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48. 追憶 その3

 五百年の歳月と言うものの長さを考えて欲しい。地球が誕生したその日から、人間がこの世界に生まれたときから考えれば、五百年ぽっちなんて、それほど長い年月じゃないけれど、人の一生が八十年だとすれば、およそ六倍以上の年月は、短いと言ってしまえるようなものじゃない。わたしは、社会科の授業があまり得意じゃないけれど、五百年もの昔それは途方もなく、長い毎日の積み重ねと言えるのかもしれない。

「ヨハネス・ファウスト。『ファウスト』とはラテン語で『祝福された』と言う意味で、彼の通り名となっている『祝福されしもの』の由来になっている。彼が生まれたのは、五百年前のドイツ、ハイデルベルクと言う街に生まれた」

 阿南くんがそう言うと、わたしたちの視界に、晴れ渡る空とのどかな西洋の街が現れる。どの建物も二、三階建てで、アスファルトじゃなくて、石畳の往来には、車や電車はおろか、街灯さえもない、五百年前のドイツの町並みだ。大通りは活気に溢れ、小麦粉の入った麻袋や、ビールが満タンの酒樽を載せた馬車が走り、ローブやドレスをまとった人たちが談笑しながら行き来する。だけど誰も、往来の端に立つ明らかに出で立ちの浮いた、わたしたちのことに気付いていなかった。なぜなら、ここは、ソフィが見せてくれる「夢幻のヴィジョン」の中だから。

「ヨハネスの父親は農夫で、生活の向きはそれほど裕福じゃなかった。それでも、貧しさに苦しむような生活でもない。いってみれば、俺たちと同じ、ごくごく平凡な家庭の子どもだったんだ」

「俺たちって……、それは阿南くんのこと? それともユストゥスのこと?」

 往来の騒がしさの合間を縫って、わたしが問いかけると、阿南くんはやや憮然とした顔つきをする。

「そりゃ、阿南結宇としてのことだよ。俺の親父は、真面目一徹の会社員。お前の親父さんだって、地方公務員じゃないか」

「そっか、そうだよね……阿南くんは阿南くんだよね」

「当たり前だろ? ユストゥスの記憶と魂を受け継いだからって、俺は俺だよ」

 至極当然、そういい切るように阿南くんが、わたしの顔を見た。確かに、以前のヴィジョンで見た、ユストゥスの顔に似ているけど、やっぱり目の前に居る彼は、阿南くんなんだ、なんて思っていると、

「それにしても、キミがあのユストゥスさまの生まれ変わりだとは、思わなかったよ。代々、ユストゥスさまの生まれ変わりは、その名を受け継いでいるはずなのに」

 わたしの肩先に乗っかる、ヴェステンが言う。その口ぶりからすると、ずっと前から阿南くんのことを知っているような口ぶりだった。

「俺は日本人だからな。でも、結宇って、名残があるだろ」

 そう阿南くんが答える横で、「どういうことなの」とヴェステンに尋ねると、わたしの知らないとんでもないことをヴェステンは言った。

「ユストゥスさまは、秘密結社『ワルブルガ』の始祖なんだ。彼が、世界中のヴァイス・ツァオベリンを集めて、ヨハネス・ファウストに対抗する組織を作ったんだよ」

 ええっ!? と驚いたのは、わたしとソフィ。まさか、わたしの隣の席で仏頂面してるクラスメイトが、ヨハネスの息子「ユストゥス」の生まれ変わりってだけでも驚きなのに、そのユストゥスが「ワルブルガ」の創設者だなんて、初耳もいいところ。なんだか、阿南くんを見る眼が変わってきそうな、予感がする。

「その話は、おいおいするよ。それよりも、ほら」

 阿南くんが通りの向こうを指差した。ちょうどそこには、パン屋さんがあって、煙突からもくもくと白い煙を上げている。その建物がパン屋だと分かったのは、店の扉を開けて通りに駆け出した男の子が、バスケットに焼きたてのドイツパンを詰めて、走っていく姿が見えたからだ。

 半ズボンの良く似合う年頃の男の子は、大人しそうな、でもとても利発な顔つきをしていた。青い空と町並みを映しこむブルーの瞳に、少しだけその面影がある。

「あれが、少年時代のヨハネスだよ。ごく普通の男の子だった。彼の目下の興味は、神学。つまり、キリスト教の学問だった」

 そう言うと、阿南くんはソフィに目配せをする。ソフィは無言でも、阿南くんの指示が伝わったのか、こくりと頷くと、両手を胸の前で組み、お祈りのポーズを取った。その瞬間、わたしたちの視界をまばゆい光が包み込んだ。別の場面に移るんだ。もう何度も経験した光に、わたしは思った。

