41. 友達スマイル
雨足は、五分と経たないうちに、雷鳴とともに激しくなった。まるで真夏の夕立のように激しく、わたしたちの肩を打ちつけた。でも、夏はとっくに終わっている。雨に濡れた体はどんどん体温を奪われて、肌に張り付く服が冷たい。それでも、この足を止めるわけには行かなかった。
橋から続く隣町への路は、果てしなく夜を走っていく。路の両脇には、統一性のない高さのビルや、住宅が雑然と並んでいた。ちょうど、街道沿いといった雰囲気だ。相変わらず、その道を走る車や、人影は見当たらず、町全体が眠っているみたいだった。
わたしたちは、そんな街道をひたすら走って、ヨハネスの追尾から逃げた。中禅寺さんは、ややメガネを曇らせながら、わたしの肩を抱えて走り、少し後ろには、厳しい顔をした阿南くんが「ノートゥング」と呼ばれ、魔法の文字が刻まれた青銅色の剣を握りしめて、わたしたちの周囲を警戒している。
「中禅寺を呼び出してたら、遅くなっちまった。もう少し早ければ、あの猫を助けられたかもしれないのに……ごめん」
阿南くんが辺りを見回しながらわたしに言った。わたしは黙って俯いた。
「ヴェステンは、どの道そう長くは持たなかったわ。ノインテーターの刻印は、生命の魔法でもない限り消すことは出来ない」
中禅寺さんが息を切らせながら、抑揚のない口調で言う。すると、阿南くんは少しだけ、顔をしかめた。
「なんだよ、随分冷たい言い方だな」
「現実的って言って欲しいわね。そんなことより、阿南くん、あなたの賭けは失敗だったわね……。だから、もっと前に記憶があいまいな間に、ヨハネスを始末するべきだったのよ」
「始末だなんて……何も知らないままのあいつを、殺せばよかったって言うのか? そんなこと、出来るわけないだろ?」
「まったく、妙なところで優しいんだから」
「もう言うなよ。言い争ったところで、ヤツの宿願は現実のものになりつつあるんだ。中野がこうなってしまった以上、ヨハネスは絶対に諦めない」
そう言って、阿南くんはわたしの腕に目を遣った。指先から袖口まで、そして、首の辺りもすでに、墨のように真っ黒に染まっている。黒の侵食はもうじき完成するんだと、わたしにも分かった。ヨハネスの言葉を借りるなら、その時わたしの心はなくなって、真の器に変わる。それは、すべてわたしが招いた結果なんだ。
「今は、ヨハネスの追撃から逃げおおせることの方が、先決だ。ここで捕まっちゃったら、どうしようもない」
阿南くんは、ちらりと後ろを振り返った。雨に霞む道には、それらしき人影は見止められない。だけど重い気配だけがひたひたとわたしたちを追いかけて来ているような、そんな漠然とした感覚にわたしたちは囚われていた。
「逃げるって何処へ逃げるの?」
と、中禅寺さんも、後ろを振り返って、ヨハネスの気配をうかがう。
「この先の交差点を曲がって、中野の家に戻ろう。あの森なら、進入禁止の結界を張りやすいはずだ。あの森は、四色の精霊、つまり白の元素が集まりやすい場所だ」
「そうね、前世のトーコが傷ついた羽根を休める拠点に選んだ場所だもの……。それから、どうする?」
「俺はもう一度、記憶を封じる魔法をあいつにかけてみる。もっとも、俺の乏しい魔力じゃ、時間稼ぎにしかならないと思うけどね」
「分かった。じゃあ、その間にわたしは中野さんの、黒の侵食を止める手立てを探す。中野さん家の本と、母が残してくれた本を当たれば、きっと何か見つかるはず。『生命の魔法書』と『器』、それら含めて、後の対応は、後で考えましょ」
中禅寺さんがそういうと、阿南くんはこくりと頷く。わたしはその話から、蚊帳の外に放り出されたような状態で、二人の阿吽の呼吸に、舌を巻いた。
