9. 生命の魔法書
魔法使いが、魔法の使い方や理論を書き記したものを「魔法書」という。呪文の構成とか、魔法円の書き方とか、魔法書は魔法の教科書と言い換えてもいいかもしれない。わたしの家の地下室には、そうした魔法書がいっぱいある。すべて、わたしの前世が集めたものらしい。
「ここに、その魔法書はあった」
と、綾ちゃんに抱きかかえられた、ヴェステンが指差した先にあったのは、空洞。そこだけが、過去に本があったことを示す、隙間があった。
アルラウネをやっつけたわたしたちは、一度家に引き返した。ヴェステンの傷はすっかり消えていたけれど、傷を癒すために体力を消耗して、ぐったりしたまま。綾ちゃんとわたしは、体のあちこちに傷を作っていたし、なにより泥と埃まみれになっていた。
とりあえずシャワーを浴びて、軽い擦り傷を手当てする。傷の手当てをしながら、わたしは綾ちゃんに、魔法の話をした。信じてくれるかどうか、上手く説明できるかどうか分からなかった。あまりにも、荒唐無稽で、常識では考えられないような、馬鹿げた話。だけど、綾ちゃんは、少し驚きの混じった顔をしながら、でも、真剣にわたしの拙い話を聞いてくれた。
「あれは、ホントに正夢だったんだね」
話し終わった私に、綾ちゃんが言った。
「わたしが見た夢。わたしの手を引っ張った誰かは、あの緑色のお化けで、わたしを助けてくれた女の子は、トーコちゃん。そして、しゃべる猫はヴェスくん」
「わたしの話、信じてくれるの?」
恐る恐る、わたしが尋ねると、綾ちゃんはにっこりと笑って、頷いた。
「突然そんな話を聞いても、普通は信じられないけど、わたしはトーコちゃんが魔法を使うところも、あの緑色のお化けが笑うところも見てる。あれが全部夢だった、って思う方が無理があるよ」
「ごめんね、変なことに巻き込んじゃって」
「ううん、全然気にしてない、って言うか、魔法使いなんてステキじゃない? いいなぁ、わたしも魔法を使ってみたい」
目を輝かせながら、楽しそうに言う綾ちゃんの姿に、わたしは心なしかほっとした。ヴェステンは「綾の方が順応速度が速くて、助かるよ」なんて、わたしのことを笑う。きっと、魔法とか奇跡とか、そういう理論的じゃないものを信じたくないわたしと、ごく普通にそういうものを信じることが出来る綾ちゃんの、性格の違いがそうさせるんだろう。
傷の手当てが終わったところで、わたしは綾ちゃんを地下室に案内した。体力を消耗して動けないヴェステンを大事そうに抱える綾ちゃんは、地下室へ入るなり、今日何度目かの「すごい!」を連発した。確かに、わたしたちの背丈の倍もあろうかと言う本棚が立ち並ぶ光景は、驚きなしじゃ語れない。そして、一番奥のそのまた奥、他の本棚に囲まれた陰に小さな本棚が一つあって、そこに一冊分の隙間が空いていた。
「ここに、祝福されしものが、五百年の歳月をかけて完成させた、大魔法書があったんだ」
ヴェステンは、そう言って、隙間を指差した。隙間は、辞書一冊が入るほどの広さ。そこにあった本がどれだけ太い本だったかを想像させる。
「どうして、その祝福されしものの本が、ここにあったの? それって、変じゃない?」
わたしが真っ当な質問を繰り出すと、ヴェステンはしばらく黙って、遠い目をした。
「前のトーコが、祝福されしものから奪ったんだ。ヨハネスが書き記した本は、絶対の禁書。トーコは、ワルブルガの仲間たちと、一緒にヨハネスから魔法書を奪った。そして、ここに魔法の鍵をかけて保管していたんだ」
「禁書って、なあに?」
と、尋ねたのは綾ちゃん。綾ちゃんの腕に抱きかかえられたヴェステンは、少しだけ顔を上げた。
「絶対に紐解いてはならない本。特に、彼の書き記した本には、生命にまつわることが書いてあった。つまり、ヨハネスの魔法書に書かれた魔法を習得すれば、自分を含めた総ての生き物のの、生き死に、蘇生にいたるまで、意のままに操ることが出来る」
