46. トーコとお父さん
「中野!」「中野さん!」「トーコ!」
誰かがわたしの名前を呼ぶ。わたしの名前は、中野東子。お父さんとお母さんがつけてくれた大切な名前。東は、太陽が昇り、朝がやって来る場所。これから愛娘に訪れる人生が、素晴らしい一日でありますように、と言う願いを込められている。だから、間違ってもわたしはヘレネーなんかじゃない。前世と同じ名前なのも、単なる偶然で、わたしはわたしなんだ。
「しっかりしろ、中野っ!!」
阿南くんの声がする。つよく肩を揺さぶられて、わたしは全身の痛みを感じた。特に背中から響く痛みは、お腹に突き抜けるようだったし、両腕の痛みは、肩先から強引にもぎ取られたような痛烈さだった。それでも、五体の感覚はしっかりしているし、血が流れているような感覚もない。そう言えば、わたしは退院したばかりだったことを思い出した。くっつきかけた肋骨がまた折れたりなんかすると……、恐ろしい想像はわたしを一気に目覚めさせた。
こうして、目覚めたとき、わたしのことを覗き込む友達の顔に、心配の色が浮かんでいるのを見るのは、これで何度目だろう。どうやら、わたしの魔法と綾ちゃんの魔法が正面衝突した際に生まれた、膨大なエネルギーで吹き飛ばされて、気を失っていたみたい。
「トーコ……」
わたしが目を開けたことで、覗き込むソフィの顔に俄かな安堵が浮かぶ。そんなソフィの肩先から見える、さかさまの夜空は、いつの間にか雷を伴った激しい雨が通り過ぎ、星が瞬いていた。でも、わたしの顔にぽたぽたと落ちてくる雫は? わたしは、そっと手を伸ばし、その指先でソフィの頬に触れた。わたしの指を涙が伝い落ちていく。
「よかった、気がついたみたいだな。ひやひやさせんなよ、まったく!」
そう言って、阿南くんは渋い顔をする。だけど、その仏頂面の奥には、少しだけ安堵の色がうかがえた。
「ごめん……みんな無事?」
「ああ、俺も、中禅寺も、ノルデンも怪我してないよ」
と、言いつつも阿南くんの服は泥まみれ。ソフィも、中禅寺さんも、泥とすすにまみれていた。それでも、みんな目立った怪我もなく、無事で居られたのは、我が家をうっそうと取り囲む、やや不気味な草木のおかげだった。一番の被害と言えば、中禅寺さんの小顔を三分の一も埋め尽くすほど大きな、丸ぶちのメガネ。ちょうど右のレンズに、見事なひびが入っている。
「中野さんの魔力が、少しだけ勝っていたのね。あなたの魔法が田澤さんの魔法を圧倒してくれたおかげで、みんな無事よ」
いつも通り、何事にも動じないような無表情の中禅寺さんだけど、ほんのかすかに、ひび割れメガネの奥に微笑を浮かべた。わたしは、体中の痛みをこらえながら、中禅寺さんの助けを借りて、上体を起こした。髪の毛に絡まった、枝葉がハラハラと落ちていくのと同時に、わたしの視界に、焦土のような光景が広がった。
爆発の起こった場所は、月のクレーターみたく窪み、周りの草木は黒こげになってしまっている。そして、秋が訪れ、やや色づき始めた木々は、クレーターを中心になぎ倒されて、爆発の凄まじさを物語っていた。
ケルン・エクスプロージオン。破壊のためだけの魔法の名が、ドイツ語で「核爆発」を意味するんだってことを知ったのは、もっとずっと後のこと。その名を聞けば、ほとんどの人が、この世で最も恐ろしい兵器の名前を思い出すはず。ケルン・エクスプロージオンは、まさにその力を魔法によって具現化するもので、最悪の破壊力は、この街を飲み込んでいたかもしれないと思うと、ぞっとしない話だった。
「そうだっ! 綾ちゃんは!? 無事なの?」
