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43. 虚無の世界

 空も、足元も、眼前も、背後も、すべてが黒一色に染め上げられた世界。暗闇と言うのとは違う。すべてが黒いペンキでべたべたと塗られたような世界で真っ暗じゃない。でも、匂いも味もしないし、肩に掛かるはずの重力を感じるわけでもないのに、浮いているとも感じない。寒くもないし暑くもないけれど、空気それ自体が、わたしを重たく取り巻いているのに、手足を動かすことに不自由はなく、わたしは、ゆっくりと黒い世界を歩いた。何処かいく当てがあったわけじゃない。むしろさっきまでのヴィジョンと、明らかに違うこの世界に戸惑っていた。

「誰か居ませんか? 阿南くんっ、中禅寺さんっ! ソフィっ!!」

 歩きながら、上を向いて叫ぶ。声はそのままエコーもこだまもすることなく、どこかへと吸い寄せられていくみたいだった。

『世界の均衡が崩れ混沌が支配すれば、生まれ出でるのは魔界と同じ闇……』

 突然に声が響き渡る。わたしは脚を止めて、「誰? 誰かいるの?」と周囲を見渡したけれど、当然のように応答はない。その代わり、声はわたしなどお構いなしに続ける。

『闇の果てに残るのは、黒の世界。それを人は、虚無と呼ぶ。虚無とは、何もない世界のこと。人も、動物も、木々も草花も、風も、水も、火も、土も、命も、色も、未来も、光も、何もない世界。悪魔は、そんな世界を望む。それは、世界そのものに対する「黒の侵食」。ねえ、あなたは考えてみたことはない? この世界に奪われるものがあるのなら、奪われたものを取り戻す方法が欲しいと』

「奪われたものを取り戻す方法?」

『それがあれば、永遠に失われたものを、もう一度呼び戻せる。あの優しさも、温もりも、直に触れることが出来たら、それはどんなにステキなことかと。でも現実は違う』

 わたしの足元が、何かに触れる。目を落とすと、黒い塊。違う……血色に染まったヴェステンの亡骸。わたしは蒼白になって、ヴェステンの亡骸を抱き上げようと、膝を折った。すると、突然ヴェステンは光の粒に変わって、虚空へと消えていく。待って! 行かないでっ! わたしがそう声にしようとすると、まるでそれを制するように、再び声が聞こえてきた。

『失われたものは、二度と取り返すことが出来ない。それは、当然のこととして、人は涙を飲んで諦める』

「だって、だって! 死んだ人は、二度と生き返ることが出来ないんだよ?」

『諦めは、美徳のように語られるけれど、それは生きたいと願いながら死んでいった無辜の命にとって、罪悪に過ぎない。何故、わたしの命を諦めたの? わたしは生きていてはいけないの?』

 突然わたしの腕を誰かが強く掴んだ。わたしは思わず悲鳴を上げそうになって、振り返った。すると、わたしを見上げる目がひとつ。もう一つの目は、血に濡れて開いていない。そして、わたしの腕を掴むその手も、血だらけだった。わたしは怖くなって、その手を振り払おうとしたその時、微かな声が聞こえてきた。

「トーコ……トーコ、あたし、あんたを残して死にたくない……助けて、トーコ」

 辛くて苦しくて、かすれてしまった声。だけどその声は、わたしにとって忘れられない声だった。

「おかあさん?」

 わたしが問いかけると、血だらけの手は更に強くわたしの腕を握ってくる。その痛みも、目の前に横たわる血まみれのお母さんも、ヴィジョンという幻ではなくて、確かな存在感と現実感を伴っていた。やがて、お母さんの手から力が抜け落ち、そして、その体がすべて黒く塗りつぶされていく。最後に聞こえたのは、お母さんの悲痛な悲鳴だった。それが、ノインテーターの聞いた悲鳴だったかどうかなんて、わたしには分からない。ただ、愕然として、ただ恐怖して、わたしはお母さんの絶命の瞬間を見つめていた。これは、ヴィジョンなんだと、頭に言い聞かせながら。

