44. 新しい力
わたしが見た、ヨハネスの記憶。それは「夢幻のヴィジョン」と呼ばれる、ホムンクルスの力だと、ソフィはわたしに教えてくれた。それは、誰かの記憶、願望、未来、誰かの人生を夢と言う形で、幻の中で追体験させることができる。本来、ホムンクルスの力はこれだけにとどまらない。それは、過去を総覧し、あらゆる選択肢の先にある未来を予言する「予知夢」という能力の一端に過ぎない。
「だけど、わたしは失敗作だから……トーコに過去を見せることしか出来ない。未来に何が起こるのか、教えられないの」
光の中で、ソフィはわたしと向き合っていた。繋ぎあう小さな手のひらから伝わるのは、少しだけの温もり。
「大丈夫だよ。未来なんて、知るべきじゃない。知らない方がいい。それに、わたしの前世が言ってたでしょ、破滅を選ぶことはないって」
「でもでも、あの人はわたしがトーコに何か教えてあげたなんていってたけど、わたし、トーコに何も教えてあげてないよ?」
困った顔をして、ソフィが言う。わたしは、右手の新しいこうもり傘に目を落としながら、中禅寺さんの占いを思い出していた。
百発百中で知られる中禅寺さんのカード占い。彼女の勧めるまま、わたしが最初に引いた魔女のカードは、きっとわたし自身のこと。中禅寺さんは、机の上に並べられた悪魔のカードと死神のカードを指差して「迷うことや、くじけることにも出会うかもしれない」と言った。きっと悪魔のカードは、ヨハネスのこと、そして死神のカードはノインテーターを指し示していたんだと思う。そして、剣を持った鬼のカード、盾を持った騎士のカード、もう一枚の魔女のカードを指差して、中禅寺さんは「でも、あなたのことを見守る人もいる」と教えてくれた。鬼のカードは、きっと阿南くんのこと。鬼の持った剣は、青銅色に輝くノートゥングなのかもしれない。そして、盾を持った騎士は、わたしのことを最期まで守ってくれたヴェステン。魔女のカードは、中禅寺さん自身のこと。そして……赤ちゃんのカード。
中禅寺さんは「あなたが選ぶべきものを教えてくれる」と言って、そのカードを指し示した。赤ちゃん、それはホムンクルスの事を指していたのかも知れない。そして、前世のわたしも言った。
『ソフィがその身をもって教えてくれたこと、それを信じていれば、一番大切なものは何か、選ぶべき道は何か、おのずと分かるはずよ』
ソフィが教えてくれたこと……はっきりと言えるわけじゃないけど、友達を信じることだと思う。見たくないもの、知らなきゃ良かったと思うものに出会ったとしても、友達を信じる。それは、当たり前のことだけど、わたしは気付いていなかった。魔女になって長い月日、いつだってわたしの傍には、沢山の友達が居てくれた。そのことをソフィはわたしに気付かせてくれたんだと思う。きっと何があっても、大丈夫だよ。
信じていれば、きっと総てが上手くいく。大事なのは、何が正しい道なのか、見極めることよ
「心配いらないよ。わたしは大丈夫。もう、迷ったり、挫けたりしない。そのために、ソフィはわたしにヴィジョンを見せてくれたんでしょ?」
わたしは、視線をソフィに戻した。
「あれは……ただの時間稼ぎ」
「時間稼ぎ?」
と、わたしが尋ねると、ソフィは頷き「うん」と声に出してこたえた。
「ずっと迷ってた。トーコは優しいから、わたしにもちゃんと笑ってくれる。そんな優しい友達をを殺すことなんてわたしには出来ない。だから、ヴィジョンを見せている間に、せめて、時間稼ぎになれば、その間にわたしの決意が決まれば、そう思ってたの。だって! 使命を果たすことが、失敗作のわたしが生まれてきた意味だから」
ソフィにとって、あの涙は迷いの表れだったのかもしれない。それは、何よりも、ソフィがわたしのことを友達だと思ってくれている証拠で、それはとても嬉しいことだから、わたしもお友達としてお返ししなきゃ。わたしは、傘を小脇に挟んで、フリーになった右手の中指を親指に引っ掛け、それをソフィの真っ白なおでこにあてがった。そして、勢い良く、ぱちん!
