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45. ヨハネス

 見たくないもの、知らなきゃよかったと思うもの。そういうものが、いくつもあって、世界の半分は構成されていると言ってもいいのかもしれない。もっとも、わたしの人生なんて、たったの十三年。三倍生きても、まだ、四十歳にも届かないくらい。そんなわたしが語ったところで、大人はみんな鼻で笑うだけだと思う。人生と言う長い時間の中で、出会うことになる辛い現実はこんなものではないだろうし、これからもっともっと辛いことに出会うかもしれない。それでも、目の前に示された現実は、わたしにとって充分に辛いものだった。

 本当は、前世のトーコに言われる前に、もう分かっていた。ううん、最初から。アルプを追いかけたあの夜、初めてヨハネスに出会ったときから気付いていた。仮面の奥でくぐもった声。だけど、どんなに声を作っても、わたしに分からないはずがない。だって、一挙手一投足の仕草も、その細くて柔らかな手のひらも、微かな笑顔も、全部わたしの知っているものだったから。

 ただ、わたしはそれを信じたくなかっただけ。信じれば、それがすべて現実のものになってしまう。それが怖くて仕方がなかった。それに、普段の彼女はそんなそぶりを見せたことは一度もなかったし、阿南くんも一度も教えてくれたりしなかった。

 でも、信じたくないものから目を逸らしちゃいけない。それは、ただ逃げているだけなんだ。迷いの先にあるのは悲しみ、悲しみの先にあるのは憎しみ、そして、その先にあるものは、混沌と虚無。そうなってしまうことの方がもっと辛くて、わたしたちは、わたしの選択はその未来に直結した立場に居るんだって分かってる。だから、目を逸らさない。だって、わたしは独りじゃないから。

「あなたは……」

 背中に、阿南くんたちの呆然と言うより唖然とした視線を感じながら、わたしはまた一歩ヨハネスに近づいた。ヨハネスは驚きを隠せない様子で、仮面を手にしたまま更に後ずさる。

「あなたは、綾ちゃんでしょ? そんなおかしな仮面とってよ」

 と、わたしが言うと、あらぬ方向からはっと息を呑む声が聞こえてきた。ソフィだった。どうやら、ソフィはヨハネスの正体を知らなかったみたい。両手で口を覆い、青い瞳を目いっぱい広げて、驚きを全身で表現する。一方のヨハネスはとても落ち着いていた。後ずさりを止め、背筋を伸ばすと、再び仮面の下で不敵に笑う。

「そう、バレてたんだ。やっぱり、トーコちゃんはすごいね」

 にべもなくそう言うと、ヨハネスは仮面を脱ぎ捨てた。ヨハネスの手から離れた仮面は、道の両脇にある茂みの方へと消え、フードの下にはわたしのよく見知った笑顔があった。

「すごくなんかない。声も仕草も、全部綾ちゃんだったから、気付かないわけないよ、それに……ううん、ずっと、そうじゃなければいいのにって思ってた」

「思ってたって、現実は変わらない。わたしは、そこにいる阿南結宇によって、ヨハネスの記憶のすべてを封印されたの」

 淡々と綾ちゃんは、言ってのける。その口調は、わたしの知る限りの綾ちゃんとは別物で、本当は綾ちゃんにそっくりな別人なんじゃないかと、心のどこかで現実から逃げ出したくなってしまう。でも、目の前に居るのはそっくりさんでも、ドッペルゲンガーでもなくて、正真正銘、わたしの親友だということに、わたしの心は引き裂かれそうになる。

「おかしなもので、綾として生きる限り、わたしはヨハネスとしての記憶を持たない、ごく普通の中学生でいられた。でも、結宇はわたしの相棒『メフィストフェレス』の力を見くびっていたようね」