「どうして、それが禁書なの? 人の命を自由に出来るなら、もう二度と会うことが出来ない、大好きな人をあの世から呼び戻せるってことだよね? それって、すごくステキなことじゃない!?」
「トーコ、考えてもみなよ。たとえば、トーコが生命の魔法を使うことが出来るとする。そして、綾が病気に罹って死んじゃったとする。その時、トーコならどうする?」
「それは、決まってるよ。そんな魔法が使えるなら、すぐにでも綾ちゃんを助ける!」
「でもね、人が生きるか死ぬかっていうのは、全部運命なんだ。それに逆らうことは、誰にも許されない。たとえ、神さまでもね。自分の好きな人だけを助けて、自分の嫌いな人をこの世からみんな消してしまう。そんなことをすれば、世界の理はことごとく崩れ去り、世界はたった一人の、命を操る神によって支配され、混沌と恐怖の世界になってしまう。人の命って、誰かの都合で自由にしちゃいけないんだ」
「そっか……。そうだよね。たった一人の都合で他人の命を自由にすることは、いけないことだよね……」
「トーコ?」
わたしの顔が急に沈んだのを、ヴェステンは見逃さなかった。エメラルドグリーンの瞳が、怪訝そうにわたしの顔を覗き込む。わたしは、取り繕って笑顔に戻った。今はまだ、笑顔でいるべきだから、沈んでなんかいられないから……。
「何でもないよ。それで、その魔法書は今、どこにあるの?」
「分からない。ぼくが十三年の眠りに就く前までは確かにここにあった。でも、その後、トーコはキミに転生して、つい五日前までこの家は、空き家同然だった。もしかすると泥棒が入り込んだのかもしれないし、ぼくが眠りについた後、トーコが燃やしてしまったのかもしれない」
「つまり、なくしちゃった、ってことか。でもでも、そうしたら、持ち出した人が悪用するって可能性もあるんだよね」
「それは大丈夫。魔力の低い人や、綾みたいな普通の人には、生命の魔法は使えない。今、この世界で、高い魔力を持っているのは、トーコ、キミ自身と、祝福されしものの二人だけ」
「ワルブルガの魔法使いは? いるんでしょ、わたしと同じように魔法を使う人たちが」
わたしがそう問いかけると、ヴェステンはしょんぼりと視線を床に落とした。
「いない。みんな、十三年前に死んじゃった……」
今度は、ヴェステンの表情が沈み、なんだか思い出したくない過去を探り当てられたような顔をしていた。だけど、わたしはヴェステンのパートナー。そして、トーコの生まれ変わり。知る権利と義務がある。
それは、ヴェステンにも分かっているみたいだった。ヴェステンは、わたしに一冊の本を取り出すよう指示した。一番隅っこの本棚。そこには、魔法書ではない、古びた革のノートが並べられていた。
「ダイアリー」
表紙には、わたしも知っている言葉で、タイトルが示され、それが前世の書き残した日記であることに、わたしは気付いた。
十三年前。ワルブルガの魔女トーコは、魔女の使いヴェステンとともに、ヨーロッパ、アフリカ、アジアと、世界を巡りつつ、祝福されしものと戦っていた。追いつ追われつの長きに渡る戦いの日々。そんな戦いの中で、トーコは祝福されしものが、何らかの目的のために記した、魔法書を奪うことに成功した。その魔法書こそ、生命の魔法が書き記された本だった。しかし、魔法書を奪われた祝福されしものは、怒り狂い、最悪のトイフェルを呼び覚ました。
その名を「ブリーラー・レッスル」という。元は、ヴォーダンという神さまだったそうだが、憎悪に心奪われて、冬の国に堕ちた。禍々しい姿に生まれ変わった神さまは、まさに死神のようだった。
魔法書を奪い返されまいと、トーコは果敢にブリーラー・レッスルと戦ったけれど、ようやく死神を灰に変えた頃には、傷つき、力の殆どを使い果たしていた。
