7. クッキーと紅茶
玄関の扉を開けると、可愛いフリルのついたワンピース姿の綾ちゃんが、ニコニコと微笑んでわたしのことを待っていた。
「いらっしゃい」
ようやく脚のしびれからも解放されたわたしは、満面の笑みで綾ちゃんを迎えることができた。
「やっほー、遊びに来たよ。それから、これ」
と言って、綾ちゃんは手に持った、バスケットをわたしに手渡す。籐で編まれた、小さなバスケットの隙間から、甘いバターの香りが漂ってくる。
「わたしの作った、焼きたてのクッキーだよ。一緒に食べよう」
綾ちゃんお手製のクッキーの入ったバスケットを受け取りながら、キッチンに紅茶があったかしら、と思案をめぐらせていると、唐突に、
「にゃー」
と一声、わたしの足元になにかが絡み付いてきた。視線をおろせば、「猫のフリ」モードのヴェステンが、愛嬌たっぷりに鳴きながら、バスケットの甘い匂いに、鼻をぴくぴくさせている。
「わぁ。可愛い、猫! トーコちゃんのペット?」
ニコニコ顔の綾ちゃんが、ますます笑顔になった。たしかに、猫のフリをしているヴェステンは、どこからどう見ても、可愛い黒猫だ。だけど、実はしゃべる猫で、しかも少し生意気なところがあるなんて、知りもしない綾ちゃんの反応は、わたしのお父さんのそれと、まったく同じだった。
綾ちゃんは、つややかなロングの髪を押さえながらしゃがむと、ヴェステンを抱き上げる。ヴェステンは、彩ちゃんの腕に頬を摺り寄せながら、もう一度可愛く、「にゃあ」と鳴いて見せた。
見た目が子猫だから許されるけど、これが人間の男の子なら、綾ちゃんは卒倒しただろうし、わたしも黙っちゃいない。立派なセクハラ行為だ。
「ペットって訳じゃないんだけど……一応、ウチで飼ってる猫だよ」
十分含みのある言い方で、わたしはちらりとヴェステンを睨んでやった。だけど、ヴェステンはまったく気にもしないで、綾ちゃんの腕に擦り寄ってる。いつもなら、わたしが猫と言うたびに「ワルブルガの使い」だって、怒るクセに。
「いいなぁ。わたしもペットを飼いたいんだけど、ウチ狭いから」
綾ちゃんがヴェステンの頭を撫でながら言った。わたしは、ヴェステンの見事なまでの猫のフリに、あきれながらも、「ペットを飼うにしても、猫は止めた方がいいよ」と、返す。
「どうして?」
「すぐ毛玉作るし、日中はダラダラしてるし、愛想がいいのは餌を貰うときだけだし。ついでに言うと、見た目ほど、性格可愛くないし」
元・猫好きのわたしがニヤリとして言うと、それにはさすがのヴェステンも睨んでくる。わたしは、その視線をするりとかわして、戸棚の奥に紅茶が残っていたことを思い出しながら、
「とにかく、上がって、綾ちゃん」
と、わたしは友達を家に招きいれた。
「わぁ、すごい! お城みたい!!」
綾ちゃんは、玄関ホールに入るなり、ヴェステンを抱えたまま、ぽかんと口を開けながら辺りを見回す。確かに、普通の玄関の数倍はあろうかと言う広さ。玄関ホールから伸びる二階へのへの階段も、人がゆうにすれ違えるほどの廊下も、その大きさに圧倒されるのも無理はない。わたしも、初めてこの玄関を見たときは、驚きを隠せなかったもの。
とりあえず、わたしは綾ちゃんをわたしの部屋へと案内した。部屋に入ってからも、その広さに「すごい、すごい」と絶えず感嘆の声を漏らす。あんまり褒められすぎて、だんだんと恥ずかしくなってきたわたしは、ベッド脇の小さなテーブルにバスケットを置いて、窓を開けてから、紅茶の用意をするために、一人でダイニングに向かった。
思ったとおり、ダイニングの戸棚の奥に、ティーバックがある。スーパーマーケットで特売してた、安物の紅茶。わたしは、紅茶を飲まないし、お父さんは無類のコーヒー党。必然的に、綾ちゃんの手作りクッキーに見合うような、銘柄のついたリーフなんてあるわけがない。でも、ないよりマシ。ともかく、わたしは賞味期限が切れていないことを確認し、ティーポットにお湯を満たし、カップとそれをお盆に載せて、部屋に戻った。
窓を開け放した部屋は、カーテンを揺らす初夏の風と、森の緑の香り、紅茶とクッキーの甘い匂いが通り抜けていた。
「お待たせ」
そう言いながら、わたしは紅茶をテーブルに並べる。綾ちゃんは、お行儀良くクッションに座って、膝の上でヴェステンを撫でやる。どうやら、ヴェステンのことが気に入ったらしい。