「メフィスト?」

「そうよ、あなたにとってのヴェスくんのような……、と言ってもわたしの相棒は、悪魔。トイフェルの王よ。五百年前、わたしが賢者の石を使って契約したの。汝、二十四の歳月、我に従え! されば、我が肉体と魂を総て、汝に与える。契約の言葉は『Verweile doch Du bist so schon!』。刻よ止まれ、汝ほど美しきものはいない! ってね」

 綾ちゃんの言葉に、わたしはヴィジョンで見た光景を思い出した。窓も扉もない薄暗い小屋の中、賢者の石を右手にした、白いローブの男、ヨハネス。彼は、賢者の石をチョークのようにして床に魔法円を描き、悪魔を呼び出した。あれは、ヨハネスがメフィストフェレスを呼び出した瞬間だった。

「メフィストフェレスは、忠実なわたしの契約者。だから、二年近くもかけて、わたしの記憶に施された、封印を徐々に解いてくれたのよ」

「二年?」

「ええ、十三年まえ、前世のあなたに負けたわたしは、ボロボロになった肉体を捨てて、前もって錬金術で用意してあった完全体のホムンクルスに魂を移し変えた。ソフィ・ノルデンなんて大層な名前を名乗ってる、その子は八体のホムンクルス・ボディの失敗作のひとつよ」

 そう言って、綾ちゃんはソフィのことを指差し、冷たい目をする。

「ホムンクルスは、必ず男女の双生児として生まれてくるの。とは言っても、わたしも『生命の魔法書』の研究材料として『パラケルススの錬金書』を紐解いただけで、わたしの作った八体のうち、完全体だったのはこのボディ一つだけ。あとの七体は、男女問わずすべて、失敗作だった。そのうち六体は、四肢も満足に形成されなかったから、そういう意味じゃ、ソフィは失敗作の中でも成功例かもしれないわね。でも、不完全な能力、不完全な魂……失敗に変わりはない」

 そうか、以前ソフィを見ていて、何処となく綾ちゃんと似ていると思った意味がようやく分かった。ソフィが、ヨハネスの錬金術で生み出された人造人間であるように、ヨハネスのかりそめの姿、綾ちゃんも自ら作り出した、人造人間。

「男だったわたしが女の子になるのは、とても不本意だったけど、背に腹は変えられなかった。そして、ホムンクルス・ボディに転生してから十一年かけて、トーコ……あなたを探して、世界を旅したのよ。でも、それは、砂漠の真ん中でたった一粒のダイアモンドを探すようなもの。だって、前世のトーコが何処の誰に『ヴィーダー・ゲブーアト』の魔法で転生したかなんて分からなかったから」

 遠い思い出話のように、綾ちゃんは語る。

「ようやく、なんとかあなたを見つけて、十三年前の決戦の地へと舞い戻ったわたしに、結宇は自分の幼なじみという架空の人格をわたしの記憶に上書きしたの。ひどいでしょ? でも、それが『田澤綾』という人格。すっかり馴染んでしまった『綾ちゃん』。それなりに楽しかったわ。ワルブルガの遠縁にあたる『田澤』の父と母は、ワルブルガの首魁である結宇の頼みを聞き入れて、わたしがヨハネスであること知りながらも優しくしてくれた。それに、結宇もわたしの前じゃ、ちゃんと優しい幼なじみを演じてくれるの。でも笑えるでしょ? 結宇は、ヘレネーの生まれ変わりであるあなたと、ヨハネスであるわたしの間に生まれた息子、『ユストゥス』の生まれ変わりなのよ。五百年前、今とおんなじ様な目つきで、わたしを悪魔に魅入られた者と罵って、その剣で刺したの」

「阿南くんが、ヨハネスの息子?」

「ああ、そうだよ」

 わたしの疑問に答えてくれたのは、阿南くんだった。阿南くんは、青銅色の剣を握り締めたまま、綾ちゃんのことを睨みつける。その顔は、ヴィジョンで観たユストゥスのそれとそっくりだった。

