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53. 運命に逆らって

 額から、胸、腕、お腹、腰、足、満遍なくかかる重力に、わたしは自分の体が、仰向けに横たわっていることを自覚した。メフィストの腕に掴まれて気を失い、どのくらい時間が過ぎたのか、痛いほどの静寂がわたしの耳を打つ。異界に響き渡る、地鳴りのような音さえ聞こえてこない。ここは、異界じゃないのかな? わたしはゆっくりと重いまぶたを開いた。

 わたしの視界に飛び込んできたのは、空も地面も吸い込まれそうなくらい真っ黒の世界。それは、ソフィのヴィジョンで見たのと同じ、無音でただ黒一色が染め上げた、虚無の世界だった。どうなってしまったんだろう、確かメフィストフェレスの腕に掴まれて……その後を覚えていない。思い出そうとすると、何故だか頭がガンガンしてきて、痛いだけ。仕方なくわたしは、状態を起こし、周囲を見回した。

「ヴェステン! 阿南くん! ソフィ! 中禅寺さんっ!!」

 呼びかけてみたけれど、彼らの姿はどこにもない。どこへ行ったの、みんな? 頭の片隅に不安がもたげてきたわたしは、立ち上がると自分の手に、こうもり傘がないことに気付く。再びあたりをキョロキョロと見まわして、こうもり傘が落ちていないか探してみたものの、それらしきものは見当たらず、更に不安が濃く、わたしの心に霧となって立ち込めた。

 わたしが気を失っている間に、総てが手遅れになったなんて、考えたくない。そう思いながら、わたしは重い脚で、あてどなく歩き始めた。どこまで行っても、地平線も見えない虚無の世界は、どこにも明かりなんてないのに、わたしの手脚はきちんと視認することが出来る。そこは闇とは違うところ。暗いのではなくて、ソリッドな黒に染め上げられているだけなのだ。

 誰か居ませんか? なんて問いかけたところで、虚無、つまり何もない世界に、何かがあると期待できないことを、わたしは知っている。それなのに、妙に確信めいた気持ちがあった。このまま歩き続ければ、わたしは、今一番合いたいと思っている人に会うことが出来る、と。

 どのくらい長い時間、虚無の世界を歩いただろうか。そんな根拠のない確信が、あっという間に崩れかけそうになったその時、地平のあたりに誰かの人影を見止めた。わたしは、慌てて駆け出して、その人影に近づいた。

「綾ちゃん!」

 声に出して、その名を叫ぶと、黒の世界にぽつんとうずくまる女の子がそっと顔を上げて、わたしの方を見る。泣いてる……? 顔を上げた綾ちゃんの頬が、僅かに光って、わたしはドキッとした。

「トーコちゃん……」

 か細い声は、わたしの知ってる綾ちゃんの声。

「どうして泣いてるの?」

 わたしは、綾ちゃんの傍まで駆け寄ると、そっとしゃがんで尋ねた。綾ちゃんは、何故かいつもの制服姿で、その袖口で涙を拭うと、

「運命だから。世界を滅ぼすのが、わたしに与えられた運命だから。わたしの五百年は、すべてメフィストさまによって、支えられ、保たれてきたの。そのメフィストさまが、望んでおられるの。人間界も、魔界も、総ての次元に存在する世界の崩壊を」

 と、言った。その言葉の意味も、涙の意味も、わたしには良く分からなくて困り果ててしまう。だから、とりあえず尋ねてみることにした。

「あなたは、ヨハネス? それとも、綾ちゃん?」

「わたしは……誰? 分からない」

 そう答えると、綾ちゃんは体育座りの姿勢で、膝に顔をうずめた。不意に、背後に気配。こうもり傘を構えようとして、この手に傘がないことを思い出しつつ、わたしは振り返った。

「わたしはお前、お前はわたしだ。ヨハネス・ファウストの転生者だ」

 そこに居たのは、白いローブを身にまとい、立派な口ひげを生やした、背の高い男の人。直接顔をあわせるのはこれが初めてだけど、ヴィジョンの中でその姿を何度も見ている。そう、彼こそが、ヨハネスその人だった。