わたしははっとなって、あたりを見渡した。だけど、どこにも綾ちゃんの姿は見当たらず、爆弾でも空から降ってきたかのような、焦土と焦げ臭い匂いだけがあたりには充満していた。不意に、「まさか」と脳裏をいやな予感が走った。
「俺たちが、気がついたときにはもう、綾の姿はなかったよ。あれだけの爆発を、綾はまともに食らってるはずだ、無傷とはいえないけれど、でも、おそらく無事だと思う。あれしきのことで、やられるくらいなら、五百年も妄執に取り付かれたりなんかしないさ」
と、阿南くんは言いながら、わたしに併せてあたりを見渡した。
「どこへ行ったんだろう……綾ちゃん」
無事なのに、姿が見えないということは、もう何処か遠くへ行ってしまったのかもしれない。そして、それは同時に、綾ちゃんがすでに、ヨハネスとしての記憶と使命を取り戻してしまったことをあらわしているのに、他ならない。
どうして? 何で? 綾ちゃんはもう綾ちゃんじゃないの? 爆発の閃光の中で、最後に見た、綾ちゃんの顔は、少なくともわたしが知っている綾ちゃんなんかじゃなかった。あの、太陽みたいに朗らかな笑顔も、何処か放っとけないような繊細さもなく、そこに居るのは、紛れもなく、五百年の「もうしゅう」にとりつかれた、ヨハネス・ファウストの魂。わたしの親友「綾ちゃん」じゃなくて、祝福されしもの「ヨハネス」。そんなの認めたくない、と思えば思うほど、わたしの胸が、ぎゅーっと押さえつけられるみたいに、詰まってしまう。
「あの、あのねもしかしたら、ヨハネスさま……ううん、田澤さんは『異界』に居るかもしれない」
唐突に、ソフィが口を開いた。
「異界って、あの異界?」
そう聞き返したのは、中禅寺さん。また新しい単語の登場に、わたしは困惑を隠せなかった。すると、阿南くんがわたしの方に向き直って、「異界っていうのは、ここではないここのことだよ」と、更にわたしを困惑させることを言う。
「要は、時間も場所も同じだけど、次元の異なる場所のことだ。魔法空間『フェルド』もそれに近いけれど、魔法によって擬似的に作り出された空間じゃなくて、最初から存在する異次元の世界。魔界と、人間界の間にあるんだ」
「じゃあ、田澤さんは、そこに逃げたの?」
中禅寺さんが尋ねると、ソフィはこくりと頷いた。
「傷を癒すためには、うってつけの場所だから。魔法も、科学も通用しない、ここだけどここじゃないここ」
「異界となると、ちょっと面倒だな」
阿南くんは立ち上がると、綾ちゃんの立っていたあたりを見つめた。「ここだけどここじゃないここ」は、その場所にあって、わたしたちの目には見えないし触れることも出来ない。
「人間が異界に行く方法はないんだ。悪魔と契約でもしない限り、次元を超えることなんて出来ない」
「つまり?」
「綾自身が、異界から戻ってくるまで、俺たちは何の手出しも出来ないってことなんだ。まあ、反対に、異界から人間界に干渉することも出来ないから、その間に俺たちも、鋭気を養うチャンスはあるんだけど、裏を返せば、今度は全力で来る綾と、真っ向勝負しなきゃならない。あいつは、グレートヒェンのための器であるヘレネーをみすみす諦めたりなんかしない」
じっと、そこに存在するはずの異界を見据える瞳は、僅かに悲しそうな顔をしていた。阿南くんは、どうしてヨハネスの記憶を封じて、綾ちゃんという人格を与えたりしたんだろう。どうして、生命の魔法書をトーコの家から盗み出して隠したりしたんだろう。どうしてすべてを隠していたんだろう……? 彼の瞳が本当に見ているものが、一体何なのか、疑念じゃなくて、友達としてわたしは気になった。だけど、そんな思索を打ち破るように、我が家の方から駆けて来る足音と、わたしの名を呼ぶ声が聞こえた。
「東子っ!!」