「でも、それは俺たちの前世の話だ。いや、そうじゃなきゃダメなんだよ、綾っ!! 過去は振り返るためにあるんじゃない」

「振り返らなきゃ、過去が存在する意味なんてないでしょ? 未来に希望を得るための糧、それが過去の役割。わたしは、ただ未来のために……」

「違うわ、田澤さん。あなたは、ただあなたの愛した不幸な娘、『グレートヒェン』のためだけに過去を振り返ってるのよ。それも途方もなく長い、五百年の月日を!」

 綾ちゃんの言葉に押し被せるように、中禅寺さんが声をあげた。

「グレートヒェンは、そんなことをあなたに望んでなんか居ないっ!! 目を覚ましなさい、田澤さんっ!!」

「知ったような口を利くな、ワルブルガの遺児っ!」

 綾ちゃんは急に眉を吊り上げると、魔法の杖を掲げた。機敏に反応した、阿南くんと中禅寺さんは、おのおのの武器を構える。

「待って、みんな……。もう、こんなことやめようよ、綾ちゃん。わたしの知ってる、綾ちゃんに戻ってよう」

 わたしは慌てて、二人を制して、視線だけ綾ちゃんの瞳に投げかけた。だけど、綾ちゃんは、口角を捻じ曲げてにやりと笑う。

「あなたの知ってる、綾ちゃん? 言ったでしょ、田澤綾なんて最初から存在しないの。わたしの宿願を邪魔するために、結宇が作った架空の人格。本当のわたしは、綾なんかじゃない! 祝福されしもの……」

 綾ちゃんは、すうっと空気を吸い込むと、一際大きな声をとどろかせた。

「ヨハネス・ファウストよっ!!」

 その声は、雨粒を吹き飛ばし、森の木々を揺らし、止まったままだった空気をビリビリと振るわせた。綾ちゃんが掲げた魔法の杖の、紫色した宝石が輝きを放つ。

「冥府の虚空に響く黒き雷鳴よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! ドンナー・レーゲン!!」

 魔法の言葉が終わるや否や、わたしたちの頭上に闇の空間が開く。

「阿南くん! ソフィを守って!」

 わたしは、阿南くんの返事を待たず、傘を闇の口に向かってかざした。

「黄の精霊、そは轟烈なる土の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を討て! 大地の盾、シュネル・エーアデっ!!」

 わたしが昇華応用の魔法を唱えるのと、闇の口から雷の雨が降り注ぐのはほぼ同時だった。でも、着雷するまでの一瞬のうちに、わたしたちの頭上に岩石の壁が覆いかぶさった。

「またしても、『昇華応用』っ!!」

 岩石の壁に阻まれて、雷の雨が次々と霧散していく様を観て、綾ちゃんが悔しそうに歯噛みする。すかさず、わたしは傘を構えなおす。

「青の精霊、そは清烈なる水の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を打て! 濁流の槍、ゲフリーレン・ヴァッサー!」

 傘に刻まれた魔法の文字がまばゆく輝き、それは一つに収束すると、うねりを帯びた水の奔流となる。水の奔流はぐるぐると螺旋を描きながら、綾ちゃんを目指した。「次から次へとっ!」綾ちゃんは、舌打ち交じりにそう言うと、再び杖を盾代わりに、奔流を防ごうとした。だけど、奔流はするりと綾ちゃんの体を迂回して、まるでロープが巻きつくかのように、綾ちゃんを縛り上げる。

「きゃあっ!!」

 綾ちゃんが……いや、ヨハネスが悲鳴を上げたのはそれがはじめてのことだったかもしれない。

「どうしてもっ、どうしても、器となることを拒むか、ヘレネーっ!!」

「わたしはっ、わたしはヘレネーじゃないっ! 中野東子だよ、綾ちゃんっ、忘れちゃったなんて言わせない」

「あなたこそ、自分の存在価値を忘れた愚かさを呪えっ。冥府の大地を凍らせる重力、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ!! タイルヒェン・レーゲン!」

