54. いちかばちか
「魔法も剣も通じないなんて、悪魔だからって、いくらなんでも反則だろっ!」
「見てっ! メフィストの体が膨張して、どんどん異界が侵食されていくよっ!」
「このままじゃ、異界ごととわたしたちもメフィストに食いつぶされるわっ!」
「でも、逃げる場所なんてどこにもないよっ!」
うっすらと取り戻しかけた意識に、誰かの声が聞こえてくる。最初の声は阿南くん、次の声はヴェステン、そして中禅寺さんに続いて、ソフィ。どうやら、わたしは無事綾ちゃんのヴィジョンから戻って来れたみたい。でも、事態は好転するどころか、かえって急迫していると、みんなの焦った声が伝えていた。
それでも、しばらくの間、わたしの頭はぼんやりとしていて、なんで阿南くんの顔が下から見えるのか、そんなどうでもいいことを考えていた。それにしても、わたしの視界は随分不自然なくらい揺れている。震度四くらいだろうか。地に脚をつけている感覚もなければ、わたしが走っているわけでもないのに、振動を伴いながらあたりの景色が右から左へと流れていく。
ああ、そっか、わたしは誰かに抱きかかえられているんだ。その誰かは視線の先に顎だけ見える、阿南くんだ。それも、お姫さま抱っこだよ。なんだか、阿南くんってば王子さまみたい。
「って! わぁっ!」
いきなり意識がはっきりして、頭にかーっと血が上る。もちろん、恥ずかしくって。そりゃ、阿南くんの背中の鞘にはノートゥングが収められていて、わたしを背負うことが出来ないのは分かるけど、お姫さま抱っこなんて恥ずかしすぎるよっ!
「降ろして、降ろして阿南くんっ!」
わたしの大声にびっくりする阿南くんを他所に、阿南くんの腕の中でじたばたと暴れて、わたしは地面に落っこちてしまう。強くお尻を打って顔をしかめていると、みんなの視線がわたしに集中する。
「良かった、気がついたんだね、トーコ!」
そう言ってヴェステンが、ソフィの腕からわたしに飛び移り、くりくりしたエメラルドグリーンの瞳を向けてくる。
「わたし、どのくらい気を失ってたの?」
わたしが尋ねると、みんなを代表して「二、三分よ」と答えたのは中禅寺さんだった。その中禅寺さんの傍らで、阿南くんがわたしを抱えていた腕を振りながら、眉間にしわを寄せる。
「ダイエットしろよな。すっげー重かったぞ」
フッと、阿南くんの口元が綻んだので、それが冗談だと分かる。
「そんな嫌味言わなくても……」
と言いかけたわたしは、目の前に広がる光景に思わず閉口してしまった。綾ちゃんの体から、霧のように湧き出した黒い人影は、巨人と呼ぶほどの大きさになり、その背中から生える闇の翼「ドゥンケルハイト・トラークフレヒェ」が、異界の空を黒く塗りつぶしていく。
「危ないっ!」
唐突に、中禅寺さんが叫んだ。闇の翼の端から、突然に帯のような黒い光が現れる。それは、わたしたちめがけて飛来する間に、幾重にも分岐した。そして、わたしたちの足元に次々と突き刺さり、その場に闇の空間を開く。黒の魔法「アイゼン・シュパイク」だと思った瞬間には、闇の空間から鉄のスパイクがあふれ出していた。
「エーアデ・バックラーっ!」
中禅寺さんが四枚のカードを宙に投げつける。カードには、土の盾の魔法円が描かれていた。だけど、その魔法円が発動する前に、鉄のスパイクはカードを貫く。
「フライセン! ヴァッサー・バックラーっ!!」
魔法のカードが空しく四散するのを見たわたしは、すかさず右手にこうもり傘があることを確認して、立ち上がりざまに、固定された魔法を解放する。水の盾は、わたしたちを取り囲むように、円を描きドーム状のバリアを形成した。
「ヴァッサー・バックラーの障壁じゃ、メフィストフェレスの魔力は相殺しきれないっ!! ノートゥングの魔法障壁を最大限にっ! みんな、集まれっ!」」
叫びは、阿南くんの口からこぼれた。その言葉どおり、スパイクは水の盾を突き破りわたしたちに迫る。阿南くんはわたしたちが彼を中心に集まったのを確かめる間もなく、ノートゥングを地上に突き刺すと、魔法の言葉を唱えた。それは、微弱な魔力だったけれど、ノートゥングを青銅色に輝かせるには充分だった。