真っ青な顔をしたパジャマすがたのお父さんは、爆発に眠りの世界から叩き起これたことよりも、森の入り口が焦土と化していることよりも、わたしが泥まみれになっていることの方に驚いたみたいで、駆け寄ってくるなり、周りの目も憚らずにわたしを抱きしめた。
綾ちゃんの……ヨハネスの魔力は、底知れない。十三年前、中禅寺さんを産んだばかりだった彼女のお母さんや、ワルブルガの精鋭たち、そしてわたしの前世であるトーコを、たった一人で相手して、生き残った相手。悪魔と契約して、五百年もの間、宿願をかなえるための執着心から生まれる、魔法の力は、わたしたちの比ではないかもしれない。しかも今度は、わたしと阿南くんと中禅寺さんの三人だけで戦うことになる。以前にも増して、分が悪すぎる。それでも、阿南くんは、「とにかく、今は鋭気を養うことが肝心だ。俺たちで、五百年の歴史に終止符を打つんだ」と言った。
ヨハネスが異界から戻ってくるのがいつか何て分からない。どんな手を使ってくるのかも、想像できない。行動原理そのものが、すでにわたしの知っている綾ちゃんのそれとはちがうんだ。だけど、いずれにしても、次にヨハネスと会うときが、最後の戦いになる、という予感は、わたしたち共通の認識だった。
わたしたちが、ヨハネスに負ければ、この世界に未来はない。ヨハネスは五百年の宿願を叶え、「失われた命は取り戻せない」という自然の理は崩壊し、その先に待っているのは世界に対する黒の侵食。混沌につつまれ、虚無だけになる世界……。その世界には、わたしの大好きな人たちは誰も居ない。そんな世界は、誰も望まない。少なくとも、わたしたちは。
ともかく今後の作戦を立てるためと、疲れを癒すために、わたしたちはひとまず解散した。お父さんは何があったのか、わたしに問いただしたいような顔をしていたけれど、みんなが帰ってすぐに、わたしは電源が切れたみたいに、眠ってしまった。
そうして、深い眠りの後、新しい朝を迎える。いつもなら、目覚まし時計が「起きろっ!」とせかすよりも先に、ヴェステンがわたしのことをたたき起こしてくれるのだけど、そのヴェステンは光になって消えた。騒がしかった家族が一人消えただけで、こんなにもわたしの部屋は広く、静かだったんだと気付かされて、寂しい気持ちになりかけた。
どうやら、わたしは目覚まし時計の音も聞こえないくらい、眠りこけていたらしい。ベッド脇の棚においてある、愛用の目覚まし時計は、すでにお昼の十二時を指し示していた。今日は平日。中学生らしくきちんと学校に行かなくちゃ行けないのだけど、すっかり遅刻だ。「お父さん、何で起こしてくれなかったんだろう?」と、思いながらも、わたしはあわてて、制服に着替えて階下に降りた。
転ばないように細心の注意を払って、階段を駆け下りると、ブルーシートに覆われた半壊した玄関ホールが視界に飛び込んでくるとともに、リビングの方から話し声が聞こえてくる。誰だろう? わたしはそっとリビングに近寄り、ドアを開けた。
「おはよう、東子。なんだ、なんだ、制服なんて着て。今から学校に行っても、大目玉食らうだけだぞ!」
そう言って、振り返ったお父さんが、がははと暢気に笑う。そのあまりにも、日常的な光景に、わたしはぽかんとしてしまった。みれば、食卓には、おいしそうなお昼ご飯が並んでいる。店屋ものではなくて、手作りらしいけど、料理下手選手権があったら間違いなく、世界王者になれるお父さんの作ではなさそうだ。
「お、おはよう……」
おずおずとした、自信のない声が、キッチンの方から聞こえてくる。わたしのエプロンを身に着けて、炊飯ジャーから、わたしの分のご飯をよそうのは、ソフィだった。