トーコが祝福されしものの魔手から逃れ逃れて、ようやくたどり着いた場所が、この「魔女の家」だった。周囲の森に結界を張り、隠れるようにひっそりと暮らし、傷が癒え、力が戻るのを静かに待った。
だけど、祝福されしものは、トーコの居場所をすぐに突き止めた。もう一度、ブリーラー・レッスルのような凶悪なトイフェルを呼び出されたら、トーコ一人では戦えないと感じた、ワルブルガは世界中から魔女たちを集めて、トーコの下に派遣した。
そうして魔法戦争が始まった……。
魔法戦争は、それに関係のない一般の人たちを巻き込まないように「フェルド」という魔法でつくられた擬似的な空間の中で行われた。そのため、そんな戦争があったことなんて、誰も知らない。
戦いは、荒涼とした原野だけがひろがる「フェルド」の中で一週間続いた。祝福されしものが呼び出した何千ものトイフェルは、圧倒的な力を見せ付けて、あっという間にトーコたちは劣勢に立たされた。それでも、ワルブルガの魔女は誰ひとり諦めることなく戦った。やがて、互いの戦力の底が見え始めた頃、一人の魔女が命と引き換えに、祝福されしものと、彼が黒の魔法を操るために契約している悪魔を切り離すことに成功する。
そして、トーコは二度と悪魔がこの世に現れないように、残りの魔力総てを賭けて、悪魔に強力な二重の封印を施した。
だけど、戦いはそれで終わらなかった。パートナーである悪魔を失い、絶望の淵に立たされた祝福されしものは、怒りのあまり、魔法空間「フェルド」に、自分とそしてトーコたちを永遠に閉じ込めようとした。危機を察知した、生き残りの魔女は「希望の火を絶やさないで」とトーコに言伝ると、魔力を結集してトーコとヴェステンだけを「フェルド」から出して、救った
トーコとヴェステンを残して、総ての魔女たちが犠牲となって、戦争は終わりを告げた。
だけど、トーコは「フェルド」が閉じられる前に、祝福されしものが転生していることを感じていた。もしも、本当に魔法によって、転生しているのなら、再び祝福されしものがこの世に現れ、悪魔の封印を破り目覚めさせるに違いない。そうなれば、もう一度戦いが起きてしまう。
それなのに、ボロボロに傷ついたトーコに戦う力は残されていない。トーコは、自分の命がそう永くはないことを悟っていた。そこで、トーコは来る日のために、眠りに就き、力を蓄えるようヴェステンに命じた。また、トーコ自身も命が尽きる前に、転生の魔法を用いて、中野東子へと転生した。つまり、わたし。そして、魔法と運命の導きによって、わたしがこの館を訪れたとき、ヴェステンは地下室で眠りから覚める。もう一度、祝福されしものを倒すため。そのすべてを託して……。
なんだか、童話の物語でも読んでいるみたいだった。ノートに書かれた文字は、魔法で書かれた文字で、わたしが目で文字を追うたび、アルファベットが反転して日本語に変わっていく。綾ちゃんは、その不思議なノートを覗き込んで、しきりに感心したような声を上げていた。
「祝福されしものは、転生して今、この世界のどこかにいて、トイフェルを呼び出している。そして、この世界の魔女はみんな、フェルドに閉じ込められた。つまり、祝福されしものと戦うことが出来るのは、キミしかいないってこと」
「ねえ、ヴェステン。祝福されしものは、生命の魔法で何をしようとしていたのかな? このノートにもそれは書かれていないみたい」
わたしは、トーコの日記を閉じながら、ヴェステンに尋ねた。だけど、ヴェステンは静かに首を左右に振る。
「そもそも、トーコが祝福されしものと戦っていたのは、ワルブルガの命令に従ってただけ。だから、祝福されしものが、なんで生命の魔法書を作り、それで何をしようとしているのかは、ぼくたちには分からない」
「分からないことだらけだね……」
「仕方ないよ。魔法だって万能じゃない。でも、少なくとも、これだけは言える。祝福されしものが生命の魔法書を手に入れたら、この世界は間違いなく混沌の世界になってしまう。だから、祝福されしものが放ったトイフェルが、生命の魔法書を手に入れる前に、ぼくたちがそれを見つけ出し、守らなきゃいけない」