そういえば、わたしはヴェステンのことを一度も撫でてやったことがない。だって、初めて会ったときから、ヴェステンは喋りまくっていたし、自ら「猫じゃない」と言い張るものだから、わたしとしてもヴェステンがただの猫とは思えないでいた。
でも、綾ちゃんに撫でられるヴェステンは、とても気持ちよさそうに「にゃあ」と鳴く。そんな姿を見ていると、なんだかホントにただの猫のように見えてくるから、ヴェステンの演技力は、オスカー賞ものなのかもしれないな、なんてどうでもいいことに気付く。
「それにしても、ホントに『魔女の家』なのは外観だけなんだね。中は、とっても綺麗な豪邸だし、この部屋もすごく広いし、いいなぁ、トーコちゃん。すっごい羨ましいよ。『魔女の家』だってバカにしてる子たちにも、見せてあげたいくらい!」
目をキラキラ輝かせて、綾ちゃんは優しいお友達発言をする。でも、ここがホントに「魔女の家」だなんて、知る由もない。かつて、わたしと同じ名前の魔女が住んでいて、今は、現役魔女見習いのわたしが住んでいるこの家は、紛れもなく「魔女の家」なのだ。クラスメイトが言っていた、火の玉もカマイタチも、雨の足音、土のお化けも、その正体が総て魔法だと知ってしまった今となっては、「ここは魔女の家じゃないよ」と否定できなかった。
「でも、家族二人とプラス猫一匹で暮らすには、ちょっと広すぎるんだけどね。二階には五部屋あるの。そのうち、三つは物置になってるくらい。もてあますってこういうことなんだよ、きっと。広すぎるとかえって落ち着かないって言うか、少しだけ前の家が恋しく思えてくるよ」
わたしは、綾ちゃんのカップに紅茶を注ぎながら言った。綾ちゃは紅茶を口に運びながら、
「でも、トーコちゃんがこの『魔女の家』に引っ越してこなかったら、わたしたち友達にはなれなかったよ」
と少しだけ笑う。
「だよねー。そこが問題なんだよね。綾ちゃんと出会うのと、この『魔女の家』とセットって言うのが、ズルイよ神さま、って感じ」
わたしも笑顔を返しながら、綾ちゃん手作りのクッキーをほお張った。バターとお砂糖の甘い香りと柔らかな舌触り。ん、中々の出来。お店で売ってるやつより、美味しいかも!
「これ美味しい。すごい、綾ちゃん。料理上手なんだね。今度、わたしにも作り方教えてよ!」
「いいよ。わたし、お菓子作りだけが趣味だから。他にも、マドレーヌとかパイとかも得意なんだ。トーコちゃんはお料理得意なの?」
「うーん、まあまあかな。お父さんの料理の腕が絶望的だから、必要に迫られて、三ヶ月前から料理の勉強を始めたばかり。あんまり手の込んだ料理は作れなくて、いつもヴェステンには『もっと美味しいものが食べたい』って、怒られるの」
わたしがため息混じりに言うと、綾ちゃんはクスクスと笑う。
「猫に怒られるって……。さては、トーコちゃんってなんだかんだ言って、猫大好きでしょう?」
確かに、猫は好きだった。ちょっと小生意気なヴェステンに出会うまでは。でも、実際わたしはヴェステンに怒られてばっかりだ。
「そう言う、綾ちゃんも猫大好きでしょ? ずっとヴェステンのこと撫でてるもん」
「まあね。でもね、ちょっと不思議なことがあったの」
不意に、綾ちゃんが神妙な顔つきになる。そして、「実はね……」と前置いてから、綾ちゃんは今朝の夢の話をはじめた。
ちょうど、わたしが影に襲われ光の翼に出会う夢をみていたころ、綾ちゃんも夢を見ていた。綾ちゃんは、暗い夜道を独りで歩いていた。街灯もなく、家もない、真っ暗な道を心細く思いながら歩く。すると、突然誰かに無理やり手を引かれた。怖くなって悲鳴を上げようとするけれど、なぜか声が出ない。それどころか、体が固まってしまい、身動き一つ取れない。その誰かは、ただ無言で綾ちゃんの手を引っ張る。
どこへ連れて行くの? わたしが行きたいのはそっちじゃない。
綾ちゃんの心の中で不安がもたげる。そのときだった。一陣の強い突風とともに、黒いローブを纏った女の子と、尻尾の先だけがブルーグレー色をした猫が現れて、綾ちゃんの手を引っ張る誰かを、追い払った。あたりが暗くて女の子の顔は良く見えない。「助けてくれて、ありがとう」とお礼を言わなくちゃ。綾ちゃんが、なんとか言葉を搾り出そうとすると、女の子はかすかに笑った。笑ったような気がした。そして、聞いたこともないような言葉を発すると、手をかざし、夜道の暗闇を切り裂いた。
そして、女の子の傍らに寄り添う、黒猫が「運命に逆らって」と、言い残すと、綾ちゃんは光に包まれ、そのまま夢の世界から、現実の朝に引き戻されたそうだ。