知らなかった……。占い好きで有名な、中禅寺さんが「ワルブルガの魔女」の娘だということも、阿南くんがわたしと同じ、前世の魂を受け継いだ、転生者だということも。考えてみれば、阿南くんがゲシュペンストに追いかけられたあの夜、わたしの脳裏に呼びかけた声は中禅寺さんの声で、そして彼女はわたしを助けてくれたのではなくて、「生命の魔法書」を持って逃げる阿南くんを護衛していたんだ。
二人は、きっと何もかも知っている。知っていて、どうしてわたしには秘密にして、陰で動いていたのか。阿南くんが何で魔法書を持っているのか。その青銅色の剣は何なのか。阿南くんの前世だと思われる「ユストゥス」って誰のことなのか。ヨハネスの宿願と、彼女が言った「グレートヒェン」って何なのか。わたしは、一体何者なのか。
ぼんやりとした頭じゃ、どの疑問にも推測さえ立てられない。あらゆる謎が、こんがらがって、どうやっても解く方法が見つからない。せめて、それらを二人に問いただせたらいいんだろうけど、その時のわたしは、ヴェステンを失った絶望と、黒の侵食による空虚の中で、ただ、無機的に足を動かすことしか出来なかった。
「ああ、中野の親父さんになんて説明したらいいんだ! 魔法、とか言ったって信じてもらえないだろうしっ」
雨に濡れた髪をばさばさとかきながら、阿南くんが唸る。わたしは、自然と脱力するように足を止め、それに驚いた中禅寺さんが、まるでヴェステンがそうしてくれるように、わたしの顔を覗き込んだ。
「中野さん?」
「二人とも、ありがとう……。ヨハネスの狙いは、わたしなんでしょ? だったら、わたしを置いて逃げて」
口から発した言葉は、自分でも分かるくらい弱々しくて、雨の音にかき消されそうだった。
「全部わたしが悪いんだ。お母さんが死んだのも、お母さんの仇をとろうとして黒の魔法に頼ったのも、だから、ヴェステンもイルリヒトも居なくなっちゃった。わたしさえ居なければ、ヨハネスは、願いをかなえられない。わたしさえ、居なければ」
「それは、ちがうよ。例えお前が居なくても、ヨハネスは代わりの器を探す。それに、何度も新しい命に転生して、ここにこうして中野東子という女の子が居るのは、誰も自分さえ居なければいいなんて思わなかったからだ。ヨハネスに光の道を教えられるのは『ヘレネー』の生まれ変わりであるお前だけなんだよ。それに、お前が居なくなったら、俺もクラスのみんなも悲しむ……綾だって」
阿南くんがわたしに微笑みかけた。すっかり肩を落としたわたしに対する憐れみとか慰めのつもりなんかじゃなく、ただ優しくわたしを勇気付けようとしてくれる。それは、まるで絶望という谷底へ叩き落されたわたしに、手を差し伸べてくれるみたいだった。
「それに、あなたが死ぬために、前世のあなたを逃がして、わたしの母はフェルドに閉じ込められたんじゃない。心を強く持って、闇に打ち勝って。世界を混沌から守れるのは、わたしたちだけなのよ。あなたは一人じゃない」
中禅寺さんもわたしに温かな笑顔をくれる。そんな二人の優しい友達スマイルに、憎悪に囚われて全部失ったと思っていた心が、僅かに温かみを取り戻したような気がした。いつまでも、暗闇のトンネルの中に居ちゃいけない……後ろを振り向いちゃいけない。歩け、わたし。ヴェステンにせっつかれない様に、歩け。
「ごめん、ちょっと弱気になった。大丈夫、わたし歩けるから」
と、わたしは言うと、中禅寺さんの肩から手を離した。そして、ふらつく脚で、自分の足でアスファルトを踏む。よろけそうになっても、阿南くんの手が、想像よりも大きな男の子の手が、しっかりとぎゅっと、わたしの黒く染まった手のひらを握ってくれる。
大丈夫、わたし歩けるから……。
憎悪の文字がぴたりと止まる。そして、反転していくように、文字が解け始めた。一歩、一歩、歩くごとに、文字は消え、わたしの体はもとの色に戻っていく。わたしに黒の魔法を遣わせまいと、ヴェステンが噛んだ歯型がきゅんと痛む。
やがて、雨に煙る街道を逸れ、繁華と住宅街を川沿いの対岸に望みつつ迂回する道を歩き、見慣れた田園風景にまで戻ってくる頃には、わたしの体から憎悪の文字はきれいに消え去っていた。