「あなたの願いをわたしは知ってる。でも、それはあなたの願いであって、綾ちゃんの願いじゃない。綾ちゃんを自由にしてっ!」

 わたしが見上げるように視線を鋭くして言い放つと、ヨハネスは意に介さないと言った表情で、からりと笑い返してきた。

「我が転生体、ホムンクルスがそう言ったのか? それは、お前の願いではないのか? お前の願いなど、我が五百年の想いに比べれば、儚いものだ。それが、ホムンクルスにユストゥスの転生者が与えた『田澤綾』などという、架空の人格であれば、なおさらだ」

「そんなことない! 綾ちゃんはここにいて、ここで生きてる。例え、架空の人格だとしても、わたしたちの心の中に居る、綾ちゃんの存在までは消すことが出来ない。それは、すでに綾ちゃんが架空の存在じゃないってことの、何よりの証拠だよ」

「だが、このヨハネスは綾、綾はヨハネス、同じ存在であることに変わりはない。我が魂がそのホムンクルス体を出て行けば、お前が救いたいと思っているホムンクルスは、ただの抜け殻になってしまう。それが転生というものだ。ヘレネーの転生者であるそなたにも、分かることであろう?」

 分かるけど、分かりたくない。わたしはきゅっと拳を握り締めた。

「だからって、自分ひとりよがりの願いで、綾ちゃんを縛り付ける権利は、あなたにないはずだよ」

「違う」

 まるでわたしの言葉に反応するかのように、綾ちゃんが再び顔を上げ、弱弱しい声で言った。

「違うよ、トーコちゃん。これは総て運命なの。わたしが、賢者の石でメフィストさまを呼び出したときから……ううん、それよりもずっと前、わたしがグレートヒェンと出会ったその時から」

「それは、綾ちゃんがしたんじゃないでしょ? すべてヨハネスのこと。わたしが言ってるのは、綾ちゃん、キミのことだよ」

「同じことだよ、トーコちゃん。わたしはヨハネス、ヨハネスはわたし。それが運命なの。田澤綾なんて、どこにも存在しない」

 うつろな目をして、わたしのことを見上げる綾ちゃんに、いつもの向日葵みたいな笑顔はなかった。一つの体に一つの魂しか宿らない。それは至極当然のことで、ヨハネスの魂を否定することは、綾ちゃんを否定すること。綾ちゃんというのは、ヨハネスの魂に阿南くんがかけた魔法が生み出したもの。

 どうすればいいのか分かってたわけじゃないことに、今さら気付かされたようで、ものすごく気分が悪かった。ただ、ソフィのように、友達を救いたいと願うだけじゃ、綾ちゃんは取り戻せない……だけど!

「わたしは、綾ちゃんが綾ちゃんで居ることが一番大事だと思う。ヨハネスとか、魂とか、そういうことじゃなくて、あなたが正しいと思う未来を見つけて。それは、きっと友達を傷つけて得られる未来じゃないと思うの」

「友達?」

 わたしの言葉に、綾ちゃんは少しだけ驚いたような顔を見せた。

「そうだよ。阿南くんはユストゥスの生まれ変わりだから、異界にまで来たわけじゃない。中禅寺さんは、お母さんの仇を討つために、異界にまで来たわけじゃない。ヴェスも、わたしも、みんなも、綾ちゃんのことを迎えに来たんだよ」

 そのために、わたしたちはここにいる。綾ちゃんと一緒に、みんなと一緒に未来を歩んでいくために。

「運命に逆らって」

 最後に添えるように言うと、わたしは笑顔と一緒にそっと綾ちゃんに手を延べた。

「トーコちゃん、その言葉……」

 その言葉は、ずっと前綾ちゃんから聞いた、夢の中に出てきた黒猫の言葉。受け売りだとは分かっていたけれど、その言葉を言わずに入られなかった。あの夢は、正夢だったんだと、信じて欲しい。

「逆らえる? わたしはわたしで居てもいいの?」

 そっと綾ちゃんの指先がわたしに触れる。わたしは、その手を強く握り締め、綾ちゃんを強引に引っ張り起こすと、しっかりと頷き返した。

「運命に逆らうなど、無理だ」

 引きつったような笑い声とともに、ヨハネスが言う。

「我が魂ガある限り、わたしがヨハネスであると言うことは、その娘もまたヨハネスと言うことは変えられない。それに逆らい、田澤綾などと言う架空の存在を救うことなど、出来るはずがない! それとも、お前はこのホムンクルスを抜けがら、即ちただの『器』にしたいのか?」