「これから、自分のこと失敗作だなんて言ったら、その度にデコピンするから」
と、わたしは満面の笑みを浮かべた。ソフィは左手で額を押さえて、ちょっと涙ぐんで、驚きと戸惑いが混ざった表情をする。
「わたしは、ソフィが失敗作だなんて思わない。ホムンクルスだとか、そんなことは何の関係もない。ソフィはソフィだよ。わたしの友達。ほら、この手だって、こんなに温かい。それは、生きてるってこと。生まれてきたことは意味なんてなくても、絶対に、何があっても、失敗なんかじゃないんだよ」
「トーコ、ありがとう」
「さあ、帰ろう。阿南くんたちのところへ……」
そういいかけて、わたしは思い出す。そういえば、阿南くんたちも「夢幻のヴィジョン」の光に取り込まれたはず。阿南くんたちも、どこかでヴィジョンを見ているのだろうか、と思いかけたわたしの思考をさえぎるように、ソフィは頭を左右に振った。
「ううん、二人にはヴィジョンを見せてない。これはすべて一瞬の出来事なの。現実の時間では、一秒も経ってないの」
「そっか、じゃあ二人とも無事なんだね」
わたしがニッコリと微笑むと、ソフィは頷いて、額を押さえてた手を高く掲げた。ソフィのおでこはまだちょっと赤い。力強すぎたかしら、とわたしが思っていると、まばゆい光が徐々に収束し始めた。そして、あたりはコーヒーにミルクを混ぜるときのように、捻じ曲がった像を結んでいく。
雨の音、うっそうと木々が覆い茂る森。舗装もされてないくねった道。そして、夜の闇。そこは、我が家に通じる森の入り口だった。
「中野!?」
わたしの耳に、阿南くんの声が飛び込んでくる。阿南くんは、ソフィの放ったまばゆい光に頭をクラクラさせていた。そして、わたしがしっかりとソフィの手を握っているのを見て、眉をひそめる。
「一体なにが」と言いかけた阿南くんは、はっとなって「夢幻のヴィジョンか……」と得心したような顔をしてソフィに警戒の眼差しを向けた。
「大丈夫だよ、阿南くん。ソフィは、わたしに大切なことを教えてくれるために、わたしに夢幻を見せたの。ね、ソフィ」
そう言って、わたしはソフィにウィンクして見せた。わたしは、ソフィが夢幻のヴィジョンの中で、わたしの首を絞めたことは内緒にすることにした。わたしと、ソフィだけの秘密ってこと。少しだけソフィはばつが悪そうに顔を伏せたけど、わたしの同意を求める科白に、こくりと頷いた。
すると、阿南くんが小首をかしげ、わたしとソフィを交互に見て、きょときょとする。その姿が、ノートゥングを携えて勇壮にわたしのピンチを助けてくれた男の子にはとても見えなくて、何だか可笑しくなったわたしは、思わず噴出してしまった。
「なんだよ、中野! さっきまでどん底みたいな顔してたのに、いきなり笑い出すなんて。まさかっ、お前とうとう頭がおかしくなったのか? 前から、バカだバカだとは思ってたけど、しっかりしろ、中野っ!」
憤慨する阿南くん。たしかに、わたしが夢幻のヴィジョンを彷徨ったことは、阿南くんにとって、一瞬の出来事だったみたい。
「あれ? 中野さん……その傘」
けたけたと笑うわたしと、眉を吊り上げる阿南くんの隣で、わたしの手に握られたこうもり傘を見つけたのは、中禅寺さんだった。わたしは、何とか笑いを収めると、黒いこうもり傘を中禅寺さんに見せた。
「トーコに貰ったの。新しいわたしの力」
「は?」