メフィストはわたしたちを本気で殺そうとしている。一瞬迷えば、ツララを逆さにしたような鉄の棘に、わたしたちはズタズタにされていただろう。だけど、ノートゥングの魔法障壁は、青白い光を発しながら、わたしたちを包み込み、その身を守ってくれた。魔法障壁に衝突した、憎悪の塊のような鉄のスパイクは、キラキラと輝く鉄の粉になって散っていく。
「くっ!」
阿南くんが唸る。その視線の先を辿ると、わたしの目に飛び込んできたのは、ノートゥングの青銅色の剣身に、小さなひびが入り、それが徐々に大きくなっていく様だった。
「ヤツの魔力に耐え切れないっ」
「次が来るよっ!」
阿南くんの悲鳴に、ヴェステンが声を被せた。エメラルドグリーンの瞳が見つめる先に、闇の翼から発せられた黒い光の帯の、第二波がこちらに向かって飛来する光景。
黒い光の帯は弧を描きながら、わたしたちの頭上を掠め空中に、闇の空間を開いた。そこからパリパリと音を立てて、稲光の端っこが顔を見せる。ドンナー・レーゲン、雷の魔法を放つ闇の空間が、いくつもそこに現れ、あっという間に、ノートゥングのバリアは轟く魔法の雷鳴に包まれた。
「大変っ! ノートゥングが」
ソフィが息を呑む。瞬間、雷鳴の間を縫うように、パキンっとノートゥングの折れる音が聞こえた。わたしたちを守ってくれる、青白い光が点滅しながら消えていく。その後は、覚えていない。頭の天辺から雷に打たれ、わたしたちは五つの悲鳴を重ね合わせながら、弾け飛んだ。
焼け付くような痛みと痺れは、わたしたちに無意識のうちに悲鳴をあげさせて、意識を保っているのがやっとだった。ノートゥングが最後の力を振り絞って、その電撃をある程度相殺していてくれなかったら、わたしたちは全身を焼かれて、あっけなく異界で死んでいたかもしれない。
そう思えば、電撃が収まり、全身を地面に叩きつけられた痛みも、それほど恐ろしいものじゃなかった。
「くそっ、なんてパワーなんだよっ。反則通り越して、卑怯だっ」
剣身の三分の一のところで完全に折れてしまったノートゥングを支えに、阿南くんが最初に立ち上がった。
「あいつはこのまま、そのパワーで異界を飲み込み、人間界をも飲み込むつもりなんだ。世界を暗闇に閉ざし、そして地獄の世界に変えるんだ」
ヴェステンがケホケホと咳をしながら、わたしの傍で言う。
「その先に待っているのは、混沌や虚無よりももっと悲惨な未来。悪魔の力は、人間の魂を憎悪と恐怖だけで埋め尽くし、人が人を憎みあい、殺し合う」
痛みに顔をしかめたソフィが、よろめきながら、わたしの傍までやってくる。わたしは地面に突っ伏したまま、自分の頭の中で事態を必死に咀嚼していた。五百年間、ヨハネスを支配しながらも、彼の宿願をかなえることで、世界を混沌と虚無に包み込もうとして何度も、前世のわたしに阻止された。そして、ヴィジョンの中でわたしが綾ちゃんを説得してしまったことに、ついに業を煮やしたメフィストは、もっとヒドイ未来を人間に与えることに決めたんだ。こんな電撃、序の口に過ぎない……。
「綾の……いや、ヨハネスの魂はとっくの昔に存在していなかった。悪魔にのっとられていたんだよ」
付け加えるように阿南くんは言って、巨大なメフィストをにらみつけた。そのメフィストの胸の辺り、かすかに綾ちゃんが見える。まるで、十字架に貼り付けにされた、キリストのようだった。
「ううん、綾ちゃんは居るよ。綾ちゃんは、わたしたちのところに帰りたいって、願ってる。それをメフィストが許さないだけ」
わたしは頭を左右に振りながら、ゆっくりと立ち上がった。右手には、黒いこうもり傘。わたしはそれを振り上げ、傘の先である一点を指し示した。綾ちゃんの胸の辺り。豪奢な黒いローブの飾りにまぎれて、小さく輝く星型の貝殻で出来たペンダント。
「でも、綾ちゃんはまだ生きてる。わたしたちは、諦めるためにここに来たんじゃない。逃げたって、メフィストは世界を覆いつくすまで膨張し続ける。人間の魂とか、想いとかそういうものを全部食べてしまうまで」
「でも、わたしたちに悪魔を倒す術なんかないわ。カードももう残り少ないのよ。あなただって、魔力がどれだけ残っているって言うの? 阿南くんのノートゥングとわたしたちの力をあわせても、悪魔を払うなんて、エクソシストみたいなことできるわけないじゃないっ!」