「違う。あなたが、綾ちゃんを導くの。あなたが綾ちゃんで、綾ちゃんがあなたなら、正しい未来にあなたが導かなきゃいけない」

「正しい未来? いかにもヴァイス・ツァオベライの言葉らしい。正しい未来とは何だ!? 無辜なる命が奪われない世界、それこそが正しい未来ではないか。それを実現するのは、我が『生命の魔法書』。そして、未来を築き上げる女神こそが、グレートヒェンだ!!」

「少なくとも、それは正しい未来じゃない。誰かが、その『むこなる命』を自由にしていいはずがないよ! 確かに、大切な人が罪もないのに死んじゃうことは、とても悲しくて、悔しくて、辛いこと。わたしだって、お母さんが死んで、とっても辛かった。でも、わたしの知ってるお母さんは、世界の摂理を壊して、この世界を混沌に落とし込んで、他の誰かを不幸にしてまで、生き返ることなんか望まない。それよりも、わたしがちゃんと未来を歩むことを望んでいるはずだよ」

「それは、そなたが勝手に思っているだけであろう? 実にその母は、生き返ることを望んでいるかもしれない。『生命の魔法書』があればそれが叶う。母のぬくもりをもう一度確かめることが出来るのだ」

「その必要はないよ。だって、お母さんは、ずっとわたしの心の中で生き続けているから」

 わたしは自分の胸に手を当てて、瞳の奥にお母さんの顔を思い浮かべる。どんなに辛いことがあっても、笑顔で居て欲しいとわたしに言ったお母さんは、生き返りたいなんていわない。わたしには、それが分かる。すると、ヨハネスはフンっと鼻で笑い、

「だが、グレートヒェンは生き返ることを望むはずだ。いや、そうわたしの心の中のグレートヒェンは、五百年の間訴え続けているのだ」

 と言い切った。それは、きっと彼の中で歪められ、自分の願望と結実したグレートヒェンの姿だっていうことも、わたしは知っている。

 そう、初めて魔法を使った夜にみたあの夢。黒い人影……メフィスト・フェレスから、わたしを救ってくれた光の翼。あれは、グレートヒェン。彼女は、わたしに言った。

『あの人を永遠に輪廻する暗闇の中から救って』

 グレートヒェンは、生き返ることも、この世界が混沌に包まれることも、そしてヨハネスが五百年の妄執、いや呪縛に未来永劫囚われ続けることも、望んでいない。だから、わたしの夢の中に現れて、わたしに願いを託したんだ。歪められたグレートヒェンの姿を信じ込み、間違った道を歩み続ける愛する人のことだけを、一身に心配している、グレートヒェンの想いを確かにわたしは受け取ったんだ。

「望みをかなえても、あなたは幸せになんかなれない。グレートヒェンは悲しむだけ。ヘレネーは、わたしの前世たちは、そのことに気付いていたから、あなたを必死に止めようとしたの。ううん、あなただけじゃない、メフィストフェレス、『愛すべからざる光』の名を持つ悪魔を」

 わたしは綾ちゃんの手を引き寄せて、握り締める細い手が解けないようにしっかりと握り締めた。

「綾ちゃんは返してもらう」

 と、わたしが言い放つと、ヨハネスは突然両手で顔を覆い、わなわなと体を震わせた。様子がおかしい……わたしが身構えた瞬間、顔を上げたヨハネスの瞳が、血のように真っ赤な色で鈍く光った。

「どこまでも、我が宿願の邪魔をするのか、ヘレネーよ!!」

 その声は、ヨハネスの声じゃない。身の毛もよだつような、おぞましい声。。

「メフィストフェレス」

 その名を呼んだのは、わたしの手を握る綾ちゃんだった。

「二十四年の契約が終わって、この魂を支配して五百年が過ぎた。それでも、世界を虚無で包み込み、総ての人間を悲しみと憎悪で埋め尽くすことが出来るならと、ヨハネスの宿願に付き合ってやったが、埒が明かぬ。それもこれも、すべてヘレネーよ、お前が邪魔をしてきたからだ」

