バイオロジー・オブ・ザ・デッド(Biology of the Dead)
画像に写っているのは若いアメリカ人、眼鏡をかけ、汗ばんだ前髪が額にかかっている。
「……うまく録画できてるかな? オーケー、始めよう、僕はイースト、ハーバート・イースト。
プロビデンス大学の学生で脳科学の研究者だ。
外では死人どもがうろつき回ってて、僕は一人この研究室に閉じ込められてる。
ここまで来るにもすんげー色々あったんだけど、そこは割愛。
録画の目的はそこじゃないし。
……世界がこんな風になっちゃったから、こんな録画を残しても何にもならないかもしれないけど、それでもやめられないんだ……研究することと、記録することはやめられない、たぶん学術の徒の逃れ得ぬ業ってやつなのかもね。
……まあいいや、本題に戻ろう。
脳科学って大きく分けるとソフトウェア的なアプローチとハードウェア的なアプローチがあるんだけど、僕がやっていたのは主にハードウェアの方、脳の中の神経細胞がどんな風に情報をやり取りするのか、とか、脳内で生成される化学物質が精神や思考にどんな影響を及ぼすのか、とか、そんなことを研究してる。
あ、どんな人がこれを見るか分からないから、なるべく分かりやすく話すつもりだけど、時々、専門用語が混じっちゃうのは許してね。
それと、細かい研究内容は、これと別にメモとして紙に書いて残してあるから、そっちを参照して……世界がこうなっちゃうと馬鹿にできないよね、紙とボールペン。
記録の保存て意味では最強かも……いや、石板の次ぐらいかな」
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
「さて、僕も一応は科学者の端くれなんで、世界がこんな風になった原因について、仮説を立て、検証してみた……原因は未知の細菌か化学物質、という可能性が最もデカいんだけど……
「地獄の蓋が開いたから」って仮説でも、現在の僕には否定する方法がない、なんせ時間も機材もあまりにも足りないからね、細菌学の授業ももっとマジメに出とくんだったな……。
要は原因については、「分からない」ってことが分かったってこと」
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
(画面の中、若いアメリカ人は白衣を着ている)
(着ている白衣の胸から腹にかけて、赤黒い染みがいくつか付いている)
「……さて、ここからが一番伝えたいことになる。
僕は死人を一人捕まえて、頭を開いてみた。
……うん、倫理学的な側面からの批判は甘んじて受けるよ、でも今や世界はこんなだし、科学の進歩には、時に大きな冒険や犠牲も必要じゃない?
とにかく頭を開いてみて、あちこち観察してみた結果、すんごく興味深いことが分かった。
心停止によって血流が絶たれてるから、脳細胞は速やかに壊死してるはずなんだけど、動いてた……いやマジで。
で、血流がないにもかかわらず、脳全体は活動してる、という状況の中で、大脳の新皮質、特に前頭葉の部分には、著しい機能低下が見られたんだ!
あ、部位別の細かいデータは例によって別紙を参照して。
で、前頭葉なんだけど、ざっくり言うと大脳のだいたい真ん中あたりからから前の部分。
で、人間の場合はこの前頭葉が大脳皮質全体の三分の一を占めてる。
大脳の最も前方に位置する部分で、人間の思考や判断、感情の制御、運動の計画・実行、言語機能、社会性の保持などなどなど、高度で人間らしい活動を司る脳の司令塔、それが前頭葉ってわけ。
特に前頭前野は、大脳の約30%を占め、目標設定や計画、感情のコントロール、感情の抑制など、複雑な高次脳機能を担ってるんだ。
で例の死人たちは、その大事な大事な前頭葉が、どういうわけか機能障害を起こしてる。
動き回る死人どもが喋れず、道具も使えず、親しい人も認識できない、それらの原因は概ねこれ。
で、思いついたんだけど、この前頭葉の機能低下をなんとかできれば、知性を保ったまま、生きた死人になる事ができるってこと!
すごくない?
可能性としては、これを応用すれば不老不死にも……いや、不死ってのはおかしいか、とにかく知性を保ったままで、これ以上は死なない肉体を手に入れられるかもしれないんだ!