 次の場面は、街角から、お城へと変わる。その外観を見たことがあったわけじゃないけれど、何となくそこが、ヴィッテンベルク大学のあるお城だということが分かった。はじめて、ヴィジョンを見たとき、ヨハネスが友達のマルティン・ルターと言い合いをしていた場所だ。

 とても大きなお城で、一番高い塔は、空を突き刺すようなくらい聳えて、これまた大きな城門の前には衛兵が槍を携えて立っている。この当時の大学は、お城の一角にあったらしく、その運営は、お城に住まう領主が行っていたらしい。その大学の城門を馬に乗った、白いローブの青年が出て行く。

「学士ヨハネス・ファウスト。クラークフまでの道のり、無事を祈る」

 衛兵の一人が馬上のヨハネスに言った。マニュアルどおりの文言だったと思うけど、ヨハネスはニッコリと微笑んで「いってきます」と元気良く答えた。

「ヨハネスの親類に、とても裕福な伯父がいたんだ。ヨハネスは彼の勧めで、ヴィッテンベルク大学に入学した。とても賢く、知識と探究心に旺盛だったヨハネスはこの大学で、神学士の称号を取得して、後に宗教改革の立役者となるルターやらの学友と出会ったんだ」

 城門を出たヨハネスの馬が、ゆっくりとヴィッテンベルク街の方へと消えていく。わたしたちは衛兵さんと同じように、その背中を見送った。

「十九歳になったヨハネスは、更なる探究心に後押しされて、ルターの反対を押し切って、隣国ポーランドにあるクラークフ村の魔法使いに、魔法の勉強を受けるため旅立った。その時は、魔法の勉強をすることは、彼にとって、新しい知識を得たいという純粋な気持ちだった。そして、彼がクラークフに棲む魔法使いから学んだのは、シュバルツ・ツァオベライ。即ち、黒の魔法だ」

 阿南くんの説明を他所に、わたしはあの薄暗い部屋で、白髪の老人から悪魔との契約の話を、興味深く聞くヨハネスの後姿を思い浮かべていた。

「そうして、魔法を習得して、ヴィッテンベルクへ再び帰ってきた彼は、その魔法の力を利用した『錬金術』の研究に没頭した。神学に重きを置き、悪魔と密接なつながりのある黒の魔法をルターは何度も非難したけれど、友人の忠告なんて、好奇心に胸を膨らませたヨハネスには通じなかったんだと思う。これは、俺の勝手な想像だよ」

 すっかり城門前から、ヨハネスの姿が確認できなくなる頃、再び、あたりが閃光に包まれた。そうして、次の場面。再び街角。ただし、そこはハイデルベルクの街角ではなくて、ヴィッテンベルクの城下町。太陽が西に少し傾き、お昼を廻ったくらいの時刻だったけれど、わたしはその町並みに見覚えがあった。

「ここは……」

 ヨハネスがヴァレンティンと言う人に殺されかけて、逆に黒の魔法でヴァレンティンを殺めた場所、と言いかけてわたしは口をつむいだ。

「錬金術に没頭するようになったある日、大学の地下の研究室にこもりきりだったヨハネスは、久しぶりに街に出かけた。買い物か、それとも気分転換か、そんなところだと思う。そこで、彼は運命的な出会いをする」

 阿南くんがそう言うと、お城のほうの道から、白いローブのヨハネスが空を見上げながら歩いてくる。そして、通りの曲がり角からは、バスケットを抱えたわたしたちより少し年上の女の子が走ってくる。わたしが、危ない! と思うよりも早く、二人は交差点で派手にぶつかり、同時に石畳に尻餅をついた。

「すみません、お嬢さん。お怪我はありませんか?」

 先に立ち上がったヨハネスが女の子に手を伸ばした。すると、女の子は恥ずかしそうに、めくれかけたにスカートの裾を直してから、ヨハネスの手を取る。

「こちらこそ、ごめんなさい。あら、手のひらをお怪我なされているじゃないですか!」

「いや、これくらいの傷、なんともありませんよ」

 そうは言っても、尻餅をついた拍子に擦りむいた手のひらは、傍から見ていても何だか痛そうだ。すると、女の子は、自らの服の袖をちぎって、それを包帯代わりにヨハネスの手に巻いた。