そうだ。昨日「どうしても、家に帰りたくない」と言う、ソフィを泊めたんだということを思い出した。ソフィは両手でわたしのお茶碗を持って、やって来ると、
「あの、あんまり美味しくないかもしれないけど」
と言いながら、それをわたしに差し出した。炊き立てのご飯のいいにおい。そのとたん、わたしのお腹がきゅーって鳴る。
「女の子がはしたないぞ、東子。ほれ、お前も座って、ソフィちゃんの料理食べてみろ。美味いぞ」
「う、うん」
お父さんの、底抜けな明るさに、やっぱりわたしはぽかんとしたまま、鞄をソファに放り投げて、食卓に着いた。メニューは豪華で、白身魚の南蛮漬けに海老チリ、から揚げに溶き卵のスープ。まるでレストランみたいだ。
「あの、泊めてもらったお礼だよ。その、ホントにごめんね、迷惑かけちゃって……」
ソフィはエプロンを脱ぎながら、少しだけ悲しそうな顔をした。
ソフィの家は少しだけ、複雑だった。そもそも、ソフィはヨハネスが転生体として用意していた人造人間「ホムンクルス」で、ソフィの両親は実の親じゃない。ヨハネスによって失敗作の烙印を押されて、捨てられたソフィを拾って育てたのは、ドイツ人のノルデンさんという夫婦だった。それだけでも十分複雑なのだけど、更に複雑なのは、ソフィのお父さんがお母さんと離婚して、再婚したのが日本人のお継母さん。ソフィがドイツ人のハーフだと言っていたのも、その辺りに理由があるのだけど、どちらかと言えば、大人しくて控えめなソフィと、自我のつよいお継母さんはなかなか、親子として馴染めなかった。仕事で忙しく駆け回るお父さんを他所に、毎日喧嘩の絶えない日々。大人しいソフィはいつも、お継母さんに口汚く「拾われっこ」と罵られる。
「お継母さん、悪い人じゃないの。ただ、わたしがこんなだから、失敗作だから、どう接していいのか分からないだけ」
と、ソフィはわたしに話してくれた。もちろん、「失敗作」発言には、デコピン一回。そういう約束だから。別に、ソフィはお継母さんのことを嫌っているわけじゃない。だいたい、そういう子じゃない。きっと、それはお継母さんも分かってるはずだ。だって、わたしと過ごしている時間より、ずっと長い間ソフィの事を見てきたんだから。
「田澤さんのこと、全部終わったら、ちゃんとお継母さんと話してみる。わたし逃げないよ」
ソフィは、わたしのデコピンで赤くなった、おでこを抑えながら言う。きっと大丈夫、ソフィならできるよ。わたしはそっと心の中で思った。
「迷惑だなんて、部屋がいっぱい余ってるくらい、バカみたいに広い家だから、全然構わないよ」
わたしがから揚げを頬張りながら言うと、隣席のお父さんは顔をしかめる。
「バカとはなんだ! 俺が真面目に、こつこつと公務員生活続けてきたおかげで、こんな広い家に住めるんじゃないか」
「時々水道の蛇口が取れちゃうくらいの、中古だけどね」
「それは、言いっこなしだ!」
お父さんは口をへの字に曲げてから、また、がははっと暢気に笑った。わたしもつられて笑うと、笑いが連鎖するみたいにソフィにまでうつった。こんなに平穏な食卓を囲むのはいつ以来だろう。ノインテーターの出現から、わたしは家族の顔をまともに見ていないような気がした。
お父さんには、魔法のこと、わたしの身に、世界に起きてることを伝えなきゃいけない。この前みたいに笑われて終わりかもしれないけれど、それでもお父さんには、きちんと知っておいてもらいたい。わたしは、ソフィの作ってくれたお昼ご飯を食べながら思った。
お昼を食べ終えたわたしは、学校に行くことを諦めて、親公認というとんでもない初のサボりをすることにした。まあ、お父さんも休暇をとっているみたいだし。
