、どうしようもなく気になって仕方がなかった。