「お住まいにお帰りになられたら、きちんと手を洗ってお薬をつけてくださいね。擦り傷は油断していると、化膿して大変なことになりますから」

 丁寧な結びこぶをつくり、純朴と言う言葉の良く似合う、明るく真っ直ぐな瞳も、心の清らかな笑みも、それだけで美しいと言ってもいいのかもしれない、そんな女の子だった。

「彼女がグレートヒェン。ヴィッテンベルクの城下街に住む、中流階級の娘だったんだ。一目ぼれだったのかもしれないし、日増しに思いが募ったのかもしれない。だけど、ヨハネスが恋をするまでそんなに長い時間が掛からなかった」

 二人の出会いを見つめながら、阿南くんが言う。その瞳には、多少複雑な色が込められているような気がした。阿南くんは、そんな複雑な思いを押し殺すように話を更に続ける。

「三ヶ月も経たないうちにヨハネスとグレートヒェンは互いに想いあう仲になった。ヨハネスは、彼女のために沢山の贈り物をし愛を伝え、彼女はヨハネスのために心のこもった歌を歌い、それに答えた。学問と言う知的好奇心で勉学と研究ばかりに人生を費やしてきたヨハネスにとって、一番幸せで輝いていた日々だったのかもしれない」

 だけど、この時代「錬金術」は科学の先端で、科学そのものが悪魔の仕業と恐れられていた。そのため、神学者であるヨハネスの友人や、敬虔(けいけん)なキリスト教徒だったグレートヒェンの家族は、黒の魔法を修めた錬金術師のヨハネスと、ごく普通の街娘だったグレートヒェンの恋を認めなかった。特に、グレートヒェンのお兄さんだった、ヴァレンティンは。

 そして、悲劇が起こる。あの星の輝く夜空の下、二人が出会ったこの場所で、ヴァレンティンは懐にナイフを秘めて、ヨハネスを待ち伏せした。ヨハネスのことを、妹に付きまとう悪魔の男と決め付けて。

 最初からヨハネスに殺意があったわけじゃなく、愛する娘の兄と分かり合えなかったことを心のうちに嘆きながら、身を守るため仕方なく、ヴァレンティンを殺めたんだと思う。だけど、二人にとって悲劇だったのは、その場をグレートヒェンに目撃されてしまったことだった。

 場面は、街角にあるグレートヒェンの家に移る。愛する人のため、兄を殺めた相手が誰であるのか、胸に仕舞い込んだグレートヒェンは、日増しに苦しみ、やがて寝込むようになってしまった。ベッドの傍らには、お医者さまが、座りそして反対側には、お城から遣わされたと思われる男の人が居た。

「あなたの兄を殺めたのは、何処の誰なのです。お教えください」

 そう何度問われても、グレートヒェンはベッドに横たわり、ただうつろな瞳で天井を見つめた。そうして、彼女の心はすしずつ壊れていく。それは、まるで悲しみと絶望が彼女を蝕むように……。彼女が夢遊病に冒されたのは、それから間もなくだった。夜中になると、ふらふらとベッドを抜け出して、ヴィッテンベルクの街を徘徊する。その瞳に、生きているような色はまるでなかった。

 そんな折、ヴィッテンベルクの城下で赤ちゃんが次々と殺される、という連続殺人事件が起きた。その犯人は、悪魔崇拝者の仕業だとして、城下で大捕り物が行われた。その事件の真相は良く分かっていないらしい。真犯人が誰なのか、ヴィッテンベルクの領主さまにとって、それはどうでもいいことだった。ただ、見せしめのため、統治のために「犯人」が必要だった。

 それを運悪くと呼んでしまったら、この悲劇はあまりにも辛すぎる。でも、夜な夜な徘徊する、心を病んだグレートヒェンが、その容疑者の一人として捕らえられたことは、当然のことだった。もちろん、グレートヒェンは赤ちゃんを殺してなんか居ない。無実の罪だ。

 グレートヒェンが捕らえられたことを知ったヨハネスは、いても立ってもいられず、陳情を領主さまに申し出た。総ては、自分の所為。愛する人を守れるのは、今しかない。だけど、ヨハネス一人の陳情なんて、簡単に聞き入れてもらえるわけもなく、グレートヒェンはついに兄殺しの濡れ衣まで着せられ、「魔女」の烙印を押されて、白昼の広場で火あぶりの刑に処せられた。二度と魔女が復活しないように、肉体も魂も全部焼き払う、残酷すぎる処刑方法だ。

 そうして訪れた、幸せな日々の終焉。ただ一人の女性に恋してしまったばかりに、その愛する人を不幸にしてしまった。それは総て自分の罪。ヨハネスは何日も何日も泣いた。自分の過ちを恨み、こうなってしまったすべての運命と人を憎んだ。幾重にも憎悪の螺旋はヨハネスを取り巻き、やがて一つの決断へと促した。

