第十八話 セレーナの異変(シルフリードの視点)
この回では、残虐表現が含まれていますので、ご了承下さい。
すっかりお月様が昇り、気持ちの良い夜空で俺は、セレーナの小さな手を取り家路を歩いていた。俺は聖なる明かりをくるくる回しながら、横目で奴を見る。
さっきから俺をずっと睨んでいるセレーナの兄貴が超うざい。あれが俗に言う『シスコン』ってやつなのか。
いつまでも、終わったことをネチネチ言ってくる陰湿な奴が兄貴だなんて、セレーナも大変だと思う。
今日の俺は、セレーナと再会してから、心の中がざわつきっぱなしだ。
あの時、セレーナが川に落ちた時は、心臓がぎゅっと痛くなって取り乱すほど慌ててしまった。もしかすると、セレーナの兄貴も、こんな気持ちだったのだろうか……。だとしたら、悪いことをした。……言わないけど。
川で溺れるセレーナの苦しみを知った俺は、なんて馬鹿なことをしたと猛反省している。俺は、セレーナに苦しんで欲しいわけじゃなかったのに……。
「ん? シルフリード、どうかした?」
セレーナが首を傾げる。
「いや、何でもない」
俺は小さなこの手を壊れないように握り返す。
セレーナがセレーナの父親と再会したとき、俺は、妙な気持ちになった。俺たち精霊は『父親』というのは、存在しない。俺たち自然の精霊は、無自覚に発生した自然の一部だから。なので人間の子供が、親というものに甘える行為が、いまいちよく分からなかった。
でも、芹奈と気持ちが同化しつつある今、『甘えたい気持ち』が理解できた気がする。甘えられるというのは、孤独を抱えた奴にとって、温かいスープみたいなもんだ。冷たかった中身に温かなものが『満たされる』
満たされると気持ちがほわほわして、嬉しくなる。芹奈は、父親に抱きしめられて、幸せだったにちがいない。
俺も、誰かに心配されたい。誰かに迎えに来て欲しい。温かい何かに包まれたい。そんな願望が心の奥底で勝手に湧き上がっていた。
精霊の俺にはなかった気持ちや欲求。
多分俺は、セレーナのことがすごく羨ましいのだ。
俺ら三人がセレーナの家に辿り着くと、玄関先で、セレーナの母親と兄弟らしいのが1人立っていた。
「はぁ~、疲れた。お母さん、レオ、ただいま!」
セレーナが母親の元へ走り出した。
セレーナの母親は、すぐさまセレーナに抱きつき、声を震わせている。
「もう、心配させちゃって! この子ってば、全く悪い子なんだから!!」
「お母さん、心配かけてごめんなさい」
「もう、二度と危ないことはしないと約束してくれる?」
「はい、約束します! ごめんなさい」
母親が立ち上がると、セレーナの頭を優しく撫でた。
(セレーナ、嬉しそうだな)
そして兄貴の前に母親が立つ。
「ルカ、分かるよね? 歯を食いしばりなさい」
――なんか変だ。この母親から微かに悪意の匂いがする。あの女は、優しい母親じゃないのか?
母親が兄貴に平手打ちをした。
一度目は右頬、二度目は左頬を裏拳で思い切りぶん殴ったのだ。
――大人が子供を殴る……。しかも、容赦なく。
「ぐっ……!!」
あまりの強さにルカは、勢いよく地面に倒れてしまった。
《――この、役ただず!!》
俺の頭の中から、声が響く。誰の声なんだ?