さて、どう話したものか。この前みたいに、いきなり「わたし魔女です」なんてカミングアウトしても、一笑されて終わり。そのうち「頭を打ったのか?」なんて変な心配されるのも、違う気がする。上手く伝えるには、わたしの話力が不足していることを、痛感せざるを得なかった。
午後ののんびりした時間をわたしとソフィはリビングで過ごした。ぼんやりと、テレビを観ながら、ソフィは時折窓の外に目を遣る。きっと、お継母さんのことを考えているんだろう。わたしは、お父さんにどう切り出すべきか、この際ソフィの協力を仰ぐべきか……、いや、これは我が家の問題で、ソフィにはソフィで解決しなきゃいけないことがあるんだ、なんて、あれこれ考えていると、テレビの内容なんてほとんど頭の中に入ってこない。そうこうしているうちに、窓から西日が差す時間になってしまった。
「お父さん、話があるの」
とにかく当たって砕けろ。わたしは、決心を固めてお父さんに切り出した。すると、お父さんは何を思ったのか、わたしに車のキーを見せて、
「ちょっと、母さんの墓参りに行こうか」
と言い出した。そんな場合じゃないんだよ、と返したかったけれど、お父さんの声がやけに昔のお父さんの口調だったのに、わたしは少しだけ驚いて、それ以上何も言い出せなかった。
「夕飯の支度して待ってます」という、ソフィを残し、家を出る。車は、引越しのときに使って以来、家の外に作りつけられている、納屋でほこりを被っていた。普段お父さんは、バスで市役所へ出勤するし、買い物なら徒歩でも済む。この家に引っ越してきて、一番無用の長物になったのが、白い自家用車だった。
森の道を車で駆け抜けると、その入り口にクレーターがある。なんでも、午前中に警察の人が来たらしい。おとうさんは、知らぬ存ぜぬを通した。わたしは知らなかったことだけど、森自体は、我が家の土地ではなくて、市の管理する場所らしい。つまり、あの舗装されていない森の道は公道の一部で、わたしは公道にクレーターを作ってしまったのだ。
お母さんのお墓があるのは、ここから一時間ほど走った、プロテスタント系キリスト教の墓所にある。墓所に着いたわたしは、ヨハネスと言い合いをしていたマルティン・ルターと言う人は、プロテスタント(新教徒)の始祖に当たる人だったことを、ふと思い出す。
秋風がススキを揺らす、とても見晴らしのいい高台に、墓標と十字架が立ち並ぶ。その一角に、お母さんのお墓がある。「Kyouko Nakano」とアルファベットで書かれた墓石は、この中で一番目新しいものだった。
「ずっと、来ないままだったからな……」
お父さんはそう言いながら、行きがけに買った黄色い花束を、墓石の前に置いた。お母さんが好きだった花だ。と、その拍子に、墓所の隣に立てられた小さな協会の鐘が、高台に鳴り響く。とても、深い音色にわたしたちはしばらく耳を傾けた。
「ここに来たら、今日子が居なくなってしまったことを認めてしまうような気がして、それが怖かったんだな」
鐘が鳴り終わるのを待って、お父さんは言った。お母さんが死んで辛かったのは、わたしだけじゃない。お父さんの人が変わったみたいな明るさは、寂しさの裏返しだったのかもしれないと、わたしは花束を見つめながら思った。
「それで、話ってなんだ?」
唐突にお父さんの目がわたしの顔を見る。
「あのね、お父さん……前にわたし、魔女だって言ったの覚えてる?」
「ああ」
「あれ、嘘じゃないの。わたし、あの家に引っ越してきて、地下室でヴェステンに出会って……」
「知ってる」
わたしの言葉をさえぎるようにお父さんが言った。わたしは思わず驚いてしまった。どういうこと?