『グレートヒェンを蘇らせる』

 彼は、彼の魔法の師に教えられた、禁断の術「悪魔との契約」をする。それは、すべて愛する人をもう一度蘇らせるため。『生命の魔法書』を完成させるためには、どうしても黒の魔法の本当の力が必要だった。もしも、悪魔と契約せずに黒の魔法を使い続ければ、わたしがそうなったように、黒の侵食が待っている。

「ヨハネスが、賢者の石で描いた魔法円で呼び出したのは、魔界の王の一人『メフィストフェレス』だ。ヨハネスは自らの命と引き換えに、メフィストに二十四年間の使役を約束させたんだ。彼の苗字『ファウスト』、つまり神さまに『祝福されしもの』が闇に落ちた」

 と、阿南くんが悲しげに言う。

 メフィストフェレスと契約したヨハネス・ファウストは、各地を放浪して、自らを売り込んだ。魔法の力を駆使し、時にはある国の戦争を勝利に導いたり、またある時には皇帝の宮殿で奇術や占いを披露しては、皇族を悦ばせて、富を得ていった。そのお金を使い、ヨハネスは古今東西の沢山の書物や技術を買い求め、それを研究して、一冊の魔法書を書き上げた。『レーベン』と名づけられたその本こそ、『生命の魔法書』だった。

 更に、グレートヒェンを蘇らせるためには、もう一つやらなければならないことがあった。その失った肉体を手に入れなければならない。だけど、グレートヒェンの体は、火あぶりにされて、もうこの世にはない。そこで、代わりとなる『器』を手に入れるため、旅を続けた。

 グレートヒェンの『器』となる体は、この世で最も神聖な魔力を秘めた体でなくてはならない。それでいて、グレートヒェンに勝るとも劣らぬ美しさを持ち合わせていることが条件だった。そのため、ヨハネスは風の噂を頼りに、北は北海、南は地中海、西は大西洋、東はエーゲ海にまで、足を運んだ。

 そして、ヨハネスは白い壁の家々と、真っ青な海と空が織り成す、とってもきれいなギリシアの街並みで、はヘレネーと言う女の人とであった。

「ヘレネーは、ギリシアの女神さまの名前でもあるの」

 中禅寺さんが注釈をくれた彼女は、わたしの遠い前世。エーゲ海のほとりの町で、明るくて朗らかに花売りの仕事をするヘレネーは誰からも好かれるような、とっても美しい女の子だった。

 だけど、ヨハネスは彼女の美しさよりも、彼女自身も知らない身のうちに秘めた膨大な魔力に気付いた。女神の名を持つ彼女こそ、グレートヒェンの『器』にふさわしい! ヨハネスがそう思ったことは想像に難くない。

「ヨハネスは、ヘレネーに紳士的な恋人として近づいたんだ。(けが)れを知らない清らかなヘレネーは、ヨハネスの胸の内に、違う女性のことを思い描いていたなんて夢にも思わなかったはずだ」

 阿南くんの言葉どおりヴィジョンは、仲睦まじいヨハネスとヘレネーの恋が描かれていく。そして、やがて恋は実りを結び、ヨハネスあの白い花の咲き誇る野原でプロポーズをした。彼の背後に、悪魔の影があるとも、そのプロポーズも愛の言葉もすべて偽りだとも知らず、ヘレネーはプロポーズを承諾し、ヨハネスの生まれ故郷、ハイデルベルクへ戻って、二人の新婚生活が始まった。ヨハネスは、近隣の貴族だったフォン・シュタウフェン男爵に仕え、彼の請うままに錬金術の研究をして稼ぎを得ることにした。

 そうして、一年余りが過ぎた頃、二人の間に男の子が生まれた。ヨハネスはその子に「ユストゥス」という名前を与えた。二人の新婚生活は幸せそのもので、傍から見ていてもうらやましく思うくらいだった。

 だけど、そんな生活さえもヨハネスにとっては、総て偽りのもの。自身が悪魔になったかのように、妻と息子の知らないところで、日夜愛した女性の復活のための準備を行っていた。