「わぁ、大変だね! やることいっぱい。魔法の本をみつけて、その祝福されしものって人をやっつけて、世界を守る」
綾ちゃんがわたしの横で、指折り数えた。なんだか、だんだんとやることが増えているような気もするけれど、後には引き返せないことも、わたしは分かってるつもり。
「大丈夫、何とかなるって」
わたしは、ニッと笑って言った。
「気軽に言わないでよ。綾の言うとおり、とっても大変だよ。祝福されしものは、これからもトイフェルを放ってくる。次に来るのは、『ブリーラー・レッスル』みたいな強力なトイフェルかもしれない」
「それでも大丈夫。だって、ヴェステンが援けてくれるんでしょ? 二人なら、何とかなるって」
心配しすぎだよ、と軽くヴェステンの頭を叩いてやる。ヴェステンは、わたしの気楽な言動に、呆れたような眼差しで、ため息を吐き出した。すると、そんなヴェステンを抱える綾ちゃんが、
「わたしも!、わたしも協力するよ。何が出来るか分からないけど、友達の援けになりたい」
と、わたしにぐいっと顔を近づけてくる。丸くて可愛い瞳が、キラキラ輝いている。
「で、でも、危ないよ。さっきのアルラウネみたいな奴が、いっぱい襲い掛かってくるかもしれないし」
「危ないのは、トーコちゃんだって一緒でしょ? 援けは一人でも多い方が良いじゃん。それに、魔法とか、魔法使いとか、そういうのがホントにこの世にいるって知ったら、わたしは普通の生活に引き返したくない! だって楽しそうだし!」
今度は、綾ちゃんのお気楽お友達発言に、わたしがため息をつく番だった。すると、ヴェステンがかすかに苦笑する。
「それくらい気楽な方がいいのかもしれない。アルラウネやコボルトみたいな低級のトイフェルしか呼び出してこないところを見ると、祝福されしものも、まだ本来の力を呼び戻してはいないみたいだし。早く、けりをつけるためには、同士は一人でも多い方がいいかもね」
「じゃあ、決まり! みんなで力をあわせて、がんばろっ!!」
綾ちゃんはそういうと、ヴェステンを抱えたまま、空いた手でわたしの手をぎゅっと強く握り締めた。そして、その手を高く天井めがけて掲げる。
「えいえい、おーっ!!」
綾ちゃんの明るい声は、密閉された地下室中に反響した。その時、まるでタイミングを計ったかのように、玄関口から「ただいま」の声がする。すっかりお父さんが釣りに出かけていたことを忘れていたわたしたちは、慌てて地下室からこっそり這い出した。
わたしは、奇跡なんて信じない。でも、釣りから帰ってきたお父さんのクーラーボックスには、あふれ出しそうなくらい、新鮮な川魚が詰まっていた。大漁に上機嫌のお父さんは、綾ちゃんを夕飯に招待した。もちろん、それに異論はないけれど、料理をするのはわたし。
川魚のフルコースとなった夕飯を食べ終えた後、わたしは疲れきったお父さんとヴェステンを家に残して、綾ちゃんを繁華まで送った。また、アルラウネみたいなトイフェルが、襲ってくるかもしれない。そんな風に懸念していたけれど、何事もなく、
「じゃあ、また明日」
「また明日、学校でね」
と無事、笑顔で二度目の別れを告げることが出来た。
綾ちゃんと別れて帰り道、わたしはこうもり傘をブラブラさせながら、真っ暗な森を抜ける。吸い込まれそうなくらいの暗闇が少しだけ怖いので、わたしは空を見上げた。木々の隙間から、月明かりの少ない夜空と星がちらりと見え隠れする。わたしはそんな空を見上げながら思った。
もしも、生命の魔法書が手に入れば。もしも、一度だけそれを使うことが出来たら。
少しだけ胸の奥が熱くなる……。
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