『生きているものは、これからも幸福を得ることができる。でも、命を奪われたものは、二度と幸福を得ることなんて出来ない。生き返らせることなんて出来ないから、それが自然の理だから、と言って諦めてしまうことは、生きている人間が責任を放棄したのと同じ。助けられる命を助けないのと同じ』

 平坦に、抑揚なく、声はわたしの頭上に降り注ぐ。ふと、自分の二の腕を見ると、確かに血に濡れた腕で掴まれたはずなのに、そこに血の跡はなく、きれいなままだった。やっぱり、これは、幻なんだ。そう思って、わたしは強く頭を揺さぶって、立ち上がった。

『だから、ヨハネスは悪魔と契約して、二十四年の歳月を費やして「生命の魔法書」を作り上げた。たとえ、この身が朽ち果てようとも、この魔法が完成することは、ヨハネスの宿願を叶える。その宿願は、彼だけのものではない。あまねく世界中の人々が、望み願い、適わぬと信じていること』

「それで、世界が闇に閉ざされても、構わないって言うの? 答えて!」

 わたしは、空に向かって声を張り上げた。すると、微かに空気が笑ったような気がする。

『何もない世界……それは、裏を返せば、命が奪われることも、理不尽さや悲しみに泣くこともない世界。無こそ、最大の幸福。世界が本来あるべき姿、それが虚無』

 虚無と言う言葉だけが、妙な重さを伴って、わたしの心にずしりとのしかかる。そうか、このヴィジョンは虚無の世界を見せているんだ、と今更ながらにわたしは気付いた。そして、もう一つだけ、気付いたことがある。空から降り注ぐこの声に聞き覚えがある。魔法円でわたしにヴィジョンを見せている相手……。

「ねえ、隠れてないで出てきてよ。わたしの声、聞こえてるんでしょ? ソフィ!!」

 まるでわたしの呼びかけに応じたかのように、足音が聞こえてくる。そして、黒の世界から溶け出してくるように、目の前にソフィが現れた。ふわふわの金色の髪も、白い肌も、すこし自信なさげな顔も、ソフィのものだけど、透き通るようなブルーの瞳は、ノインテーターのあの恐ろしい瞳と同じように、赤く光っていた。

「ソフィ、あなたは一体……?」

「わたしは、錬金術師ヨハネスさまが生み出した、人造人間『ホムンクルス』よ」

 ソフィは、とても抑揚のない、無機質な声で語る。その声が、人造人間という聞きなれない単語を、よりいっそう浮き彫りにさせた。

「じんぞうにんげん?」

「そう。ヨハネスさまが、転生するための肉体として作り出した、ホムンクルスのうちの一つ。わたしは、その失敗作……だから、十三年の間打ち捨てられていたの。そして、あの日、海でメーアヴァイパーによって封印された使命を取り戻した」

「ちょ、ちょっとまって!」

 わたしは、ソフィの言っていることがよく分からなくて、戸惑ってしまう。でも、そういえば、あの日メーアヴァイパーは、つむぎちゃん家の秘書さんに化けて、ソフィをさらった。そして、海辺で何かの魔法をソフィにかけた。

「あれは、記憶の封印を解く、魔法円。記憶と言っても、わたしが『ソフィ・ノルデン』として生きてきた十三年の記憶じゃない。ホムンクルスの失敗作に与えられた、使命を呼び覚ますこと」

「じゃ、じゃあ、ソフィは……トイフェルなの?」

「違うわ、トーコ。わたしは、人間の細胞と魔界の力を錬金術で錬成して生まれたの。だから、トイフェルでも、ヴェスくんのような魔法生物でも、まして人間でもない」

 何の感慨もない、そんな顔をしてソフィは、自分のことを人間じゃないという。わたしは、どうしていいのか分からなくなって、頭の中がパニックになった。

「わたしの使命は、あなたが『器』となることを拒んだとき、あなたを殺め、そして次なる『ヘレネー』の転生体を作り出すこと。そうなることを予見されたヨハネスさまは、保険としてわたしとあなたを引き合わせた。だから、今ここで使命を果たすの」

 そう言うと、ソフィは両手をわたしに伸ばしてきた。その指先が、わたしの首筋を捉え、わたしは慌てて逃げようとしたけれど、何故か体が動かなかった。それがソフィの力なのか、それとも恐怖にわたしの脚がすくんだだけなのか良く分からなかった。