今度は中禅寺さんがきょときょとする。「前世のトーコだよ。まあ、わたしそっくりだったけど」と、わたしが付け加えるように言うと、中禅寺さんはますます意味が分からないみたいで、困ったように、視線を泳がせソフィの方を見る。中禅寺さんがそんな風にするのは始めてみた気がする。またまた、笑いがこみ上げたわたしは、何とか笑いをかみ殺そうと、「くっくっくっ」と奇妙な笑い方をして、みんなの失笑を買うはめになってしまった。
「ホントに大丈夫か?」
阿南くんがものすごく心配そうにする。
「大丈夫だよ。ここのところ、ずっと笑ってなかったから。大丈夫、いっぱい心配かけてごめんね。阿南くん、中禅寺さん」
笑いすぎで目じりに浮かんだ涙を、そっと拭ったその時、何の前触れもなく、わたしは新たな気配を背後に感じた。その気配は、阿南くんたちも感じたらしい。すばやく振り返り、剣とカードを構え臨戦態勢を取る二人の動きの鋭敏さは、まるでアメリカのアクション映画なんかに良く出てくる特殊部隊みたいだった。
「ソフィ、下がってて」
わたしもソフィの手を離すと、庇うように彼女を後ろに下がらせ、新しいこうもり傘を構えた。貰ったばかりなのに、長さも重さも外見も、今まで使っていたお父さんのこうもり傘と変わりなく、しっくりと腕に馴染む。
やがて、忍び寄る気配が近くなってきたかと思うと、表の道路に面した森の入り口上空が、ぐにゃっと捻じ曲がり、トンネルのような口がぽっかりと開く。
「出来損ないのホムンクルスは、やはり使えなかったか。保険にもならない失敗作に、余計な魂など持たせるべきではなかったみたいね」
空間から染み出してくるように、ヨハネスの黒いローブがはためいた。
「空間転移の魔法……」
わたしの隣で、中禅寺さんが呟いた。それは、テレポーテーションみたいなものなのだろうか、と思っていると、ヨハネスはわたしたちの前に着地した。あたりは、一寸先ま見通しが悪いくらい、強い雨が降っているというのに、ヨハネスの体はちっとも濡れていない。
「それは、計算に入れてなかった。くそっ! こんなに早く追いつかれるなんて……今の俺たちじゃどうしようもないぞ、中禅寺」
「せめて、結界を張るだけの時間があれば……」
中禅寺さんが、スカートのポケットから、ちらりとカードをのぞかせる。そこに描かれた魔法円は、ヨハネスの作った橋の上の結界を破ったあのカードに描かれていた魔法円を上下反転させたようなデザインだった。どうやら、その魔法円が結界を張るための魔法らしい、と判断したわたしは、両手で傘を握りなおすと、ずいとヨハネスの前に歩み出た。
「中野っ!」「危ないっ!」阿南くんと中禅寺んが声を揃えてわたしを引きとめようとする。そんな二人に、わたしは自信たっぷりの笑顔を見せた。
「大丈夫、新しい力があるって言ったでしょ?」
「その傘は……!」
驚くヨハネスに一瞬の隙を見たわたしは、傘を振り上げた。
「赤の精霊、そは鮮烈なる炎の調べ。契約の名の下に、闇を打ち払う力となりて、敵を討て! 業火の矢、ブラント・フランメっ!!」
魔法の言葉を唱えるやいなや、傘に刻まれた魔法の文字が、強く輝いた。そして、傘の先端に、炎の力が宿る。それは、フランメ・プファイルの数倍、ううん、数百倍の重さと威力を備えた、火炎の渦となる。
「『昇華応用』だと!? なぜ、そのような力をっ!!」
明らかな焦りの色が、ヨハネスの顔に浮かんだ。昇華応用、ずっと前にヴェステンが教えてくれた。四つの色の精霊の力を、精神の鍛錬とともに極限まで高める、ヴァイス・ツァオベライの奥義。どんなに優秀な魔法使いでも、俄かに出来るような技じゃない。