聴いてるかい? アルフレッド・ノーベル?」
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
「すごくいい気分だ、いくつかあたりをつけてた薬品のうちの一つがドンピシャだった。
実験体に投与してから、すぐに効果が現れた。
おそらくは事前の投与でも効いてくれるはずだ。
問題はどうやって投与するかだ……実験体には直接注射したんだけど、自分に投与するとなると……うん、経鼻投与にしようと思う、要は鼻の粘膜から薬品を吸収させる方法で、成分は血流に乗って、最短の距離で脳に届く。
……これで上手くいくはずだ、うん、きっと上手くいく」
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
「……効果は分かってるんだけど、自分で試すとなるとやっぱり勇気がいるね……まだ少し迷ってる。
……くそっ!」
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
「……いよいよ食料の備蓄が尽きてきた。
覚悟を決めて実験を行うべきかもしれない。
けど、こんな状況で電気がまだ来てるってのも凄いよね、大規模災害時用のバックアップシステムか何かが動いてるのかも……まあいい、決めた、今夜だ、今夜やるよ……もし失敗したら、録画はここでおしまい。
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
(画面の中、彼の顔はひどく青ざめている)
「……やあ、成功したよ。
見える? 体温計で測った今の僕の体温は華氏64°F、摂氏で言うと約18℃……つまり、室温と一緒だ。
喋り方でも分かるかもしれないけど、気分はあまり良くない、っていうか最悪だ。
二日酔いより酷い……頭が痛い……身体のあちこちも……ひどく強張って……寒気も酷い。
それよりも最悪なのは餓えだ。
なんなんだよこれ……。
餓えの苦しみに比べたら、全身の痛みなんでバックグラウンドノイズみたいなもんだ。
(彼は両手で顔を覆う)
……なんでも良いから口にしたい。
(彼は両手で机を叩き始める)
食いたい、食いたい、食いたい!
食いたい!
食いたい!!
…………………………………………。
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
(画面の中、彼の顔の、口の周りが赤黒い汚れにまみれている)
「空腹をどうにかするために、保存食を食べてみた……けど、まるで駄目だった、身体が受け付けない。
おそらくは生理機能が変化してるんだ……。
唯一食欲が湧いたのは生の肉、それも新鮮なやつ。
だから獲ってきた……何をだって?
ごめん、それは秘密……とにかく獲ってきた肉を生で食ってみた……酷い味だ……ちゃんとした味覚が残っているのが恨めしいよ……。
それでも口に詰め込んで、無理やり咀嚼して飲み込んだけど……うっ
(カメラのフレームの外、激しく嘔吐する音)
(彼は再びフレーム内に戻ってくる)
……とにかく、生の肉で、とりあえず餓えはしのげることはわかった……また獲ってこなくちゃ……。
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
やあ……身体の強張りはマシになったけど、全身の痛みは増すばかりだ……。
このままじゃ、研究もままならないよ……マジで何か対策を考えなくちゃ……。
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
「薬品のストックの中から、医療用のオピオイドを見つけた、ダメ元で試したら、うまいこと効いてくれたよ。
おかげでだいぶ気分がいい……。
けど、ストックはほんの僅かだ……。
こうなる前は、契約してる医薬品卸会社に電話を一本かければ、すぐに持ってきてくれたからね。
何か考えなきゃ……。
(彼は何かに気付いたように頭を上げる)
オピオイド……そうか。
(彼は手を伸ばし、録画を止める)
(画面の中、彼は手づかみで灰色の塊を口にしている)
(彼はくちゃくちゃと咀嚼音を響かせながら話し始める)
「やあ、見つけたよ、確実に手に入るオピオイドを……しかも百パーセントナチュラルだ。
人間の体内では内因性オピオイドか生成されてる……場所は脳、脊髄、副腎髄質等だ……
それらの体組織を直接経口摂取してどれくらいの効果が得られるか不安だったけど……良く効いてる……スゴく……ハイだ……
また……獲って来なくちゃ……」
(彼は立ち上がり、唸り声をあげながら画面の外へ消える)
(録画はここで終わっている)