「ゔゔっ〜〜!! いやだ、やめて!!」
セレーナに異変が起きた。ダンゴムシのように、小さくうずくまる。頭をかばい、体を震わせている。
俺の体にも異変が起きた。あまりの衝撃に思わず膝をついた。まるで、電気が体中を駆け抜けたようだった。突如、芹奈の記憶の断片が、映像になって俺の頭の中に一気に流れ込んできたのだ。
❇❇❇❇❇
《前世の映像》
見えてきたのは、この前、俺が行っていた地球だ。
――前世の芹奈が小さい。気分が悪いのだろうか、顔が赤い。
芹奈はフラフラと廊下を歩き、トイレの前で膝をつき、我慢できずに、床に吐いてしまっていた。
すると、廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえ、こっちに向かってくる。
『も~っ、臭い!! あんた、一体何してんのよ!! よくも廊下で汚いものをばら撒いたわね!!』
鬼の形相をした女が思い切り頭を殴ってきた。
『ゔっ!!』
頭を強く叩かれ、力なく嘔吐した上に倒れてしまった。
『げっ、汚ったない!! お前、吐いたのを戻せよ。床を舐めろよ、ほら!!!』
その女は、足で頭を踏みつけた。芹奈は、無抵抗なまま嘔吐物に顔を埋められる。
その女の顔は、まるで積年の恨みを持っているような、ひどく悪い顔をしていた。
『あの女さえいなきゃ、グズのお前なんか産んでなかったのに!!』
虫を潰すかのように、女は力を加減せず、怒りのままに足で背中を何度も踏んできた。
《ドス、ドス、ドス、ドス、ドス》
抵抗できずに何度も踏み続けられる。ただ、傍観している俺の感覚にも踏まれた背中の痛みが乗り移り、穴が開きそうなぐらいの激痛が走った。
『くそ、あの女!! 死ね、死ね、死ね、死ね、潰れて死ね!!』
芹奈が嘔吐物の上でひたすら耐えていると、奥の部屋から男が出てきた。慌てる様子もなく、こちらへ向かってくる。父親か?
『ねぇ、今、これが死んだら、誰が代わりにただ働きをするんだ? 使えるものは使うんじゃなかったのか?』
無表情で抑揚のない声。血の涙もない声。
『あ~あ、そうだった。怒りですっかり忘れてた~。この子がばばあになるまで使い潰さなきゃ。将来金にならないとこっちが困るしね』
機嫌を取り戻した女は、男と一緒に外へ出て行ってしまった。
しばらくすると、男一人だけ、戻ってきた。
男は財布からお金を取りだして、倒れている芹奈の上にお金をひらりと落とした。
『お前の事は同情も何もない。ただ、面倒なことは嫌いだ。帰ってくるまでに綺麗にしとけよ』
そして、再び出て行ってしまった。
汚れてしまった小さな体は、落ちて汚れたお金を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。壁に寄りかかりながら、一人、お風呂へと入っていった。
お風呂の中で、水が流れる音が聞こえる。その音に交じってすすり泣くような声が聞こえた。
暫くすると、バスタオルを巻いた芹奈がでてきた。息は荒く、とてもつらそうに。バケツと雑巾を持って嘔吐で汚れた床を拭きに戻る。
家には誰もいない。冬の季節だろうか? 家の中がとても寒く感じる。日が暮れて辺りは暗くなり、オレンジ色の明かりが一つだけ芹奈を照らす。
熱でフラフラになりながら、嘔吐で汚れた床を拭いていく。芹奈が、ポタポタと大粒の涙を落としながら、歌を口ずさんでいる。
(なにを歌っているんだ?)
なんの歌か分からないが、芹奈は、悲しい声で、繰り返し、同じ歌を歌い続けていた。
そこで、映像が途切れた。
*****
今、セレーナの身に起きている異変は過去のトラウマだろう。きっかけは、この母親が悪意をもって兄貴をなぐったことにある。
足で踏みつけていたのが前世の母親か。気持ちも同化しているからか、悲しみが半端ない。それに痛さとつらさがごっちゃになっている。こんなつらい過去があったなんて。
今、セレーナの周りには、冷気があふれている。
「なんで?……どうして、お兄ちゃんを……」
――そう呟くと、芹奈は豹変した。
また、明日のこの時間に…。