 ソフィの両手が、わたしの首すじをぎゅっと掴む。ゆっくりとその手に力が込められて、わたしの気管は一気に狭められた。とても細い指先もしなやかな腕も、全部がか弱くて、全部が可憐。ソフィとであったあの日、本当はいじめっ子が怖かったのに、ソフィを助けたいと思ったのは、わたしが白の魔法使いだったからだけじゃない。水をかけられ、蹴られて、罵られて、怯えながら小さくうずくまった、ソフィのことを守りたいと思ったからだ。でも、それも含めて、すべてヨハネスの思惑だったとすれば、ソフィと友達になりたいと思ったことも、ソフィの笑顔がとても可愛いと思ったことも、全部ヨハネスに仕組まれていたことなのかもしれない。

「ごめんなさい……トーコ」

 不意に、ソフィの声が震えた。息苦しくて閉じていた瞳をそっと開くと、わたしの目に、ソフィの透明な涙がぽろぽろと落ちていく様が映った。

「ソフィ、やめて。こんなことしたくないんでしょ?」

 わたしは声を絞り出した。すると、ソフィは子どもがイヤイヤをするみたいに、何度も頭を振って、もっと両手に力を込めながら、「うううっ」と唸り声を上げる。

「これが使命なの。あなたを殺せって、ヨハネスさまに言われてるの。そうじゃなきゃ、失敗作のわたしが生まれてきた意味なんかないの。失敗作だから、わたしは誰からも好かれない。青木さんたちにいじめられて、お継母(かあ)さんには『お前は捨て子だ』って罵られるの。いやなの、わたしは失敗作なんかじゃないのっ! それを証明するためには、あなたに死んでもらうしかないのっ!」

 すべての憎しみや恨みを吐き出すように、ソフィは泣きながらがなった。わたしは、そっとわたしの首を絞めるソフィの両手に触れた。人造人間として、ヨハネスに生み出されたソフィの十三年間に何があったのか、わたしは知らない。でも、わたしが知ってることが一つだけある。

「ソフィは、失敗作じゃないよ」

「トーコ?」

「ソフィはとっても大人しくて、誤解されやすいけど、ホントは笑うこともできるし、怒ることもできるし、誰かに優しくすることもできる。わたしはちゃんと知ってるよ。だって、わたしの大切な友達だもん。ホムンクルスだとか、失敗作だとか、そんなことどうだっていい。わたしが好きなのは、ソフィっていう友達だから……。それ以外に必要なことなんてないよ」

 息苦しくて、もうだめかもしれない。そんな風に感じながらも、わたしはソフィに微笑みかけた。それは、阿南くんと、中禅寺さんがわたしにくれた、ちょっとズルい「友達スマイル」だ。でも、心からの笑顔。

「ソフィ……」とわたしは、優しくソフィの名を呼んだ。少しずつソフィの両手から力が抜けていき、代わりに、大粒の涙をこぼし始める。邪悪なほどに真っ赤だった瞳の色が、もとの透き通ったブルーに変化していくと、もうそこには、わたしの知らない「ホムンクルス」ではなくて、「ソフィ」がいた。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 うわあん、と声を立てて泣きながらその場にしゃがみこむと、ソフィは何度も何度もその言葉を繰り返した。であったあの日と同じだ。そう思いながら、わたしはソフィの細い肩を抱きしめた。

「泣かないで、ソフィ。わたしは、お父さんやヴェステンや、阿南くん、綾ちゃん……わたしの傍に居てくれるみんなと同じくらい、ソフィのこと大好きだから」

 わたしが言うと、ソフィはしゃくりあげながらも、わたしに頷き返した。すると、突然ソフィの胸の辺りから、光があふれ出した。まぶしいのに目を伏せなくても、その光を見つめていられる不思議さに驚いていると、その光は、あっという間に黒の世界を、光で満たしていく。