 わたしの魔法に縛られたままの状態で、綾ちゃんは更なる魔法の言葉を叫んだ。もはや、その言葉は、綾ちゃんの言葉ではなく、ヨハネスの言葉。すでに、阿南くんが与えたという「綾ちゃん」の人格はもうないというのかしら……。

「危ない、中野さんっ! ヴィント・バックラー! ヴァッサー・プファイル!!」

 わたしの頭上と足元に闇の空間が開き、わたしをぺしゃんこにする重力場がせりあがって来るのを察知した、中禅寺さんが、二枚のカードを投げつけた。一つはわたしの頭上でストップしてクルクルと廻ると、描かれた「風の盾」の魔法円を発動し、わたしを重力の魔法から守ってくれる。一方、もう一枚のカードは綾ちゃんの眼前にまで飛んでいくと、三本の水の矢を発射した。

 矢は、身動きの取れない綾ちゃんの腕を、脇腹を、下腿を掠めていく。ぷつっと、ローブや洋服の裾が引き裂けて、そこから血が飛び散った。真っ赤な、人間の血だ。

「残念だけど、俺たちは負けない。三対一だ、綾っ!!」

 阿南くんは、ソフィを背後に隠しつつ、剣先を綾ちゃんに向けた。その気持ちがどんなだか、わたしに推し量る術はない。どうして、阿南くんが、ヨハネスの記憶を封印して、綾ちゃんの人格を与えたのか。その理由は分からないけれど、少なくとも阿南くんは、ユストゥスのように、綾ちゃんを殺めたいとは思っていないはずだ。

「わたしは、ヨハネス・ファウストっ!! 完全なる、シュバルツ・ツァオベライの使い手であるわたしがこんなことで、遅れは取らないっ!」

「違う、綾ちゃんは、悪魔に魅入られているだけ……。だって、そうでしょ? じゃないと、わたしがあげた星の貝殻のペンダントを、身に着けていてくれるはずがないもの!」

 わたしは傘の先端で、綾ちゃんの胸元に光る、星型の貝殻を指した。それは、わたしが綾ちゃんにあげたプレゼントだ。何よりもわたしと、綾ちゃんが親友であることの証だ。

「わたしは、悪魔に魅入られてなど居ない、悪魔を支配しているのだ!」

「綾ちゃんは、絶対にそんなこと言ったりしない。誰よりも優しくて、困っている人を見たら助けずにはいられなくて、でも結局助けられなくて、その人に恨まれても、悲しみや自分を押し殺して、いつも太陽みたいに笑ってる、そういう女の子。わたしや、阿南くんが好きなのは、そういう親友のキミだよ、綾ちゃん! わたしは、グレートヒェンの器になんかならない。『生命の魔法書』も渡さない! この世界を虚無になんかさせないからっ!」

 わたしは、天高く届くほどの声で言い放った。綾ちゃんは、両の歯をぎりぎりとかみ合わせると、恐ろしいほどの目つきで、わたしたちを睨み返した。

「すべてがままならず、魔法書も、器さえも手に入らないのならば、すべて最初からやり直しだ!! ここでお前たちを葬り去り、次の体にトーコを転生させてやるっ!!」

「わたしは、ヨハネスに言ってるんじゃない、綾ちゃんに言ってるんだ!! 赤の精霊、そは鮮烈なる炎の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を討て! 業火の矢、ブラント・フランメっ!!」

「黙れぇっ!! ヘレネーっ!! 冥府の閃光、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! すべてを滅ぼせ、焼き尽くせ! ケルン・エクスプロージオン!」

 わたしと綾ちゃんが魔法の言葉を言い終えたのは、ほぼ同時だった。でも、どちらが早くても遅くても関係ない。白の魔法の奥義と、黒の魔法最強の呪文、二つの持つエネルギーは膨大で、一気にぶつかり合って爆ぜれば、爆風がわたしたちを吹き飛ばし、激しい衝撃波が森を包む木々を、メキメキとなぎ倒していくことに何のかわりもなかった。

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