 ヨハネスの姿をしてはいるものの、悪魔そのものとなった彼は、怒りに震えていた。口からは、黒い霧のようなものを吐き出し、ゆっくりと両手をわたしたちに伸ばしてくる。戦わなくちゃ、と思っては見たものの、傘がないことを思い出す。手のひらから放出できる魔力じゃ、到底その悪魔に敵わないという予感は、メフィストの両手がわたしの体を掴む前に、わたしの踵を返させていた。

「逃げよう! 綾ちゃんっ!!」

 わたしは有無を言わさぬ勢いで、綾ちゃんの手を引いて、真っ黒な道を走った。もし、強引にでも綾ちゃんを引っ張らなかったら、綾ちゃんを失ってしまいそうで、少しだけ怖かった。

「どこへ逃げる? ここは、ホムンクルスのヴィジョン。どこまで行っても逃げ場などありはせぬ。ヘレネーよ、我の邪魔をした罪、その魂で(あがな)うがよい!」

 メフィストは、わたしの背後で高らかに笑う。悪魔の笑い声は、気を張っていないと、それだけで恐怖や憎悪という、悪い感情だけに心を支配されそうになってしまう。

 ん? ヴィジョン? 思わずわたしは走る脚をとめないで、綾ちゃんのほうを振り返った。綾ちゃんは不安そのものを顔に描いて、追い迫ってくるメフィストを見つめながら走っていて、わたしの視線には気付いていない。

 そうか、綾ちゃんもソフィと同じホムンクルス体なら、ホムンクルスに本来備わっている力、「夢幻のヴィジョン」をわたしに見せることが出来る。この世界が、本当にヴィジョンなら、ソフィがそうしたように、ヴィジョンから抜け出すことだって出来るはずだ。

「綾ちゃん! ここから出よう。みんなが待ってる、現実に一緒に帰ろう」

 わたしが言うと、綾ちゃんはわたしの方を向いて、ごもごもと口ごもる。

「綾ちゃんは綾ちゃんだよ、ヨハネスなんかじゃない。運命なんかに束縛されないでっ! 例え何があっても、わたしたちだけは綾ちゃんを信じているから、綾ちゃんもわたしたちを信じて、お願い!」

 迷いを吹き飛ばすように、わたしは語気を強めた。綾ちゃんの顔に、俄かに安堵の笑みがこぼれ、小さく「うん」と頷いた。そして、左手を高くかざす。

 ぱっ、と閃光のような光が、虚無の世界を映したヴィジョンを真っ直ぐ両断するように、突き破った。その瞬間、視界を埋め尽くしていた黒は、光が作った切れ目から一気に、白い輝きに溢れた世界に変わっていく。ただ、ヨハネスの魂を支配する、メフィストの周り以外。

「みんなのところへ、帰ろう!」

 わたしがもう一度言ったその瞬間、「逃がしはせんぞ」と、メフィストの腕が伸びてきて、綾ちゃんの左手を乱暴に掴んだ。

「ヘレネーよ、その魂を喰らい尽くしてくれる」

 メフィストの力は予想以上に強く、綾ちゃんの腕を引きちぎらんばかりに引き寄せる。さらに、メフィストの口から溢れる黒い霧が糸状に伸び、まるで食虫植物の食指が、獲物を捕らえるかのように、綾ちゃんを素通りして、わたしの腕や首筋に絡みつく。途端に、体が重くなり、動悸とともに呼吸が苦しくなった。

「トーコちゃん! やめて、やめてください、メフィストさまっ!!」

 必死の綾ちゃんの訴えなんかに、メフィストはも耳を貸すそぶりも見せない。

「ううっ」

 わたしは思わずうめき声を上げた。ユメまぼろしであるヴィジョンの中で、全身の力が奪われることは、魂を吸い取られるということ。抵抗しようと思っても、霧を掴むことも出来なければ、メフィストよりも強い力で、綾ちゃんを引き寄せることも出来ない。

「お願い、トーコちゃん。すべて、終わらせて……」

 不意に綾ちゃんが小さな声で言った。そして、わたしの手を振り解く。あっ、と思ったときには、綾ちゃんはメフィストの下に引き寄せられ、わたしはヴィジョンから覚醒する光に包まれた。

「綾ちゃん、ダメ!」

 叫んでは見るけれど、まばゆい光に、綾ちゃんの姿は遠のいていく。わたしは必死で手を伸ばしながら、もう一度お腹の底から叫んだ。

「待ってて! 絶対、絶対、綾ちゃんのこと助けるから!!」

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