初めて聞く、中禅寺さんの弱気な声。確かに、ピルヴィッツやヨハネスと戦って、わたしたちは疲れ切っている。後何回魔法が使えるのか、後どれくらい戦えばメフィストをやっつけられるのか、現実的に考えれば、それは途方もなく絶望的なことだと分かっている。
だから、友達を見捨てて逃げても、世界を守ることなんて出来ない。未来を守ることが出来るのは、わたしたちだけなんだ。それに、ヴィジョンから出るとき、必ず助けるって綾ちゃんと約束した。わたしは、その約束を破りたくない。
「いちかばちか、賭けになってもいい?」
不意にわたしの肩口に捕まるヴェステンが言った。もちろん、わたしは頷き返す。
「みんなの残りの魔力をすべて結集して、唯一、闇の翼に勝つことが出来る魔法がある。でもね、前世のトーコでさえその魔法を成功させたことがない。もしも失敗すれば、みんな無事じゃ済まされないかもしれない。それでもいい?」
今度は、みんなに同意を求めるように、ヴェステンが振り返った。ソフィはすぐに頷き、それに、阿南くんも続く。だけど、中禅寺さんだけは困ったような顔をする。
「ムチャクチャよ」
そう小さく言うと、わたしたちの視線から逃れるように、中禅寺さんが目をそむけた。どうしようもないと言うことは分かってる、でもどうにかしなきゃいけないことも分かってる。中禅寺さんは、その狭間で揺らいでいた。それだけ、彼女が現実的なものの見方が出来る人なんだと、わたしは思った。
「でも、ムチャクチャなのは承知済みだろ? 俺は賭け事嫌いじゃないからな」
阿南くんが、ぽんと中禅寺さんの肩を叩いた。
「うわっ、ギャンブラーな発言。今から、そんなこと言ってたら、ロクな大人になれないよ」
と、わたしは悪戯っぽく笑う。さっき、ダイエットしろとか女の子に向かって言ったことへの、お返しだ。すると阿南くんが、キッとわたしのことを睨みつけて、「一般的な賭け事じゃねえよっ!」と反論して、笑い出す。つられて、ソフィとヴェステンも笑い出す。
「何で笑えるの? こんな時に」
更に困った顔の中禅寺さん。わたしは、中禅寺さんにも笑顔を向けて、「こんなときだからだよ」と返した。
「『辛くても、悲しくても、笑顔だけは忘れるな』わたしのお母さんが、わたしに残してくれた言葉。笑ってたら、きっといいことがあるかもしれない。出来ないことも出来るかもしれない」
そう言って、わたしは中禅寺さんの右手を取った。更に左手をソフィが握る。そしてソフィの右手を阿南くんが取って、左手を傘を握るわたしの右手に添えた。
「かもしれないって、不確定すぎるわ」
「占いだっておんなじでしょ、中禅寺さん。かもしれないを、信じることが大切なんだよ。未来はそうやって切り拓く」
わたしが言うと、中禅寺さんは呆れたような顔をしてため息をつき、少しだけいつもの無表情に笑みを浮かべた。
「わたし、あなたが賭け事好きだなんて知らなかった。友達として忠告しておくわ。賭け事はこれを最後にしてね。……ヴェステン、その魔法って何なの?」
中禅寺さんの問いかけにヴェステンは、もう一度巨大な影となったメフィストフェレスを見上げた。
「リヒト・フリューゲル。光の翼。すべての白の元素を集めれば、光となる。その力で闇を切り裂くんだ」
「光の、翼……」
わたしは、その言葉に少しだけ驚いた。夢の中で見た、グレートヒェンの光の翼が脳裏を過ぎる。だけど、ヴェステンはそんなわたしの驚きを知ることもなく、みんなに指示を与える。
「魔力をトーコの傘に集中させて。トーコ、魔法の言葉は一度しか言わない、よく聞いて」
ヴェステンから、魔法の言葉を教わったわたしは、ゆっくりと瞳を閉じた。中禅寺さんの風を思わせる穏やかな魔力が左手を伝って流れ込む。ソフィのホムンクルスとしての魔力は、わたしたちの中で一番大きなうねりを持っていた。そして、阿南くんの魔力。温かい太陽の光のような優しい力。
「赤、青、緑、黄、四色の精霊と契約の名において、ここに集い、具現せよ。そは天からの使い。切り拓け! 未来の道。羽ばたけ! 光の翼。リヒト・フリューゲルっ!!」
魔法の言葉を叫ぶと、それに反応するかのように、傘に刻まれた魔法の文字から、まばゆい光があふれ出した。
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