目の前には我が家を囲む森。底にぽっかりと口を開く、舗装もされていない道が続く。阿南くんたちが話していた通りだとすれば、始めてみたときホラーに感じたこの森は、もっと神聖な場所だといえる。白の魔法の元となる、四つの色と精霊。白の魔法は、優しさや思いやりの心で、『火』『水』『風』『土』の精霊の力を借りる魔法。それらが集まる場所は、ヨハネスの言葉を借りるまでもなく、パワースポットということになる。
「お父さんには、わたしから説明する。魔法のことも、ヴェスのことも。でも、わたしの知らないことを、全部教えて欲しい」
森の入り口で足を止めて、二人の友達の顔を交互に見つめて、わたしは言った。二人は「分かった」と短く返し、そろって頷いた。わたしには、事の真相を知る権利と義務がある。それは、トーコの生まれ変わりとしてではなくて、わたし自身がこの先も続くトンネルを潜り抜ける道標がほしいんだ。何も知らないままじゃ、怖くてまた前に進めなくなってしまうかもしれない。そうなることは、もっと怖い。
「よし、行こう」
阿南くんの声を合図に、わたしたちは森の道に足を踏み入れた。もう何度も通った道なのに、何故かはじめて通るときのような緊張感がわたしを包み込む。
と、森の木々を叩く雨の音に混じって、奥から誰かの足音が聞こえてくる。お父さん? わたしは暗がりに目を凝らした。違う。もっと軽快な足音だ。「下がって」と、阿南くんと、中禅寺さんがすばやくわたしの前に出て、わたしを守るように、剣とカードを構えた。それでも、足音は止まることなく徐々に近づいてきて、暗がりにその姿がはっきりとしてくると、わたしたちは一様に驚かなければならなかった。
「ソフィ!?」
森の奥から現れたのは、何故か傘を差さずに、ふわふわした金色の髪を雨にぬらしたソフィだった。わたしは、ほっと胸をなでおろして、「どうしたの? こんな夜更けに」と口にしながら、ゆっくり祖父居に近づこうとした。すると、突然に阿南くんがわたしを制する。
「待った! 様子がおかしい……」
阿南くんの顔が再び険しく曇り、片手で構えるノートゥングの柄に力がこもる。確かに阿南くんの言うとおり、いつも透明に輝くソフィの青い瞳が、何故か赤く見える。それだけじゃない、両腕を気だるくだらりとしていて、顔に生気が感じられない。ソフィはとても大人しい女の子で、表情の起伏が激しい子じゃないけれどその顔は、無表情と呼ぶには、あまりにも異常な翳を帯びていた。
「来るわっ!」
中禅寺さんが叫ぶと同時に、わたしと阿南くんは顔を見合わせた。その瞬間、ソフィは両手を高く掲げた。そして、鈴が鳴るのような、たしかにソフィの声で、聞いたこともないような言葉を空に向けると、一際ソフィの瞳が真っ赤に輝いた。
すると、わたしたちの足元に、一瞬にして青白い光の魔法円が画かれる。それは、どんな魔法の魔法円とも違う。見たこともない文字。見たこともない図形が組み合わさり、複雑な紋様を描き出していた。
「まずいっ! 夢幻の魔法円だ! なんで、ノルデンがっ!?」
阿南くんが叫んだ声が先だったか、魔法円から眼も眩むような閃光が瞬いたのが先だったか、いずれにしてもわたしたちは一瞬で、閃光の中に吸い込まれていった。それは、頭痛や眩暈に似た感覚。足元が不確かになり、空に浮いているのか、それとも地上に落下しているのか良く分からない感覚。どちらかと言えば、夢の中に良く似ているような気がした。意識が遠くなる中で、わたしはあの魔法円に良く似たものを以前一度だけ見たことがあるのを思い出した。あれは、いつだったっけ……。思い出す前に、わたしの意識は魔法円から発した閃光の中に、吸い込まれていった。
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