 そこは、見渡す限り一面に白い花が咲き誇る野原。風は穏やかに草木を揺らし、突き抜けるような青空には、羊雲が浮かび、小鳥が歌いながら舞う。ここは……ヴィジョンで見た。ヨハネスがヘレネーにプロポーズした場所だ。昼と夜の違いはあるけれど、間違いない。あの時と同じように、花畑の真ん中には、誰かがしゃがんで、両手に白い花束を作っている。

 わたしとソフィは、手をつないで立ち上がった。すると、白い花の花畑の真ん中に座っていた、一人の女の子がすっと立ち上がり、わたしたちの方を振り返った。

「あの子……トーコ、そっくり」

 ソフィが涙を袖で拭って、女の子を指差した。ソフィが驚いたように、わたしたちの方を向いて微笑む女の子の顔は、わたしにそっくりだった。わたしは、ソフィの手を引いて、ゆっくりとわたしそっくりな女の子に近づいてみた。

「あなたは、ヘレネーさん?」

 と、わたしが問いかけると、女の子は「いいえ、違うわ」と答えた。まさか、ドッペルゲンガー? そう言えば、ドッペルゲンガーってドイツ語だ。なんて、思っていると、女の子は楽しそうにクスクスと笑って、

「それも違うわ。わたしはあなた。あなたはわたし。つまり……わたしはトーコ。あなたが、前世と呼ぶトーコよ」と、言った。

「前世のわたし!?」

 わたしの驚きようと言ったら、びっくりマークを十個ぐらいつけたくなるほど。そんなわたしの顔を見て、トーコはまた、楽しそうに笑う。

「ええ、はじめまして。こんな形で、現世のトーコと出会うとは思っても見なかった。本当はね、あなたにヨハネスのことを押し付けたくなかった。そうならないことを願った。でも、運命は決まってる。神さまが決めたわけでも、悪魔がきめたわけでもなくて、わたしとあなたが決めたこと。だけど、あなたはわたしであって、わたしじゃない。中野東子。わたしよりずっと優しい、女の子」

「そんなこと……ないです」

「あなたは優しい女の子よ。だから、その子に道を教えてもらえたのよ」

 と言って、トーコがソフィの方を見た。ソフィはきょとんとしてわたしの顔を見る。わたしは何のことだか良く分からなくて、トーコの顔を見る。すると、わたしの視線を受けて、トーコは急に真剣な顔になってわたしに向き直った。

「これから、あなたは真実を知ることになる。五百年前のこと、これからのこと。その中には、知りたくないこと、知らなきゃ良かったと思うこともあるかもしれない。そして、あなたは一つの選択を迫られる。運命を選ぶか、それとも未来を選ぶか。どちらか一方は破滅」

 その言葉……前に、中禅寺さんから聞いた言葉だ。

「でも、あなたなら大丈夫。ソフィがその身をもって教えてくれたこと、それを信じていれば、一番大切なものは何か、選ぶべき道は何か、おのずと分かるはずよ。破滅を選ぶことはけしてないわ。だから、心配なんかしないで」

 そう言うと、トーコはわたしに白い花束を差し出した。トーコの言う言葉の真意が汲めないわたしは戸惑いながらも、その白い花束を受け取った。すると、その花束がまたも光に包まれ、光の中で徐々に形を変えていった。そうして、わたしの両手に現れたのは、一本の黒いこうもり傘。柄と傘のふちには、魔法の文字が刻まれ、淡い光を放っている。

「これっ」

「あなたが失った、あなたのこうもり傘。きっとこれからも、あなたの力になるはずよ、トーコ。白の魔法はとても難しい。人のことを嫌ったり憎んだりすれば、すぐに使えなくなる。でも、心に優しさ、他人のことを好きになる気持ちがあれば、あなたに力を与えてくれる。その力は、癒しにも希望にも変えられる無限の力よ」

 トーコがわたしに微笑みかける。

「もうわたしには、『がんばって』って言うことしか出来ない。でも、言わせて、トーコ。がんばって!」

「うん、わたしがんばるよ、トーコ」

 わたしも、トーコに微笑みかける。そして、もう何度目かの光がわたしとソフィの体を包み込んだ。そして、視界が光だけでいっぱいになるまで、わたしはトーコに貰った新しいこうもり傘を強く握り締めた。

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