「彼は、ヘレネーに魔法を教えたんだ。もちろん、黒の魔法だよ。何度もその魔法を使わせて、やがてユストゥスが十三歳になるころ、ついにヘレネーの体に異変が起きた」

「黒の侵食……」

 わたしが呟くように言うと、阿南くんはゆっくりと頷いた。

 黒の侵食が進めば、心は完全に壊れてしまい、ヘレネーはヘレネーではなくて、ただ息をして、ただ生きるだけの「真の器」になる。ヨハネスはその時を待っていた。ヘレネーが空っぽの「真の器」になれば、あとは「生命の魔法書」を使って、天国からグレートヒェンの魂をヘレネーの体に入れればいい。

 だけど、自分の身に起きたの異変と、夫の心が偽りであったことを知ったヘレネーは、自らの体に火をつけて自殺を図った。『わたしの心も体も、あなたの思い通りにさせない』愛するヨハネスの裏切りに、絶望しながら、ヘレネーは自ら死を選んだ。

 ヘレネーの生まれ変わりと言っても、わたしにはその記憶がない。だから、そのときのヘレネーの絶望感や葛藤がどんなものだったのか、ヴィジョンを傍観するだけでは、到底分かるものじゃなかった。きっとその絶望は、わたしが知った絶望よりもっともっと深かったと思う。

 ヨハネスは、ヘレネーが息を引き取る間際、その体を失わないために転生の魔法「ヴィーダー・ゲブーアト」をかけた。ヘレネーの遺志なんて関係ない、彼の目的のために、ヘレネーは転生を余儀なくされたのだ。だけど、ヨハネスには世界のどこかに居るヘレネーの転生体を、探しだす余裕はなかった。なぜなら、メフィストフェレスと契約した二十四年のその日が迫っていたからだ。

 二十四年の使役の代わりに、命を差し出す……とうとうその日がやってくる。彼の命を奪ったのは、彼の息子ユストゥスだった。十三年の時を経て、とても正義感が強く、聡明な少年に育ったユストゥスは、ヘレネーから父の裏切りを聞かされ、悔しさと悲しみにくれた。だけど、心根の強かったユストゥスは、絶望に浸ることなく、父がしようとしている過ちに気付き、父との決別になろうとも、それを正す決意をした。そして、ドイツ中を駆け回り、一本の剣と出会う。

『ニーベルンゲンの指輪』という伝説に謳われる、英雄ジークフリートの剣、ノートゥング。青銅色に光るその剣だけが、黒の魔法を極めた父を倒すことが出来る唯一の武器だった。

「ユストゥスにとっては、ヨハネスはお父さんだった。だから、父親を殺すという決断は、本当に苦しくて辛かった。でも、もしもこの世を去ったグレートヒェンを蘇らせれば、生命の均衡は崩れて、世界は混沌に包まれる。その先に待つ、虚無の世界を誰も望んでなんか居ない。この世界に住む、沢山の人の幸せを、たった一人のために壊しちゃいけないんだ。そんなこと、グレートヒェンだって望んでなんか居ない」

 ユストゥスの生まれ変わりである、阿南くんの言葉は、まるで彼自身の言葉のように、わたしには聞こえた。

 そして、ユストゥスはお父さんをその手にかけた。総てがここで終わる、そう思ったのもつかの間、ヨハネスは二十四年の契約がついに来たことを悟り、次なる時代に希望をつなぐため、自ら転生の魔法を唱え、新しい体へと転生した。

「父親は宿願を果たすまで諦めない」と知ったユストゥスは、幸せだった想い出に別れを告げるように、森の奥にひっそりと佇む屋敷に火を放ち、放浪の旅に出た。いずれ、転生したヨハネスが成長し、再びグレートヒェンを蘇らせようとするその日が来る前に、多くの仲間を集めて、それを止めなくちゃいけない。その思いが結実してユストゥスは秘密結社「ワルブルガ」を創設した。魔女狩りを逃れ、隠れ潜むように生活する白の魔女たちを集め、ヨハネスを探し出し対抗するために作られた組織。その精鋭たちの中には、いつの頃からかヘレネーの生まれ変わりであった、過去のわたしもいた。

 そうして、ユストゥス、ヘレネー、ヨハネスは、何度も転生を繰り返しては、戦い続けた。世界が大きな戦争や革命で動乱に包まれても、その陰でずっと。時には、ヨハネスは時代の主導者に生まれ変わったこともあったし、わたしが世界に羽ばたくような女性だったこともあったけれど、お互いの立場は常に変わらない。愛するグレートヒェンを蘇らせようとするヨハネスの宿願も、それを止めようとするユストゥスとヘレネーの想いも。

 五百年……。途方もなく長い年月を、一人の女性の魂をめぐって、三人の生まれ変わりが、戦いあって来た物語。それは、とても長い映画を見ているような気分だった。だけど、その映画のエンドロールはまだ流れていない。

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