「イルリヒトっていう火の玉のお化けから聞いたよ。お前が、魔女の生まれ変わりで、ヨハネスという魔法使いと戦っていることや、ヴェステンがただの猫じゃないってことも、母さんを殺したのが、トイフェルという魔物だってことも、全部知ってる」
そう言って、お父さんは僅かに笑った。そうだ、ノインテーターがウチで暴れた後、ヴェステンとともに発見されたイルリヒトを、地下室に戻した人が居たはずだ。そうじゃなきゃ、浜名さんたち警察の人たちが、いまごろ大慌てになっているはずだ。つまり、イルリヒトを地下室に戻したのは、お父さんだったんだ。どうして気づかなかったんだろう。
「俺が子どもの頃に読んでたマンガみたいな話、そう容易く信じられるわけないと思ったさ。まして、俺の娘が魔女だなんて、よっぽど能天気じゃなきゃ、いい大人が信じられるわけがない。でもな、目の前には火の玉のお化けが居るし、お前がヴェステンに話しかけてのを何度か見たことがあったしな、魔法なんてマユツバだと疑うほうが無理だった」
「じゃあ、どうしてこの前は、知らないフリなんかしたの?」
「そりゃ、お前が随分思いつめた顔をしてたからだよ。自分ひとりで、母さんの仇を討ってやる、と顔に書いたあった。みすみす、娘に危険なことをさせたがる親が何処にいる?」
さすがは、お父さん。全部お見通しだった。知らないフリをしたのは、わたしを心配してくれたからなのに、結局わたしは憎しみに囚われて、前後不覚になって危うく、負けそうになった。
「でも、まだ終わってないの。ヨハネスが、宿願をはたしたら、この世界はひどいことになっちゃう。こんなきれいな夕日も二度とみれない」
わたしは、高台の墓所から見える夕日を瞳に映した。遠い山並みに沈む太陽は、金色の光を放ちつつ、眼下の町を染め上げている。
「それって、とても寂しいことだと思うの」
「だけど、そのヨハネスとかってヤツをやっけるのは、お前がやらなきゃいけないことなのか? 他の誰かに任せてはいけないのか?」
「わたしにしか出来ないことなの。ヴェステンはそう教えてくれた。最初は、良く分からないまま巻き込まれたような気分だったけど、今は違う。わたしがやらなきゃ、わたしは魔女トーコの生まれ変わりだから」
とわたしが言うと、お父さんは少しだけため息を吐き出した。ため息は、そのまま秋風にさらわれてどこかに飛んで消えていく。
「そうか……俺には、転生だとか、魔法だとか、世界の危機だとか、やっぱり冗談にしか聞こえない。だから、ヨハネスと戦うと言う、お前を止める方法も思いつかない。でも、これだけは確かだ。たとえ前世が何であろうと、お前はお前だ。紛れもなく、俺と今日子の一人娘だ」
お父さんの手がそっとわたしの頭に伸びてきて、わしわしとわたしの頭を撫でた。
「母さんが言ったことだけは絶対に忘れるな。『辛くても、寂しくても、笑顔を絶やさないで』ってことだけは約束だ」
「うん。分かってるよ。だって、お母さんとの思い出は、わたしだけの記憶だもん。もう二度と、お母さんに会えなくても、お母さんは、ちゃんとわたしの心の中にいるから。その言葉だけは、絶対に忘れない」
そう言って、わたしはニッコリとお父さんに微笑んだ。辛くても、寂しくても、笑顔を絶やさない。難しいことのように思えるけれど、悲しみや憎しみからは希望なんて生まれない。無理してでも笑ってたら、きっと暗闇のトンネルを抜け出すことが出来る。そのとき、わたしの傍には、わたしの大好きな人たちに居て欲しい。そのなかには、ちゃんと、綾ちゃんも含まれているんだ。
「よし、ソフィちゃんが待ちくたびれる前に帰ろうか」
お父さんがぽんと膝を叩いた。だけど、わたし「もう少し、夕日を見てる」と言って、じっとお母さんの墓石に立つ十字架と、金色の夕日を眺めていた。
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