「行っけぇっ!!」
傘を振り下ろすと、ごうごうと音を立てる真っ赤な炎の帯が、ヨハネスめがけて飛び立った。
「ええいっ。冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・シュパイク! アイン! ツヴァイ! ドライ! フュンフっ!!」
いち、に、さん、よんの掛け声とともに、ヨハネスの周りを、鉄のスパイクが覆いかぶさるように隆起した。それは、鉄の砦みたいに、ヨハネスを守る。だけど、渦を巻く火炎の帯は、威力を衰えさせることなく、鉄の砦に直撃すると、ドリルが鉄板に穴を開けるように、その堅いスパイクを抉り溶かしていく。
「やぁっ!」
わたしは更に傘に向ける力を強めた。体の奥から湧き上がってくる魔力をケチケチしないで、全部つぎ込むくらいの勢いだ。
「冥府の煉獄に鍛えられし鉄よ、我が名と魔界の王の名において、結晶せよ! アイゼン・レーゲン!!」
鉄の砦に守られているヨハネスは、更に魔法を重ねる。今度は、わたしの頭上に闇の空間が開く。わたしの魔法を止められないなら、魔法を使っている本人を攻撃するつもりらしい。
「させない! エーアデ・バックラー!」
中禅寺さんが、わたしの背後からカードを投げつける。カードはわたしの頭上で光を帯びて、そこに描かれた力を発揮した。何処からともなく砂塵が集まり、盾を形成すると、闇の空間から降り注ぐ鉄の雨をことごとく防いでくれる。
行ける! わたしは更に、傘の先端から伸びる火炎の帯に力を込めた。すると、徐々に鉄の砦から煙が上がり始める。このままじゃ、鉄の砦の中で蒸し焼きになってしまうと、ヨハネスが思ったかどうかは分からないけれど、ヨハネスは反動的に魔法を解いてしまった。その瞬間、ヨハネスに火炎の帯が直撃する。
激しい閃光と、轟音にも似た爆発。湯気と煙が混じったものが、空にたなびき、焦げ付いた匂いがわたしたちの鼻をつんと突いた。
「やった!?」
中禅寺さんが声をあげる。だけど、わたしも阿南くんも頷かない。轟音が止むと、少しずつ湯気と煙が晴れていく。こんなに簡単に、倒せる相手じゃないことを、わたしも阿南くんも、もちろん中禅寺さんも分かっていた。
「杖で防いだの……?」
煙の中に、紫色の宝石が輝く杖を構えたヨハネスの姿が現れる。それでも、無傷というわけには行かなかったみたいで、ローブのあちこちが焦げ付いていた。
「昇華応用を使いこなすなんて、やはり、ヘレネーの生まれ変わりである、あなたの魔力は他の誰も及ばない。あなたこそ、この世で一番、グレートヒェンの器に適している」
ヨハネスが仮面の下で笑う。
「ならば、今一度、絶望の底に落としてあげるわ!」
不敵にそう言うと、ヨハネスは自らの仮面に手を遣った。空気が止まる。あたりが一瞬凍りつくように、雨の音も、風に揺らぐ木々も、すべての時間が切り取られたようになる。
「やめてくれ、ヨハネスっ!!」
阿南くんが、真っ青な顔をして言う。でも、わたしは、そんな阿南に少しだけ微笑むと、傘を下ろして、ヨハネスに一歩近づいた。
「あのね、ヨハネス……わたし、あなたが誰なのか知ってる」
わたしが、落ち着いた声色で言うと、仮面を取るヨハネスの手が、ぴたりと止まった。
「あなたは……」
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