「猫がしゃべるなんて、ありえないのにね。でも、その夢に出てきた黒猫が、ヴェスくんにそっくりだった」
と、夢の話を一通り語った綾ちゃんは、ヴェステンの尻尾の先を見ながら言った。なんだか、わたしの見た夢と良く似ているような気がした。わたしの場合は、猫も女の子も出てこなかった。その代わり、光り輝く翼がわたしのピンチを助けてくれた。
「猫がしゃべったりなんかして、意味の良く分からない夢だったけど、あれは正夢だったのかな。こうして、ヴェスくんと出会うっていう夢。わたし、よく正夢見るんだよ。そんでもって、良く当たるの」
「それって、予知ってやつかな?」
と、尋ねると綾ちゃんは「多分ちがうよ。ただの偶然」と笑った。
「そういえば、トーコちゃんは、隣のクラスに、中禅寺さんっていう占い好きの女の子がいるの知ってる?」
「占い?」
「そう。なんかね、その人の占い、良く当たるんだって。特に、危険予知とか、災難予知。あと、恋愛運とかも。こんど、一緒に占ってもらいに行こうよ」
「でも、わたし占いとか信じてないからなぁ」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦。楽しそうだし、行ってみようよ!」
時々、綾ちゃんは妙に難しい言葉を言う。でも、なんだか嬉しそうにそう言う、綾ちゃんの笑顔に押し切られて、わたしは頷いた。
それから、中禅寺さんという、隣のクラスの子の話をきっかけに、殆ど会話はなし崩し的に、くだらないことに突入した。他愛もない、中学生の会話。お菓子の話、ファッションの話、昨日観たテレビの話。それでも、クッキーと紅茶片手に話していると、とっても楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
ティーポットの中身が空になる頃には、開け放した窓から、赤い西日とともに涼やかな風が吹き込んできていた。綾ちゃんは、部屋の時計を見ると、「もうこんな時間! そろそろ帰らなきゃ」とクッションから立ち上がった。
思えば、友達とダベるだけで、楽しい時間なんて、久しぶりのような気がした。三ヶ月前「あんなこと」があってから、心から笑っていなかったような気がする。友達ってこんなにありがたいものなんだ……。
「また明日、学校で」
「うん、学校でね」
玄関口まで、綾ちゃんを見送り、互いにそういい交わした。綾ちゃんは、森に姿が見えなくなるまで、何度か振り返って手を振った。わたしも、大きく振り返す。
そして、ようやく綾ちゃんの後姿が消えると、ヴェステンがわたしの足元で、大ききく伸びをした。伸びは、ヴェステンが、「猫のフリモード」からいつもの「小生意気モード」に戻る合図みたいなものだ。
「すっごい疲れた。あの子、ずっとぼくのこと撫でてるんだもん」
「何よ、気持ちよさそうな顔してたくせに」
わたしはニヤニヤしながら、ヴェステンに言ってやった。すると、ヴェステンは憮然として頬を膨らませる。
「そういう、フリをしてただけだよ。それにしても、良く当たる正夢か。あの子もしかして……」
「もしかして、何なのよ?」
わたしは、突然声を潜めるヴェステンのことを怪訝思った。ヴェステンは、しばらく考え込むような仕草を見せてから、
「なんでもない。ぼくの思い過ごしだよ」
と、意味深に言うと、くるりと踵を返して、家の中に戻ろうとした。ちょうどそのときだった。ヴェステンの長いヒゲが、感電デモしたかのように、ビリビリと震えた。それは、五日前に一度見た光景。
「トイフェルだ! 近くにいるよっ!! トーコ、急いで傘を持ってきて!」
急に、ヴェステンの声に張り詰めた緊張感が宿る。わたしは、慌てて玄関ホールに入ると、傘立ての中から、例の黒いこうもり傘を取り出した。魔法の文字が刻まれたこうもり傘は、トイフェルの接近を知らせ、淡く文字を光らせていた。
「きゃあっ!!」
突然絹を引き裂くような、女の子の悲鳴が、家を取り囲む森中に響き渡る。あたりの空気が、一気に緊迫する。
「綾ちゃん!?」
直感的に、悲鳴が綾ちゃんのものであることを悟ったわたしの脳裏に、嫌な予感が過ぎった。わたしは、こうもり傘を握り締めると、ヴェステンを従えて、駆け出した。
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